Give and Take(13)
珍しく、雨の音がしない夜。 「今まで頭痛が起こらなかったのは何故だかわかりませんが、そのうちきっと―――」 三蔵が無言のままなのが気になったが、八戒は、構わずに喋り続けた。 「‥‥‥恐怖だ」 突然に発せられた三蔵の声に、八戒は首を傾げる。三蔵は僅かに八戒から視線をずらしたまま、酒を煽った。 「悟浄の心に残ってる事が、他にもあったって事だ」 三蔵からの拒絶。 「恐怖、ですか‥‥‥。何故もっと早く言ってくれなかったんですか」 いくら記憶を失くしている間の所業とはいえ、三蔵が悟浄を暴言まで浴びせて拒絶した事実は変えられない。常日頃から『絶対に手放さない』と公言して憚らなかった三蔵の言葉が違えられてしまった以上、悟浄の不信はかなり根深く刷り込まれてしまっている筈だった。 「でも」 気を取り直すように、八戒は声を励まして言った。 「少なくとも、記憶の後退はストップしましたし、時間は出来ました。何はともあれ、最悪の事態は回避できたと思います。‥‥‥焦るのはやめませんか。このままゆっくり、悟浄の記憶を取り戻す方法を探していきましょう。徐々に環境に慣らしていけば、悟浄だっていつまでも貴方に敵愾心を―――」 紛れもなく、正論だった。 「‥‥‥お前らには、それでも構わねぇのかもな」 ぽつり、と三蔵の零した言葉はようやく八戒に届く程の小さなもので、咄嗟に八戒は問い返していた。八戒の視線の先で、三蔵は自らのグラスに酒を注ぎ足し、ひと口含んだ。 「お前は。あいつが今までどんな経験をしてきたか、知っているか?」 三蔵から切り出された言葉の意味が掴みかね、八戒は黙り込む。 「今の精神年齢から、19歳で俺達と出会うまでの間‥‥。いや、それから後でもいい、一緒に暮らしていて、あいつが何を体験して、そこから何を感じ、どう受け止めてきたか、正確に理解できるか?」 八戒が慎重に言葉を選んで返すと、何故か三蔵は薄く笑って、そうだな、と頷いた。 「‥‥所詮、他人の事を全て知ることは不可能だ」 八戒はつい語尾を強くした。 「お前らは言ったな。記憶を失くしている間も、俺は俺だったと」 その通りだった。記憶を失くしていても、紛れもなく三蔵は三蔵だった。 無愛想で。 大切なものを自分で見つけ、取り戻そうとしたのだから。 「‥‥それは、俺が既に固体として成人した、確立された人格を失っていなかったからだ。ただ単に、外界と自分をリンクさせる部分のみ欠落した――――だから、記憶を失う前と同じ考え方をし、同じ奴を求めた」 八戒は、自分では酔ってはいないと思っていたが、実は思いのほか酔いが回っていたのか、時折視界がぐらつくような錯覚を感じる。それが酔いのせいではなく、これから語られるだろう三蔵の言葉を予期して動揺しているせいだとは、情けなくて認めたくはなかった。 「人格の形成は、環境や経験によって多大な影響を受ける。仮に、――――もし、仮にだ。このままの状態が続いて、これからの経験によって奴の人格が作られていくとしたら――――。今までとは全く異なる環境の中で、今までとは全く異なる経験を通じて、それが行われる事になる訳だ」 既に俺達と出会ってるって事自体、イレギュラーなんだよ。そう呟くと、三蔵は低く笑った。 「これから、奴の人格がどう決定されて、どんな『悟浄』が出来上がるのかは分からんが、その行き着く先に」 そこまで言うと、三蔵はグラスの酒を一気に煽った。 「――――俺がいるという保証はどこにある?」
「‥‥三蔵‥‥」 痛ましいことを聞いた。
八戒にも、ようやく理解できた。悟浄が三蔵を恐れるように、三蔵もまた、悟浄を恐れている。
今度は八戒が黙り込む番だった。
「俺が記憶を失くす前――――、悟浄の様子が変だった。けらけら笑って、急に距離を置こう、みたいな事を言い出してな」 三蔵の言葉に、八戒が目を瞠る。 「俺は焦って、奴を抱き寄せて‥‥‥。だがすぐに妖怪が現れた気配がして、奴は俺の手を振り切って駆け出した。あの時、俺が奴の手を放さなければ‥‥‥」 三蔵は自分の手をじっと見つめた。目の前には、あの時の光景が何度も繰り返し映し出されている。 「後悔ばかりだな‥‥‥俺は」 三蔵は、きつく手を握り締めた。
八戒にも、心当たりがあった。三蔵が記憶を失っていた時に、悟浄の真意を掴みかねて問い質した折に、悟浄から聞かされた言葉。 『三蔵の奴、何だか妙に焦ってて‥‥‥。あれ、なんだったのかなぁ』 思えば、それが全ての分岐点だったのかもしれない。 例え、選ぶ道はひとつしか許されていなかったのだとしても。 ――――ならば、乗り越えてもらうしかない。
「諦めるんですか?」 冷たいとすら感じる単語にはっとして、三蔵は八戒を見た。 『アキラメル?』 八戒の言葉を何度か反芻してみたが、三蔵にはそれが現実の単語としては認識できなかった。
思わず笑っていた。ただ無性に可笑しかった。最初から、手放す気などないくせに。 義母という切り札を失ってしまった今、悟浄の記憶を取り戻すための特効薬は、皆無といってもいい。八戒の言うとおり、時間をかけて悟浄と向き合うしかない。 もうこれ以上、後悔するわけにはいかない。 ―――こんな単純なことを忘れていたとはな。 自分の混乱ぶりの無様さに、笑いが止まらない。 「いいや」 ひとしきり笑うと、三蔵は静かに首を横に振った。 「すまんな、ただの愚痴だ。忘れてくれ」 半分笑いを含んだ口調になったが、八戒はふざけるなとは言わなかった。ただ、その射るようだった強い翡翠が、柔らかい光に変わっているのが見て取れた。 「いいですよ、たまには。ヘタレな三蔵様も」 久しぶりとも思える軽口に、どちらからともなくグラスを合わせる。 それからは、特に話をするでもなく二人は黙って酒を注ぎ合った。これから否応無く始まるだろう長期戦に、それぞれが思いを馳せた。
ふ、と、外で気配が動いた。 「おや‥‥どうやら、お出かけのようですよ?」 八戒が、仕方ないですねぇと笑った。
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きっと八戒兄さんは「たまには相談料金でも貰いましょうか」と思ってるに違いありません。