Give and Take(13)

珍しく、雨の音がしない夜。
だが、そんなことには関係なく、この町はいつも静かだ。元々、大きな声の持ち主とはいえない八戒だが、つい、必要以上に声を潜めてしまうのは、この静けさのせいだろう。

「今まで頭痛が起こらなかったのは何故だかわかりませんが、そのうちきっと―――」

三蔵が無言のままなのが気になったが、八戒は、構わずに喋り続けた。

「‥‥‥恐怖だ」
「?」

突然に発せられた三蔵の声に、八戒は首を傾げる。三蔵は僅かに八戒から視線をずらしたまま、酒を煽った。
そして語られた、三蔵の推測。悟浄が、三蔵に受けた拒絶を感覚的に覚えていて、思い出すのを恐れているらしいと。

「悟浄の心に残ってる事が、他にもあったって事だ」

三蔵からの拒絶。
それは幼少期のトラウマと相まって、悟浄の心に大きな傷を付けてしまったのだ。だから悟浄は、無意識に思い出すのを避けている。そう告げられ、流石に八戒の酒を飲む手が止まった。

「恐怖、ですか‥‥‥。何故もっと早く言ってくれなかったんですか」
「‥‥確証があるわけじゃねぇ。それにやっちまったもんは、消せねぇだろ」

いくら記憶を失くしている間の所業とはいえ、三蔵が悟浄を暴言まで浴びせて拒絶した事実は変えられない。常日頃から『絶対に手放さない』と公言して憚らなかった三蔵の言葉が違えられてしまった以上、悟浄の不信はかなり根深く刷り込まれてしまっている筈だった。
八戒は軽くため息をつく。同時に、三蔵が暴走した理由も納得した。生半可な刺激では悟浄の記憶を呼び戻せない事を、三蔵は知っていたのだ。
アルコールを一気に摂取したせいか、何となく息苦しさを覚え、八戒は喉元を覆う布地を引き下げてみる。だが、やはり息苦しさは消せなかった。

「でも」

気を取り直すように、八戒は声を励まして言った。

「少なくとも、記憶の後退はストップしましたし、時間は出来ました。何はともあれ、最悪の事態は回避できたと思います。‥‥‥焦るのはやめませんか。このままゆっくり、悟浄の記憶を取り戻す方法を探していきましょう。徐々に環境に慣らしていけば、悟浄だっていつまでも貴方に敵愾心を―――」

紛れもなく、正論だった。
悟浄に最も負担の少ない方法は、無理に思い出させる真似をしないことだ。それは三蔵も骨身に沁みて理解した筈だ。
時間を掛けて接していけば、悟浄も再び自分たちを受け入れるときが来るだろう。例え悟浄の記憶が戻らないままでも、一緒に行動していれば、いずれ三蔵への憎しみも薄れて。そして。
そして―――。

「‥‥‥お前らには、それでも構わねぇのかもな」
「え?」

ぽつり、と三蔵の零した言葉はようやく八戒に届く程の小さなもので、咄嗟に八戒は問い返していた。八戒の視線の先で、三蔵は自らのグラスに酒を注ぎ足し、ひと口含んだ。

「お前は。あいつが今までどんな経験をしてきたか、知っているか?」
「‥‥‥‥‥」

三蔵から切り出された言葉の意味が掴みかね、八戒は黙り込む。

「今の精神年齢から、19歳で俺達と出会うまでの間‥‥。いや、それから後でもいい、一緒に暮らしていて、あいつが何を体験して、そこから何を感じ、どう受け止めてきたか、正確に理解できるか?」
「それは‥‥本人でないとわからないでしょう」

八戒が慎重に言葉を選んで返すと、何故か三蔵は薄く笑って、そうだな、と頷いた。

「‥‥所詮、他人の事を全て知ることは不可能だ」
「三蔵―――。何が仰りたいんです?」

八戒はつい語尾を強くした。
要領を得ない問答のような会話は、不愉快だった。自分を煙に巻くつもりなら上等だ、と一瞬、剣呑な思考に陥りかけた八戒だが、三蔵の表情に、すぐその考えを捨てた。
三蔵の瞳は、真剣だった。いっそ、悲しいぐらいに。

「お前らは言ったな。記憶を失くしている間も、俺は俺だったと」

その通りだった。記憶を失くしていても、紛れもなく三蔵は三蔵だった。

無愛想で。
意固地で。
高飛車で。
―――そして、強かった。

大切なものを自分で見つけ、取り戻そうとしたのだから。

「‥‥それは、俺が既に固体として成人した、確立された人格を失っていなかったからだ。ただ単に、外界と自分をリンクさせる部分のみ欠落した――――だから、記憶を失う前と同じ考え方をし、同じ奴を求めた」

八戒は、自分では酔ってはいないと思っていたが、実は思いのほか酔いが回っていたのか、時折視界がぐらつくような錯覚を感じる。それが酔いのせいではなく、これから語られるだろう三蔵の言葉を予期して動揺しているせいだとは、情けなくて認めたくはなかった。

「人格の形成は、環境や経験によって多大な影響を受ける。仮に、――――もし、仮にだ。このままの状態が続いて、これからの経験によって奴の人格が作られていくとしたら――――。今までとは全く異なる環境の中で、今までとは全く異なる経験を通じて、それが行われる事になる訳だ」

既に俺達と出会ってるって事自体、イレギュラーなんだよ。そう呟くと、三蔵は低く笑った。
八戒は、口を挟まなかった。いや、挟めなかった。

「これから、奴の人格がどう決定されて、どんな『悟浄』が出来上がるのかは分からんが、その行き着く先に」

そこまで言うと、三蔵はグラスの酒を一気に煽った。

「――――俺がいるという保証はどこにある?」

 

「‥‥三蔵‥‥」

痛ましいことを聞いた。
きっと、自分はそんな顔をしてしまっているだろうと、八戒は思った。だが、表情を取り繕うことはできなかった。

 

 

 

 

八戒にも、ようやく理解できた。悟浄が三蔵を恐れるように、三蔵もまた、悟浄を恐れている。
今の悟浄は、身体はともかく中身は子供だ。三年前に出会った時の悟浄とも、どこか違う。それから現在まで付き合ってきた間にも、悟浄は少しずつ変わっていった。少なくとも、自分が欲しいと願う事を許容する程度には、変わった筈だった。
しかし、今の悟浄はその変化をすっかり失い、頑なに記憶を取り戻す事を恐れている。この状態のまま精神的に悟浄が大人になっていく過程を経るならば、もしかしたら、悟浄が三蔵を必要としない『悟浄』に成長するという可能性もないわけではないのだ。
時間を掛けて慣らし、悟浄から三蔵への不信が消えたところで、お友達になってしまっては意味が無いのだ。少なくとも、三蔵にとっては。

 

今度は八戒が黙り込む番だった。

 

「俺が記憶を失くす前――――、悟浄の様子が変だった。けらけら笑って、急に距離を置こう、みたいな事を言い出してな」
「――――」

三蔵の言葉に、八戒が目を瞠る。

「俺は焦って、奴を抱き寄せて‥‥‥。だがすぐに妖怪が現れた気配がして、奴は俺の手を振り切って駆け出した。あの時、俺が奴の手を放さなければ‥‥‥」

三蔵は自分の手をじっと見つめた。目の前には、あの時の光景が何度も繰り返し映し出されている。

「後悔ばかりだな‥‥‥俺は」

三蔵は、きつく手を握り締めた。
自身が記憶を失っていた間の事、悟浄が記憶を失ってからの事、全てが後悔の連続のように思えてしまう。
気弱になっている自分を、三蔵は自覚していた。

 

八戒にも、心当たりがあった。三蔵が記憶を失っていた時に、悟浄の真意を掴みかねて問い質した折に、悟浄から聞かされた言葉。

『三蔵の奴、何だか妙に焦ってて‥‥‥。あれ、なんだったのかなぁ』

思えば、それが全ての分岐点だったのかもしれない。

例え、選ぶ道はひとつしか許されていなかったのだとしても。
三蔵にとっても、悟浄にとっても、乗り越えなくてはならない何かへと続く道を、自らが選択したのだ。

――――ならば、乗り越えてもらうしかない。

 

 

「諦めるんですか?」

冷たいとすら感じる単語にはっとして、三蔵は八戒を見た。
 

『アキラメル?』

八戒の言葉を何度か反芻してみたが、三蔵にはそれが現実の単語としては認識できなかった。
そして、気付いた。
何だかんだ言っている割に、悟浄を諦めるという選択肢を自身が微塵も思い浮かべてすらいなかったことに。

 

思わず笑っていた。ただ無性に可笑しかった。最初から、手放す気などないくせに。

義母という切り札を失ってしまった今、悟浄の記憶を取り戻すための特効薬は、皆無といってもいい。八戒の言うとおり、時間をかけて悟浄と向き合うしかない。
ならば、三蔵がすべきことはひとつしかなかった。
あの時振りほどかれた腕を、再び掴み直せばいいだけのこと。

もうこれ以上、後悔するわけにはいかない。
だから、今度は離さない。二度と、振りほどかせはしない。自分のすべてをかけて。

―――こんな単純なことを忘れていたとはな。

自分の混乱ぶりの無様さに、笑いが止まらない。
三蔵がくつくつと肩を震わせると、手にしたグラスの中の液体も一緒にゆらゆらと揺れた。

「いいや」

ひとしきり笑うと、三蔵は静かに首を横に振った。
心の奥底で渦巻いていた得体の知れない暗雲が、すっきりと晴れていくような、そんな気分だった。

「すまんな、ただの愚痴だ。忘れてくれ」

半分笑いを含んだ口調になったが、八戒はふざけるなとは言わなかった。ただ、その射るようだった強い翡翠が、柔らかい光に変わっているのが見て取れた。

「いいですよ、たまには。ヘタレな三蔵様も」
「フン」

久しぶりとも思える軽口に、どちらからともなくグラスを合わせる。
乾杯を口に出す代わりに三蔵は、この人の心を読むに長けた友人に心の中で感謝した。どうやら、背中を押してもらったようだ。

それからは、特に話をするでもなく二人は黙って酒を注ぎ合った。これから否応無く始まるだろう長期戦に、それぞれが思いを馳せた。

 

 

 

 

ふ、と、外で気配が動いた。

「おや‥‥どうやら、お出かけのようですよ?」

八戒が、仕方ないですねぇと笑った。
三蔵はグラスを置くと、ゆっくりと立ち上がった。
 

 

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きっと八戒兄さんは「たまには相談料金でも貰いましょうか」と思ってるに違いありません。

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