続・Pandora
寺院の書庫は、本堂を挟んで僧房とは反対側の奥に位置する。 数日前にこの寺院に到着してからの殆どの時間を、三蔵はここで過ごしていた。 微かな読経の声が閉め切られた空間にも届いてくる。
しばらくは誰も来ない。そう判断した三蔵は、一度大きく身体を伸ばしてから、眼鏡を外し眉間を揉んだ。ここ数日書物に向かいどおしで目も頭も流石に疲労していた。 窓を大きく開き、煙草を取り出す。窓枠に腰掛ける形で眺める外の景色は、何の変哲もない寺院の一角でしかなかったが、紫煙を運ぶ僅かな風が頬に心地よかった。 と、低い謝罪の声の後、静かに書庫の戸が開かれた。 読経はまだ続いている。顔を覗かせた人物は、ここにいる筈のない寺院の最高責任者。大僧正自ら茶菓子の乗った盆を運び入れる姿に、三蔵は眉を顰めた。 「おや、他の皆さまは?外にもお姿がありませんでしたが‥‥」 三蔵は別に慌てもせず、大きく外へ煙を吐き出してから、携帯用の灰皿に吸殻を仕舞った。いくら仲間内で傍若無人僧侶の認定を受けていようが、三蔵にも世話になっている寺院の書庫内を紫煙で曇らせない程度の慎みはある。 「では三蔵殿、一服されませんかな」 既に一服していた現場を目撃しているにも関わらず、老僧はそれについては何も触れなかった。 注がれた茶を勧められるままに一口すすり、三蔵は小ぶりな饅頭がこんもりと盛られた菓子器を老僧の方へ押しやった。四人分のつもりで用意されたであろうそれは、三蔵一人には多すぎる。 「何か?」 ぺちりと額を叩く仕草はどこか憎めない。 『あのじーさん、変わってんな』 三蔵の脳裏に甦ってくるのは、昨日の悟浄の嬉しげな声。 『多分さ‥‥共犯者になってくれたんじゃねえ?』 万一、喫煙を他の僧侶に見咎められたときに、悟浄だけが矢面に立たないように。 「なかなかに、よい風が入りますな」 湯呑みを手に、老僧が微笑む。
悟浄が意外にも桜好きであることは、旅の始まる前から知っていた。『潔く散るのがいいんじゃねぇの』と咥え煙草で嘯いてみせた笑顔が、今でも三蔵の脳裏には焼きついている。 かつて三蔵が悟浄の寿命の事実を知ったときも、やはり桜の季節だった。 そして予想に違わず、三蔵の調査は困難を極めている。 あれから既に一年。幾度と無く僅かな可能性を見つけては裏切られ、微かな希望を抱いては容赦なく奈落に突き落とされた。 悟浄という男が生への執着が薄い方だということに、三蔵は気付いていた。もし仮に悟浄が自分の寿命について知ったとしても、『あ、そう』程度の感想しか持たないかもしれない。足手纏いにならないうちにと、黙って姿をくらませるかもしれない―――。
だから昨日、悟浄がひょっこり書庫に現れ手伝いを申し出た時、三蔵は正直驚いた。 気がつけば、恐らくはその原因であろう老僧の横顔を凝視している自分に気付き、僅かな自己嫌悪を振り払うかのように三蔵は改めて窓の外に目を逸らす。
「それで、ご首尾の方は?」 老僧の声は穏やかだった。三蔵が何を探しているのか知っていることも、隠す気がないらしい。 「一例だけ、禁忌の子供に関して人間との細胞の組成の相違を記述した論文があった‥‥が」 「が?」 三蔵の顔が曇るのを、老僧は見咎めた。 「執筆日からすると研究者はとうに故人。調査対象の禁忌の子供はたったの一人。信憑性もへったくれもあったもんじゃねえな」 「禁忌の子供は数が少ない。おまけに生まれても存在を隠匿されるケースが多いときてる。研究できるほどのデータが集まらねえのも無理はねえがな」 沈黙が落ちた。決して軽くはない沈黙だった。 何が禁忌の子供の生涯を短くさせるのか。原因を調べようにも、普通の人間とも純粋な妖怪とも僅かに異なる細胞組成が邪魔をする。
「とりあえず奴を病院へやった。奴の細胞を採取して、論文と照合してもらう。これは、後で借り受けることになると思うが―――」 三蔵は手にしていた色あせた文献を軽く振り、老僧に承諾を求めた。 「それは一向に構いませぬが‥‥‥。縋る藁にしては、少々心許のうございますな」 吐き捨てるように三蔵は言った。今までに何度も自らに言い聞かせてきた言葉だった。 悟浄と話し合い、八戒と悟空には、今朝方、全てを打ち明けた。 悟空は悟浄たちが病院へ発つと、ひとりで山へ出かけて行った。 目的を持って旅路を急ぐ身では、この寺院にも長く留まるわけにもいかない。とりあえず病院には定期的に連絡を入れて、経過を確認するつもりだった。 「―――厳しいものになりましょうな」 耳に届いたしわがれた声音に、きっぱりと答えた。
そうだ、覚悟している。分かり切ったことだ。
「さすれば、病院から三蔵殿へ緊急の連絡がある折には、当院でお預かりいたしましょう」 思考の淵に沈みかけた三蔵の意識を引き上げたのは、意外な老僧の発言だった。 「こちらから最寄りの寺院へ連絡できれば、少しでも早く三蔵殿にお伝えできましょうゆえ。そうですな、三仏神様ならば―――三蔵殿の居場所は把握しておられますでしょうし」 三蔵は耳を疑った。思いがけない厚意の申し出だった。そしてそれは、過分といえる厚意だった。 「御坊は―――」 何故、そこまで。 老僧は瞑目し、言葉をかけるのが躊躇われるような雰囲気を醸していた。 まだ年若い最高僧は、ただ口を噤んで背筋を正すしかなかった。
しばらくの後、老僧は口内で何事かを唱えてから、ゆっくりと目を開いた。 それは色褪せた守り袋だった。 「?」 三蔵は小さなそれを手に取った。視線で老僧に問いかけると、静かな頷きが返ってきた。 とりあえず、守り袋を開いてみる。古めかしいが豪奢な刺繍入りの絹の守り袋の中には、更に白絹の小さな包み。老僧にとって、大切なものであることが窺えた。 三蔵は慎重に包みを開き――――目を瞠った。 「これ‥‥は」 中にあったのは人毛だった。純白の布に映えるその色は少しくすんではいたが、夕焼けにも似た真紅だった。 「古いものですが‥‥。無いよりマシ、でございましょう?」 茶化したような言葉とは裏腹な、深く、温かな声だった。 「今となりましては、これは拙僧よりあなた様がたに必要だと存じます。――――まだ三つになったばかりでございました」 老僧はどこか遠くを見つめていた。 「‥‥医者に診てもらう事さえ、叶いませなんだ」 ぽつりと溢した老僧の顔の皺が、一気に増えたような錯覚を覚える。 理由もわからず衰弱していく我が子を、なす術もなく見守るしかなかったであろう両親。幾度となく医者の元に走っては門前払いをくらい続ける若い父親の涙が目に浮かぶようだった。 「それでも何かもっと、出来ることがあったのではないかと‥‥今の、あなた様のように、もっとがむしゃらにあの子を救う手立てを考えたのかと‥‥悔やまずにはおられませぬ」 懺悔にも似た、重い告白だった。 かける言葉など、三蔵には見つからなかった。 「これは―――益体もないことをお聞かせ申しましたな。昔の話でございますものを」 種族の違う筈の妻がその後どうしたのか、三蔵には確かめる術もない。
「―――ああ。明日も、よいお天気になりそうですな」 場違いともいえる明るい言葉に三蔵は顔を上げ、窓の外に目をやった。確かによく晴れている。 三蔵は、守り袋ごと花びらを握り締めた。
いつか全ての桜が散り去って、絶望という花弁がこの身を覆い尽くしても。 この手に最後に残る一枚は、きっと希望であるはずだと。
三蔵は、信じた。
「Pandora」完 |
タイトルはずばり「パンドラの箱」から。(前半部分だけでは意味不明でした…)
箱に最後に残ったものについては諸説あるようですが、一番ポピュラーと思われる「希望」を選択。
お暇つぶしになれば幸いです。