Pandora(3)

「あ、アンタは知ってんのね、やっぱ」

伊達に歳はくってねーってか、と悟浄が屈託なく笑うのに、老僧が目を丸くしているのが楽しかった。一矢報いた気分になる。

禁忌の子供が総じて短命であるということは、途中立ち寄った街で耳にした。
もう顔も覚えてはいない心無い僧侶から浴びせられた現実だった。現在の自分の年齢まで生き永らえていることが、既に奇跡に近い確率であるということも、その時知らされた。

「アポトーシスっていうらしいじゃん?『細胞の自殺』か、上手いこというよな」

今まで、オタマジャクシの尾がなぜ自然に消えてしまうのかなどと、考えたことなどなかった。プログラムされた細胞死。そんなものが存在するなどと。
通常、アポトーシスは成長や発生と共に起こるものだが、禁忌の子供たちの場合には、再生は行われず細胞の死滅のみが進行していくらしかった。

悟浄がその事実を知ったとき、不思議と何の感情も湧かなかった。
やっぱフツーと変わったトコあったか俺様、と妙に納得した部分はあったが、自分でも驚くほど冷静に現実を受け入れた。最初から細胞に組み込まれている死。人間にも妖怪にも、生物ならば等しく与えられているそれが、普通よりも少し早く発現するだけのことだ。
そういえば最近妙に身体がダルいと感じることが増えた、と気付いたが放置している。
仕方がないのだ、何もかも。
完全に闘えなくなるまでどのくらいの猶予があるのか全く見当もつかない。せめて、少しでも長く旅を続けていられるよう願うのみだ。三蔵の側で、皆と共に。
三蔵には隠し通すつもりだった。
禁忌の子供は絶対数が少ない。高位の僧にその存在は知られていても、寿命に関してはあまり広まっていないことに安堵した。
 

「‥‥‥僧侶をお嫌いになられるのも無理からぬことですな‥‥」

悟浄がどういう経緯で自身の寿命に纏わる話を知ったのか殆ど話していないのに、驚くべきことに老僧は情報提供者について正確に察したようだった。まるで自らを責めるような沈痛な面持ちに、悟浄の方が心苦しさを感じてしまう。

「い、いやあ、それはあんまカンケーねぇし」

つい軽く返した言葉だったが、言外に、それ以上の嫌がらせを受けたと告白したも同然だった。皮肉と取られたかと一瞬悟浄は危ぶんだが、老僧は顔色ひとつ変えなかった。だからといって、この老僧が何も感じていない筈がないことは、悟浄には既に分かっていた。

「それよか、三蔵には余計なこと言わねーでくれよ?」

悟浄は殊更に明るい声で話題を変えたつもりだったが、老僧は表情を沈めたまま、ほう、とひとつ大きく、息を吐き出した。

「その必要はありますまい。‥‥‥既に三蔵殿はご存知であらせられましょう」
「‥‥は?」

老僧の言葉を上手く飲み込めず、悟浄は目をしぱしぱと瞬かせた。

「三蔵殿が休息もとられず書庫に篭られた理由‥‥‥これで合点がいきました。何故、当院にお立ち寄り下さったのかも」
「‥‥‥ちょっ‥」
「三仏神様を通じて、玄奘三蔵殿より『除霊のために立ち寄りたい』とのお申し出がありましたときには、何か特別なご事情がおありだろうとは愚察しておりましたが‥‥」
「ちょっと待てよ!」

焦った悟浄は声を荒げて老僧の言葉を遮った。

「宝物に何か取り憑いたから祓ってくれって、そっちが三蔵を呼びつけたんだろ!?」
「確かに宝物に取り憑いた物の怪はございましたが――――。我々の手元に戻ってきてからの不注意ですし、三蔵殿のお手を煩わせるほどのものではございませんでした。三仏神様にもそうご報告いたしましたよ」

ぐるぐると視界が回るような錯覚。気を抜くとこの場に倒れてしまいそうだった。

「だってよ‥‥‥、けど、じゃ、」
「慢気の謗りを恐れずに申し上げるならば、当寺院の蔵書は当代随一と自負しております。桃源郷中から集められた様々な文献、伝書、医学書がここにはございます。それを三蔵殿はご存知であったのでございましょうな」
「な、で―――?」
「貴方様を死なせないために。いや、共に生きるためにと申し上げた方が宜しいのか‥‥。どちらにせよ三蔵殿は必死に足掻いておられる‥‥」

老僧の言葉は、途中から聞こえなくなっていた。
 

三蔵は知ってた?一体いつから?

三蔵が本の虫になったのは、悟浄が僧侶から諸々を聞かされるずっと以前のことだ。その当時は何も知らない悟浄も三蔵の行動を気軽に揶揄していたものだったが、寿命に関する事実を知ってから三蔵の外出を咎める言動をとることは、矜持が許さなかった。残りの時間を少しでも多く三蔵と過ごしたいだなんて、格好悪くて言えるわけがない。

あんなに前から、三蔵は知っていたというのだろうか。
悟浄は全く気付かなかった。三蔵の悟浄に対する態度には、些かの変化もなかった筈だ。

―――いや、たった一度。

どこかの街で、やはり所用で寺に出かけていた三蔵が、殆ど泥酔状態で宿に戻ってきたことがあった。酷く酔っているくせに、やたらと悟浄に触れたがって。結局その日は酒臭い三蔵に抱きしめられて、鬱陶しい一晩を過ごしたのだ。翌日には酷い二日酔いで三蔵はいつにも増しての不機嫌だったが、以降特に変わった様子も見られなかったので他の三人の間では『よっぽど寺で嫌なことがあったに違いない』と簡単に流されてしまった。

そういえば、あれからだった。三蔵がやたらと書物や文献に拘るようになったのは。

悟浄にも、誰にも気付かせず。ひとりで。たったひとりで。
きっと三仏神にも頭を下げて。何だかんだと理由をつけて、やりたくもない仕事まで請け負って。禁忌の子供が生き延びる術を、ひたすら探して。探して。探して。
 

死を覚悟したときには無反応だった身体が、がくがくと震える。
叫びだしたい衝動に、悟浄は両手で口元を覆った。そうしなければ、込み上げてきたものが嗚咽となって溢れ出そうだった。顔に血が上っているのが分かる。

「クソ、坊主が‥‥」

言葉にならない言葉で、呟く。堪えきれずに視界が滲む。
俺のために。
俺なんかのために。

三蔵は選んだ。悟浄と共に最後まで行き抜く道を選び、そしてそれを諦めていない。なりふり構わず必死に足掻いてくれている。

なのに。
なのに、俺は。
なのに俺は、何もしないで。しようともしないで。

そのくせ、初対面の僧侶に縋った自分が許せない。
『アンタは平気なの?』
きっと、肯定の言葉を期待していた。
今まで他人の言葉など気にせずに生きてきた。だが、自分の死期が近いと知り、無性に自分以外の誰かに肯定して貰いたくなった。
三蔵の側に居てもいいのだと、誰かに言って欲しかった。
―――幸せに、死ぬために。
 

母の胎内の赤子の手の水かきが跡形もなく消えてしまうように、自分も消えてしまうのだろうか。床に服だけが散らばった部屋に足を踏み入れた三蔵たちは、一体どう思うだろうか。
実際にはじわじわと衰弱していくのだろうと予測しながらも、そんな馬鹿げた想像が頭から離れなかった。三蔵に抱きしめられる腕の心地よさを感じながら、悟浄は遠くないだろう自分の最期のときを常に思っていた。無論死ぬのは嫌だ。だが、そこには確かに諦めの感情があった。

仕方がない、と。
寿命だから、と。
運命なのだ、と。

『運命』なんて、かつては自分が一番嫌っていた筈の言葉なのに。いつの間に、俺は―――。
 

口元を覆う手の指先に、雫を感じる。
抑えきれない想いが、瞳から流れ、嗚咽となって指の間から漏れ出てしまう。
顔を上げるどころか、瞼すら開けない。無様だなと思う。そんな悟浄の姿を、側で老僧が見ている筈だった。だが、もう誰にどう見られても構わなかった。どんなにみっともなくとも、例え地べたを這いずってでも。

生きたい。
生きたい、生きたい、生きたい―――!
生への執着というものを、生まれて初めて悟浄は感じていた。

 

 

不意に、ぐらりと身体が傾いだ。

「あ‥‥?」

悟浄は老僧に抱きしめられる格好になっていた。
ぽんぽん、とあやすように背中を叩く掌が、とても優しい。一定のリズムで繰り返されるそれは、悟浄を堪らない気分にさせた。ぶわっと一気に熱いものが込み上げてくる。
自分よりも遥かに小柄な筈の老僧の胸は、自分のものよりも遥かに大きく深かった。老僧の肩に額を押し付けるようにして、悟浄はひたすらに嗚咽を噛み殺す。

年老いた高僧は、ただ黙って側に居てくれた。

 

 

 

 

悟浄が思っていたよりも、縁側で過ごした時間は長かったようだ。
もうすっかり日も傾いて、寺院の厨房からは煮炊きの匂いが漂ってきている。

「直に夕餉の支度も整いましょうが‥‥。とりあえず温かいお茶でもいかがですかな、悟浄殿?」

二度目の誘いを断る理由など、何ひとつ無かった。悟浄が頷くと、老僧は嬉しそうに笑った。二人は腰を上げ、歩き出す。残された桜が、見送るようにさわさわと枝を振った。

「そだ、三蔵も一緒にいいすか?」
「無論でございます。そうですな、そろそろ休憩を入れられた方が宜しいでしょうな‥‥。後で拙僧がお声をかけてまいりましょう」

泣き腫らした目を見られたくないだろうという老僧の配慮が、素直に嬉しい。

「明日は、俺も三蔵手伝うかな」
「さすれば書庫は壁が薄うございますので、睦事の折はくれぐれもお気をつけあそばしますよう」
「‥‥じーさん?」

ほっほっ、と高笑いする老僧を悟浄は睨んでみるが、赤い顔では迫力はないだろう。
茶室に向かいゆっくりと歩く老僧に少し遅れて続きながら、悟浄は小さく呟いた。

―――――俺も、せいぜいみっともなく足掻いてみるわ

小さすぎて聞こえないかもしれないと思ったが、杞憂だった。

それがよろしゅうございます、と悟浄の耳に届いた言葉は今まで聞いたどんな声よりも優しく温かく。
それが妙に心に沁みて、再び目の奥が熱くなった。
 

 

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「Pandora」前・了