Give and Take(14)
雨ばかりの空もたまには小休止といったところか、今夜は、珍しく星が出ていた。 あの狂った妖怪がいた頃も、いなくなった今も。 ―――――無論、一部に例外は存在していたが。
ぱしゃん。
小さな水音が静寂を破った。
ある日突然、目が覚めたら知らない大人たちに囲まれていた。 ――――ワケわかんねェよ、もう。 二日ぶりに僧侶の顔を見た途端、怒りの衝動のままに殴りかかったが、他の誰かに邪魔された。つい先ほど部屋で目覚め、自分が気を失わされていたことを知ったのだが、珍しくそこには誰もいなくて、悟浄は初めて逃亡という選択肢を思いついたのだった。 何故、急に逃げ出そうと思ったのかは分からなかったし、何故、今まで逃げなかったのかも、もう忘れてしまった。 だがもう、どうでもいい。どのみち大した理由じゃない。 衝動に突き動かされるままに、足を動かす。 ――――ナンだよ、体力ねぇ身体だな! しばらく続いた絶食状態。おまけに妖怪に負わされた怪我、と、自分の体力がかつてないほどに落ち込んでいる状態だと悟浄が自覚できないのも無理はない。 (ヘ、ヘ‥‥。ざまぁみろ) 誰についた悪態か、ぜぇぜぇと荒い息を整えながら、先へ進もうと一歩を踏み出しかけた悟浄の足が、ひたと止まった。前方の木の影から覗く、赤い炎の点。 誰かが、煙草を吸っている。 悟浄が動けずにいると、やがて炎の点は地面へと落下し、踏みにじられて消えた。突然現れた黄金に、月明かりがきらきらと反射する。思わず見とれたまま、呆けた声が漏れた。 「――――何で‥‥」 声が震えてしまうのを押さえられなくて、悔しい。 「ここに出るのは分かってたからな。近道しただけだ」 息ひとつ乱していない低い声が、僧侶がかなり前からこの場に辿り着いていたことを伺わせる。白い指が指し示す方向に悟浄が目を走らせれば、かなりの急斜面ではあったが、町からこの場へ真っ直ぐに続く道が白く浮き上がっている。まるで、散々遠回りした悟浄をあざ笑うかのように。 「‥‥‥帰るぞ。どうせまたすぐに降る」 風と共に星々を隠し始めた雲を仰ぎ見て、僧侶が呆然と佇む悟浄の脇を通り抜けた。悟浄の耳にドサリと乾いた音が届いたと思ったら、自分がへたり込んだ音だった。 「チクショ‥‥‥」 地に爪を食い込ませ、立ち上がろうとしない悟浄の襟首を、僧侶が掴み立ち上がらせようとする。悟浄が思い切りその手を振う音が、静かな空間に響き渡った。 「触んな!!!」 再び手を伸ばしてくる相手を、脅えた獣がそうするように、悟浄は精一杯の威嚇を込めて睨みつけた。 「触んな触んな触んな!!」 それでも見つめ続けてくる僧侶の視線に耐え切れず、感情の昂ぶりのままに悟浄は地面を殴り始める。 「畜生、畜生‥‥‥!!馬鹿にして‥‥!馬鹿にしやがって!」 地面を叩きつけながら、悟浄が喚く。 「馬鹿になんかしてねぇ―――」 僧侶の否定の言葉を、悟浄は顔も上げずに遮った。 「じゃあ、何であんなこと言ったんだよ!知ってたんだろ!?俺が母さんに殺されかけたって、知っててあんなこと言ったんだろ!?馬鹿にしたんじゃなきゃ、何なんだよ!!」 僧侶が、黙り込んだ。 「期待するだけ馬鹿だって‥‥‥。笑ってたんだろ‥‥‥」 肩も指も、声も。何もかもが震えているのが自分でも分かる。 「母さんが俺なんか見てくれるハズがないって知ってて、笑ってたんだろっ‥!!」 悟浄は矢継ぎ早に捲くし立てた。何かを叫んでいないと、抑えていたものが溢れ出しそうだった。 「なんなんだよ、ちくしょー!!ばかやろー!!ばか‥‥」 言葉が、途切れた。 突然目の前に広がる黄金に、一瞬呼吸を忘れる。温かいものに包まれた感触を遅れて認識し、悟浄の身体は強張った。 「え‥‥?あ‥」 我に返るまでに、少しの間があった。 「はな‥‥、はなせっ!」 悟浄が暴れる度に、僧侶が眉を顰めている事に悟浄は気付かなかった。悟浄に突き飛ばされた折に負った傷が、まだ癒えていないのだ。だが、僧侶は悟浄にそれを気取られまいとしているらしく、悟浄は僧侶の思惑通り、ひと欠片の遠慮もなく存分に暴れまくった。 「泣きてぇなら、無理するな」 何とかして僧侶を引き剥がそうと躍起になる悟浄の頭を抱え込むように、僧侶は腕に力を込めてきた。 「ここには、俺たち以外、誰もいない。誰も見ていない」 それこそ幼い子供に言い聞かせるような口調で、僧侶が静かに告げる。 「こうしてれば、俺にも見えない」 悟浄の頭を自らの胸に押し付け、僧侶は悟浄の長い髪に顔を埋めた。確かに、そうすれば互いの顔は見えない。 「だから、泣いてもいい。俺は見ない」 悟浄ははっとしたように目を見開いた。
『泣いてもいい』
本当はずっと誰かに言ってもらいたかった言葉を、どうしてこの男が口にするのだろう。どうして今、言うのだろう。 与えられた抱擁。 「悟浄」 耳に届く呼びかけにも顔を上げることなく、僧侶の胸に顔を押し付けたまま返事する。くぐもった声が、悟浄が泣いていることを僧侶に知らせているだろう。 「すまなかった」 こんなに素直に謝罪する三蔵を見れば、恐らくは『悟浄』は目を丸くするだろう。だが、『熱でもあんの?』と茶化す姿は、当然ながらどこにもなかった。 「‥‥‥‥‥大っ嫌い、だ、アンタ、なんか」 一際強い力を込められ、悟浄は僧侶に抱き締められた。宥めるように背中をさすってくる手が優しくて、堪えきれない嗚咽がつい溢れてしまう。こんなに泣いた事など、今までになかった。しかも、あれほどに憎いと思っていた男の腕の中で。
あの時を思い出す。 けれど。 突き飛ばす直前。悟浄は咄嗟に力を加減していた。 僧侶の表情の意味も。 しかし、今はこの温もりにどうしても抗う事ができない。身体に回された腕を振り払えないままに、時が過ぎる。
結局、涙が完全に乾くまで、僧侶はしっかりと悟浄を抱きしめてくれていた。
―――――温かかった。
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ようやく悟浄さんと三蔵様のツーショットです。
少し近付いたかな…?ふう。