「麗華ねーちゃん!悟浄におかわり持ってきてやって!」
よく通る悟空の声に、朝の食堂に賑やかさが増す。
通常、ここに宿泊して森を迂回するコースを辿っていた旅人たちも、森を突っ切る事が出来ると聞き明るい表情を見せていた。
「いいって。俺は別にもう」
体力の落ちた悟浄にいろいろと食べさせたいのか、悟空は先程からあれこれと山のように注文しては悟浄を困らせていた。悟浄が戸惑っている間にも、どんどんと目の前の皿は増えていく。
「いーから食えってば。美味いだろ、ここの朝飯。あ、ねーちゃん、ついでに俺のも!」
はーい、という涼やかな声が、厨房の奥から響く。
「‥‥いつも、そんな感じなのアンタ」
「悟空」
「あ?」
「俺の名前。そろそろ"アンタ"じゃなくて"悟空"って呼べよ」
「‥‥悟空?」
悟浄が反芻すると、悟空は嬉しそうに笑った。何故か無性に眩しく思えて、悟浄はつい目を逸らした。
決死の大脱走から三蔵に連れ戻されて、数えて三日。
少しは落ち着いたのか今では逃げる素振りを見せなくなった悟浄は、大人しく八戒の治療を受け、食事も普通に摂るようになっていた。
悟空は折を見ては、悟浄に自分達にまつわる話を聞かせている。だが出会いから現在に至るまでの様々な出来事はまるで他人事で、悟浄にはまったく実感が持てなかった。
『岩牢?ごひゃくねん?声が聞こえたぁ?んだよ、そのうっさんくせー話』
三蔵と悟空の出会いのくだりでは、悟浄が鼻で笑い飛ばしたため危うく悟空と乱闘になるところだった。他にも八戒が人生の途中から妖怪の仲間入りをしたとか三蔵が最高僧だとか、悟浄にしてみれば信じがたい話が満載だった上に、悟空の話も順序だってはいなかったので、却って混乱する事もままあった。だが、三蔵と八戒はそれでも説明役には悟空が適任だと判断したようだった。
「八戒のことも、ちゃんと名前で呼べよ?分かるよな、八戒?」
「怪我、治してくれた人だろ」
「そーそ。けど気ィつけろ、優しそーな顔してっけど、スゲー怖ぇ時もあっからな。勝手なコトするとすーぐ捕まって説教食らうぞ」
「‥‥‥‥知ってる」
数日前のあの夜。
他人の腕の中で思い切り泣いた気恥ずかしさから、僧侶についてここに戻るのにも、少し離れて歩いた。僧侶は一度も後ろを振り返らなかったが、悟浄が歩く速度を落とすと、合わせるように僧侶もゆっくりとした歩調になっていたから、悟浄を気に掛けていたのは間違いない。何だか居た堪れない気分になりつつトボトボと宿に戻ると、待ち構えていた翠の瞳の青年にこっぴどく叱られたのだ。
「じゃあ、三蔵も――――」
「関係ねぇよ」
その名前を持ち出されたところで、聞きたくないとばかりに悟浄は悟空の言葉を遮った。
「アイツの事なんか、呼ぶことねぇし」
ワザと突き放すように口にすると、目の前の金の瞳が哀しげに揺らいだ。さっきまでの元気はどこへいったのやら、途端に肩を落とす悟空に、悟浄は何だか自分がとんでもない悪人になったかのような気がする。
一応、何故僧侶が自分にあんな事をしたのかはしつこい程に説明もされたし、とりあえず殺すつもりではなかったようだと理解はしたつもりだが、だからといって、直ぐに親しく振舞えるわけでもない。更に、数日前の自分の醜態を考えると、恥ずかしくてとても冷静に僧侶の顔を見られそうになかった。
他人の腕に抱きしめられて自分が泣いたのが、今でも信じられなかった。
恥ずかしくて悔しくて、それでももう一度、あの温かさを望んでいる自分に気付いた時にはショックだった。
だが幸いな事に、あの日以来、悟浄はあの僧侶と会ってはいない。別に避けているわけではない。僧侶が部屋から出てこないだけだ。
僧侶は悟浄を連れ戻した夜に、部屋で倒れたのだった。
原因は、過労と怪我による発熱。
極度の精神的疲労に加え、目覚めてからも八戒の手当てを拒み、酒を飲んで動き倒していたツケが一気に身体に回ってきたらしい。
食事もろくに摂らないので困ると、八戒が悟空に愚痴を零していたのを悟浄も聞いた。流石に今度ばかりはと八戒が強行に治療したのだが、一度上がった熱はなかなか下がらなかった。しかしながら、正直どんな顔をして僧侶と顔をあわせればいいのか分からなかった悟浄は、助かったと内心安堵していたのだ。
だが、今日という今日は、逃げられそうもなかった。何とか動けるまでに回復した僧侶は、朝早くからリハビリと称して散歩に出かけたらしい。
雨は上がっているとはいえ、いつ降り出してもおかしくない不安定な雲行き。すぐに戻ってくる筈だ。
「俺、もう部屋に戻る。ごっそさん」
悟浄は残っていた茶を一気に飲み干し、そそくさと食器を重ねる。
僧侶が姿を現す前に自分の部屋に篭りたい悟浄は、とりあえず悟空との会話を打ち切ろうと必死だった。だが、悟空は立ち上がりかけた悟浄の腕を押さえるように取る。
「三蔵と話してくれよ」
「‥‥‥」
「話せば分かるって。三蔵は、悟浄の事しか見てねぇし、悟浄が好きだから、一番大事だから、悟浄を助けたくて、本当にそればっかで」
「‥‥‥」
「本当は悟浄だってわかってんだろ?だからこないだ三蔵と一緒に戻っ――――」
「‥‥‥?」
急に言葉を切った悟空に、悟浄は何事かと視線を向けた。
悟空は、悟浄を見ていなかった。視線は、悟浄の後ろの壁に突き刺さっている。
「ヤな感じがする‥‥‥」
一点を見つめながら呟く悟空に、どうしたのかと悟浄が問うより先に、大きな音を立てて悟空は立ち上がった。
「―――三蔵がヤバい!悟浄はここにいろよ!――――八戒、八戒!!」
大声で八戒を呼びながら、悟空は食堂を飛び出していった。
まるで突然の嵐のような出来事に、後には、呆然とした悟浄だけが取り残された。
「な、何なんだよ、一体‥‥‥」
何が起こったのか、悟浄には全く理解できない。
悟浄はしばらく呆けたように悟空の出て行った扉を眺めていたが、やがて何かを思いついたのか、自らも立ち上がった。その様子を目敏く見つけた麗華が、焦った表情で厨房から顔を覗かせる。
「悟浄さん何処に行くの?ここにいなさいって悟空さんも」
「大丈夫、ちょっと歩いてくるだけ。俺も身体動かさなきゃ」
「でも、」
「おーい、こっち飯まだかい?」
「あ、はい。ただいますぐに!」
突然に他の客に呼ばれ、麗華は慌てて部屋の反対側に顔を向けた。
「とにかく、もうすぐここも落ち着くから、そしたら私と一緒に――――」
麗華が悟浄を引きとめようと振り返ったときには、悟浄は既にその場から消えていた。
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