Give and Take(14)

雨ばかりの空もたまには小休止といったところか、今夜は、珍しく星が出ていた。
翌日の仕込みのためだろう、ほんの数件の料理屋兼飲み屋から明かりが漏れているほかは、星の瞬きを消し去る人工的な光はどこにもない。殆どの人々が寝静まり、明日の訪れを待っている。
妖怪が倒され、この数日浮かれていた付近の住人たちも、ようやく熱が冷めたのか普段の暮らしに戻っていった。

あの狂った妖怪がいた頃も、いなくなった今も。
人々の暮らしは何一つ変わらず、毎日が過ぎていく。

―――――無論、一部に例外は存在していたが。

 

 

 

ぱしゃん。

 

小さな水音が静寂を破った。
音の発生源となった人物は、慌てた様子で周りを見回した。足元の水溜りからそっと足を引き抜き、再び駆け出す。ぬかるんだ地面は滑り易く、何度も足を取られそうになりながら、その人影はひたすらに町の外を目指していた。
淡い月の光に照らされた紅い髪が、さらりとなびいた。

 

ある日突然、目が覚めたら知らない大人たちに囲まれていた。
記憶がおかしなことになっていると説明され、四六時中誰かが側に居た。
その中に居た僧侶に義母の死を告げられ、頭が割れるように痛くなった。いや、間違いなくあれは、『痛くさせられた』のだ。何とか、死ぬのだけは免れたけれど。
そして後になり、僧侶の嘘を知った。

――――ワケわかんねェよ、もう。

二日ぶりに僧侶の顔を見た途端、怒りの衝動のままに殴りかかったが、他の誰かに邪魔された。つい先ほど部屋で目覚め、自分が気を失わされていたことを知ったのだが、珍しくそこには誰もいなくて、悟浄は初めて逃亡という選択肢を思いついたのだった。

何故、急に逃げ出そうと思ったのかは分からなかったし、何故、今まで逃げなかったのかも、もう忘れてしまった。

だがもう、どうでもいい。どのみち大した理由じゃない。
それよりも。
どこでもいい、どこか遠くへ。
あいつのいない、どこかへ。

衝動に突き動かされるままに、足を動かす。
だが、思うように動かない身体への違和感に、悟浄は戸惑っていた。反応速度は鈍くは無いが、小回りが利かない。身体が大きくなった分、力が強くなった代わりに身軽さが失われたようだった。しかも、すぐに息が上がり足がふらつく。

――――ナンだよ、体力ねぇ身体だな!

しばらく続いた絶食状態。おまけに妖怪に負わされた怪我、と、自分の体力がかつてないほどに落ち込んでいる状態だと悟浄が自覚できないのも無理はない。
苦しい心臓を騙し騙し、闇雲に走り回ることしばし。町から裏手の山に入っても、悟浄は足を止めなかった。見晴らしのいい丘になったところで、ようやく一息つく。いつの間にか、町は眼下に小さくなっていた。

(ヘ、ヘ‥‥。ざまぁみろ)

誰についた悪態か、ぜぇぜぇと荒い息を整えながら、先へ進もうと一歩を踏み出しかけた悟浄の足が、ひたと止まった。前方の木の影から覗く、赤い炎の点。

誰かが、煙草を吸っている。

悟浄が動けずにいると、やがて炎の点は地面へと落下し、踏みにじられて消えた。突然現れた黄金に、月明かりがきらきらと反射する。思わず見とれたまま、呆けた声が漏れた。

「――――何で‥‥」

声が震えてしまうのを押さえられなくて、悔しい。
今まで気配すら感じられなかった男が、ゆっくりと、木陰から姿を現した。
一番会いたくなかった相手。視界から追い出したくて仕方なかった相手。
なのに気が付けば、いつも頭のどこかに存在を主張している相手。
金の髪をもつ僧侶が、今、悟浄の目の前に立っていた。

「ここに出るのは分かってたからな。近道しただけだ」

息ひとつ乱していない低い声が、僧侶がかなり前からこの場に辿り着いていたことを伺わせる。白い指が指し示す方向に悟浄が目を走らせれば、かなりの急斜面ではあったが、町からこの場へ真っ直ぐに続く道が白く浮き上がっている。まるで、散々遠回りした悟浄をあざ笑うかのように。

「‥‥‥帰るぞ。どうせまたすぐに降る」

風と共に星々を隠し始めた雲を仰ぎ見て、僧侶が呆然と佇む悟浄の脇を通り抜けた。悟浄の耳にドサリと乾いた音が届いたと思ったら、自分がへたり込んだ音だった。

「チクショ‥‥‥」
「早く来い」

地に爪を食い込ませ、立ち上がろうとしない悟浄の襟首を、僧侶が掴み立ち上がらせようとする。悟浄が思い切りその手を振う音が、静かな空間に響き渡った。

「触んな!!!」

再び手を伸ばしてくる相手を、脅えた獣がそうするように、悟浄は精一杯の威嚇を込めて睨みつけた。

「触んな触んな触んな!!」

それでも見つめ続けてくる僧侶の視線に耐え切れず、感情の昂ぶりのままに悟浄は地面を殴り始める。

「畜生、畜生‥‥‥!!馬鹿にして‥‥!馬鹿にしやがって!」

地面を叩きつけながら、悟浄が喚く。

「馬鹿になんかしてねぇ―――」
「嘘つけっ!」

僧侶の否定の言葉を、悟浄は顔も上げずに遮った。

「じゃあ、何であんなこと言ったんだよ!知ってたんだろ!?俺が母さんに殺されかけたって、知っててあんなこと言ったんだろ!?馬鹿にしたんじゃなきゃ、何なんだよ!!」
「―――――」

僧侶が、黙り込んだ。
荒い息を吐きながら悟浄は俯き、いつの間にか地を叩くことを止めた手の先が、土に埋まっている。がりがりと幾筋もの跡を残していくのは、殆ど無意識だった。

「期待するだけ馬鹿だって‥‥‥。笑ってたんだろ‥‥‥」

肩も指も、声も。何もかもが震えているのが自分でも分かる。
大笑いだ、みっともねえ。悟浄は俯いたままで自嘲した。けれど、泣くわけにはいかなかった。こんなことで、泣くわけにはいかなかった。泣いたら、負けなのだ。
だから、悟浄は声を張り上げた。今は、怒りだけでいい。自分で決めたその一線を、越えるわけにはいかない。それだけは。そこだけは。

「母さんが俺なんか見てくれるハズがないって知ってて、笑ってたんだろっ‥!!」

悟浄は矢継ぎ早に捲くし立てた。何かを叫んでいないと、抑えていたものが溢れ出しそうだった。

「なんなんだよ、ちくしょー!!ばかやろー!!ばか‥‥」

言葉が、途切れた。

突然目の前に広がる黄金に、一瞬呼吸を忘れる。温かいものに包まれた感触を遅れて認識し、悟浄の身体は強張った。
僧侶が、悟浄の身体を抱きしめていた。

「え‥‥?あ‥」

我に返るまでに、少しの間があった。
慣れない温かな感覚に悟浄は混乱して、僧侶の腕から逃れようともがく。

「はな‥‥、はなせっ!」

悟浄が暴れる度に、僧侶が眉を顰めている事に悟浄は気付かなかった。悟浄に突き飛ばされた折に負った傷が、まだ癒えていないのだ。だが、僧侶は悟浄にそれを気取られまいとしているらしく、悟浄は僧侶の思惑通り、ひと欠片の遠慮もなく存分に暴れまくった。
だが、細い身体のどこにそんな力があるのか、僧侶の腕は緩まない。

「泣きてぇなら、無理するな」
「だ、誰が‥‥‥!泣くわけ、ねーだろ!いいから離せよっ!」

何とかして僧侶を引き剥がそうと躍起になる悟浄の頭を抱え込むように、僧侶は腕に力を込めてきた。

「ここには、俺たち以外、誰もいない。誰も見ていない」

それこそ幼い子供に言い聞かせるような口調で、僧侶が静かに告げる。

「こうしてれば、俺にも見えない」

悟浄の頭を自らの胸に押し付け、僧侶は悟浄の長い髪に顔を埋めた。確かに、そうすれば互いの顔は見えない。

「だから、泣いてもいい。俺は見ない」

悟浄ははっとしたように目を見開いた。

 

『泣いてもいい』

 

本当はずっと誰かに言ってもらいたかった言葉を、どうしてこの男が口にするのだろう。どうして今、言うのだろう。

与えられた抱擁。
忘れかけていた人肌の温もり。
戸惑いと焦りと怒りと恐怖と―――不思議な安堵感とに包まれて、悟浄は目覚めてから初めて、自分の心を満たしていた心細さを認めた。
いつの間にか、暴れるのを止めていた。代わりに、視界が徐々に滲んでくる。
あんな言葉ひとつで、と悟浄は自分の単純さに呆れたが、もう涙を止めることはできなかった。
僧侶からはほんのりと酒の匂いがした。だが、何故か悟浄はそれを不快だと思わなかった。

「悟浄」
「‥‥‥ん、だよ」

耳に届く呼びかけにも顔を上げることなく、僧侶の胸に顔を押し付けたまま返事する。くぐもった声が、悟浄が泣いていることを僧侶に知らせているだろう。
情けなくて、悔しくて。殴り倒してやりたいと願った相手にどうして大人しく抱きしめられているのか、自分でも分からなかった。

「すまなかった」
「‥‥‥」

こんなに素直に謝罪する三蔵を見れば、恐らくは『悟浄』は目を丸くするだろう。だが、『熱でもあんの?』と茶化す姿は、当然ながらどこにもなかった。
僧侶の謝罪には答えず、悟浄は目の前の法衣でぐりぐりと顔を拭いた。

「‥‥‥‥‥大っ嫌い、だ、アンタ、なんか」
「‥‥ああ」
「絶対、仕返し、して、やる、かんな、‥‥」
「ああ、待ってる。―――だから、離れるな」

一際強い力を込められ、悟浄は僧侶に抱き締められた。宥めるように背中をさすってくる手が優しくて、堪えきれない嗚咽がつい溢れてしまう。こんなに泣いた事など、今までになかった。しかも、あれほどに憎いと思っていた男の腕の中で。

 

あの時を思い出す。
頭が痛くて。どうしようもなく痛くて。怖かった。殺されると思った。
痛みが途切れた瞬間、反射的に僧侶を思い切り突き飛ばしにかかった。無論、全ての力を腕に込めるつもりだった。

けれど。

突き飛ばす直前。悟浄は咄嗟に力を加減していた。
まるで僧侶の方が痛みを受けたような、苦しそうな顔をしていたから。

僧侶の表情の意味も。
自分の行動の意味も。
考えれば考えるほど、分からない事だらけだった。

しかし、今はこの温もりにどうしても抗う事ができない。身体に回された腕を振り払えないままに、時が過ぎる。

 

結局、涙が完全に乾くまで、僧侶はしっかりと悟浄を抱きしめてくれていた。

 

―――――温かかった。
 

 

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ようやく悟浄さんと三蔵様のツーショットです。
少し近付いたかな…?ふう。

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