続・Pandora

 

寺院の書庫は、本堂を挟んで僧房とは反対側の奥に位置する。

数日前にこの寺院に到着してからの殆どの時間を、三蔵はここで過ごしていた。
三蔵法師が篭りっきりということで、書庫の本来の利用者である修行僧たちが遠慮して訪れなかったのも初日のみだった。
今では皆慣れてしまったのか、静かにおとないを告げて目的の書物を探し、やはり静かに立ち去っていく。
三蔵法師の肩書きに必要以上に萎縮した様子もなく、媚を売る者もいない。教育の行き届いた修行僧達の勤勉な姿は、寺院最高位の僧侶の人格と指導力とを垣間見せるには十分なものだった。

微かな読経の声が閉め切られた空間にも届いてくる。
そういえば、と三蔵は思った。今頃は全僧が本堂に集まって勤行の時間帯だ。どうりで、少し前から書庫を訪れる者がいない筈だった。
寺院であるならば当然の筈の三蔵の参加を強制しないところも、明らかにこちらへの配慮があってのことだろう、と三蔵は人のよい笑みを湛えた老僧の顔を思い浮かべた。

 

しばらくは誰も来ない。そう判断した三蔵は、一度大きく身体を伸ばしてから、眼鏡を外し眉間を揉んだ。ここ数日書物に向かいどおしで目も頭も流石に疲労していた。

窓を大きく開き、煙草を取り出す。窓枠に腰掛ける形で眺める外の景色は、何の変哲もない寺院の一角でしかなかったが、紫煙を運ぶ僅かな風が頬に心地よかった。

と、低い謝罪の声の後、静かに書庫の戸が開かれた。

読経はまだ続いている。顔を覗かせた人物は、ここにいる筈のない寺院の最高責任者。大僧正自ら茶菓子の乗った盆を運び入れる姿に、三蔵は眉を顰めた。
訝しげな三蔵の視線を受けても老僧は気に留める様子もなく、今日も天気がよろしくて結構ですなとのほほんとした様子で書庫内を見回した。

「おや、他の皆さまは?外にもお姿がありませんでしたが‥‥」
「所用で出ている」

三蔵は別に慌てもせず、大きく外へ煙を吐き出してから、携帯用の灰皿に吸殻を仕舞った。いくら仲間内で傍若無人僧侶の認定を受けていようが、三蔵にも世話になっている寺院の書庫内を紫煙で曇らせない程度の慎みはある。

「では三蔵殿、一服されませんかな」

既に一服していた現場を目撃しているにも関わらず、老僧はそれについては何も触れなかった。
三蔵も何食わぬ顔で机へと戻る。机といっても、書庫内で書物や巻物を閲覧するための簡素な長細い台にすぎない。
専門的な医学書から真偽の怪しい伝承物まで、多種多様の書物が辺りに散乱していたが、老僧は年齢に見合わない身軽な足取りでそれらを避け、盆を机上へ置いた。

注がれた茶を勧められるままに一口すすり、三蔵は小ぶりな饅頭がこんもりと盛られた菓子器を老僧の方へ押しやった。四人分のつもりで用意されたであろうそれは、三蔵一人には多すぎる。
三蔵の意図を正確に読み取った老僧は、嬉しそうに、そして少し照れくさそうに目を細めて三蔵を見た。

「何か?」
「いやなに。昨日から色々とご相伴に預かることが多うござりまして」

ぺちりと額を叩く仕草はどこか憎めない。
他の坊主にはナイショだけど、と悟浄からこの老僧と一緒に煙草を吸ったことも聞いたが、老僧は隠す気は全くないらしく、悪びれる様子はない。いそいそと自分の分の茶も入れ始める姿を、三蔵は黙って見守った。

『あのじーさん、変わってんな』

三蔵の脳裏に甦ってくるのは、昨日の悟浄の嬉しげな声。

『多分さ‥‥共犯者になってくれたんじゃねえ?』

万一、喫煙を他の僧侶に見咎められたときに、悟浄だけが矢面に立たないように。
いくら教育が行き届いた僧侶たちだとはいえ、寺院内で規律を乱すとされる行いを目の当たりにすれば黙って見過ごすわけにはいかないだろう。

「なかなかに、よい風が入りますな」

湯呑みを手に、老僧が微笑む。
小さな窓の外に、時折風に乗って薄紅の花びらが舞っているのが目に留まった。今年の桜もいよいよ終わる。昨日悟浄が愛でていたという桜の枝も、程なく全ての花弁を散らすだろう。
花は咲き、やがて散る。この世の生あるもの全て、死から逃れることは出来ない。
自然の摂理だといえばそれまでだった。悟浄の寿命もまた、その摂理に則っているのだろう。それでもと、足掻くことを止めない三蔵をあざ笑うかのように、桜は散り続けている。

 

 

悟浄が意外にも桜好きであることは、旅の始まる前から知っていた。『潔く散るのがいいんじゃねぇの』と咥え煙草で嘯いてみせた笑顔が、今でも三蔵の脳裏には焼きついている。

かつて三蔵が悟浄の寿命の事実を知ったときも、やはり桜の季節だった。
情けない話だが、その日は酒の力に頼らずにはいられなかった。泥酔した状態で悟浄を抱きしめ鬱陶しがられたのを、おぼろげながら覚えている。
あの夜、三蔵は悟浄の命を救ってみせると決意した。それは、散りゆく桜を留める努力にも似た、雲を掴むような決意だった。

そして予想に違わず、三蔵の調査は困難を極めている。

あれから既に一年。幾度と無く僅かな可能性を見つけては裏切られ、微かな希望を抱いては容赦なく奈落に突き落とされた。
それでも、諦めることなど出来なかった。三蔵が諦めるということは、全てが終わるということに等しかった。

悟浄という男が生への執着が薄い方だということに、三蔵は気付いていた。もし仮に悟浄が自分の寿命について知ったとしても、『あ、そう』程度の感想しか持たないかもしれない。足手纏いにならないうちにと、黙って姿をくらませるかもしれない―――。
その想像は、三蔵の背筋を凍らせるには十分なものだった。

 

だから昨日、悟浄がひょっこり書庫に現れ手伝いを申し出た時、三蔵は正直驚いた。
悟浄自身が禁忌の子供の短命をとっくに知っていたことよりも、永らえる意欲を見せたことに対する驚きの方がはるかに大きかった。
また、同時に悟浄をその気にさせた原因に対して嫉妬を覚え、そんな自分を嫌気したりした。

気がつけば、恐らくはその原因であろう老僧の横顔を凝視している自分に気付き、僅かな自己嫌悪を振り払うかのように三蔵は改めて窓の外に目を逸らす。

 

「それで、ご首尾の方は?」

老僧の声は穏やかだった。三蔵が何を探しているのか知っていることも、隠す気がないらしい。
三蔵は小さく息を吐いた。
転がる書物の中から手書きの一冊を無造作に拾うと、埃を払うように表紙を撫でる。

「一例だけ、禁忌の子供に関して人間との細胞の組成の相違を記述した論文があった‥‥が」

「が?」

三蔵の顔が曇るのを、老僧は見咎めた。

「執筆日からすると研究者はとうに故人。調査対象の禁忌の子供はたったの一人。信憑性もへったくれもあったもんじゃねえな」
「‥‥‥‥」

「禁忌の子供は数が少ない。おまけに生まれても存在を隠匿されるケースが多いときてる。研究できるほどのデータが集まらねえのも無理はねえがな」

沈黙が落ちた。決して軽くはない沈黙だった。

何が禁忌の子供の生涯を短くさせるのか。原因を調べようにも、普通の人間とも純粋な妖怪とも僅かに異なる細胞組成が邪魔をする。
研究した痕跡は僅かに一件。単なる調査の結果がこれなのだ。治療事例など、そう易々と見つかるわけもない。
ここにきて改めて禁忌と呼ばれる存在が、市井でどのように扱われているかを実感させられた気分だった。胸クソ悪ィ、と三蔵は内心で呟いた。

 

「とりあえず奴を病院へやった。奴の細胞を採取して、論文と照合してもらう。これは、後で借り受けることになると思うが―――」

三蔵は手にしていた色あせた文献を軽く振り、老僧に承諾を求めた。

「それは一向に構いませぬが‥‥‥。縋る藁にしては、少々心許のうございますな」
「比較対象が全く無ぇよりマシだろう」

吐き捨てるように三蔵は言った。今までに何度も自らに言い聞かせてきた言葉だった。
悟浄と共に病院へ向かった八戒に予め持たせなかったのは、寺院側の承諾を得ずに文献を持ち出すのを是としなかったのと、もうひとつ――――この論文のせいで、悟浄がモルモットのような扱いを受けることを危惧したからである。
論文の中には、今の悟浄の症状とは関係のない生体研究の事例まで記載されてあった。必要なのは悟浄の血液、それに毛髪。いくつかの組織細胞から遺伝子構造が解析できれば、事は足りる筈である。
病院に八戒を付き添わせたのも、実のところ、医師という名の研究者たちに悟浄を実験材料として扱われないよう目を光らせるためだ。

悟浄と話し合い、八戒と悟空には、今朝方、全てを打ち明けた。
初めて知る事実に、八戒は顔色と言葉を失い、悟空は血が滲むまでに唇を噛みしめていた。
そんな二人の様子を、悟浄はどこか申し訳なさそうに、困ったように、けれど目を逸らすことなく見つめていた。

悟空は悟浄たちが病院へ発つと、ひとりで山へ出かけて行った。
滋養によいとされる薬草が群生しているのを、八戒との花見の途中で見つけたという。今の悟浄には気休めでしかないだろうが、何も行動を起こさないでじっと待つなど、悟空には有り得ない選択なのだろう。
それぞれが今、できることの限りを尽くすしか道はないのだ。

目的を持って旅路を急ぐ身では、この寺院にも長く留まるわけにもいかない。とりあえず病院には定期的に連絡を入れて、経過を確認するつもりだった。

「―――厳しいものになりましょうな」
「覚悟している」

耳に届いたしわがれた声音に、きっぱりと答えた。

 

そうだ、覚悟している。分かり切ったことだ。
これで簡単に解決策が見つかれば苦労はしない。調査にも相当な時間がかかるだろう。
だが、例え頼りない藁であろうとも、縋るものがまだあるのだ。まだ溺れきったわけではない。水底に沈むには、早すぎる―――。

 

 

「さすれば、病院から三蔵殿へ緊急の連絡がある折には、当院でお預かりいたしましょう」

思考の淵に沈みかけた三蔵の意識を引き上げたのは、意外な老僧の発言だった。

「こちらから最寄りの寺院へ連絡できれば、少しでも早く三蔵殿にお伝えできましょうゆえ。そうですな、三仏神様ならば―――三蔵殿の居場所は把握しておられますでしょうし」

三蔵は耳を疑った。思いがけない厚意の申し出だった。そしてそれは、過分といえる厚意だった。
どう考えてもこの寺院に、何の縁もない人物のためにそこまでする義理は見当たらない。目の前の老僧が三蔵法師に取り入ろうとする輩だとは、もちろん三蔵も考えていない。
 

「御坊は―――」

何故、そこまで。
その問いかけを三蔵は呑み込んだ。

老僧は瞑目し、言葉をかけるのが躊躇われるような雰囲気を醸していた。
威圧感ではない。重ねた齢の重厚さを思わせる、もっと荘厳な何かだった。

まだ年若い最高僧は、ただ口を噤んで背筋を正すしかなかった。

 

 

 

しばらくの後、老僧は口内で何事かを唱えてから、ゆっくりと目を開いた。
おもむろに襟から首にかけられていた紐を引き抜き、先についた物を静かに三蔵の前に置く。

それは色褪せた守り袋だった。

「?」

三蔵は小さなそれを手に取った。視線で老僧に問いかけると、静かな頷きが返ってきた。

とりあえず、守り袋を開いてみる。古めかしいが豪奢な刺繍入りの絹の守り袋の中には、更に白絹の小さな包み。老僧にとって、大切なものであることが窺えた。

三蔵は慎重に包みを開き――――目を瞠った。

「これ‥‥は」

中にあったのは人毛だった。純白の布に映えるその色は少しくすんではいたが、夕焼けにも似た真紅だった。
思わず顔を上げた三蔵に、老僧は軽く頷いて微笑んだ。

「古いものですが‥‥。無いよりマシ、でございましょう?」

茶化したような言葉とは裏腹な、深く、温かな声だった。

「今となりましては、これは拙僧よりあなた様がたに必要だと存じます。――――まだ三つになったばかりでございました」

老僧はどこか遠くを見つめていた。
三蔵は、悟浄が聞いたという老僧の昔話を思い出した。幼い我が子の死を機に剃髪したと語ったという。
 

「‥‥医者に診てもらう事さえ、叶いませなんだ」

ぽつりと溢した老僧の顔の皺が、一気に増えたような錯覚を覚える。
異種間の交わりを禁忌とする習いは、昔も今も変わらない。むしろ、昔のほうが忌み嫌われていたと思われる。
禁忌を犯した者として、相当の苦労をした筈だ。

理由もわからず衰弱していく我が子を、なす術もなく見守るしかなかったであろう両親。幾度となく医者の元に走っては門前払いをくらい続ける若い父親の涙が目に浮かぶようだった。

「それでも何かもっと、出来ることがあったのではないかと‥‥今の、あなた様のように、もっとがむしゃらにあの子を救う手立てを考えたのかと‥‥悔やまずにはおられませぬ」

懺悔にも似た、重い告白だった。
今まで、恐らくは消えることなく抱え続けていた悔恨の情。どんな慰めも同情も、そして最後に縋った御仏の力を以ってしても、ぬぐい切れなかった自責の念。

かける言葉など、三蔵には見つからなかった。

「これは―――益体もないことをお聞かせ申しましたな。昔の話でございますものを」

種族の違う筈の妻がその後どうしたのか、三蔵には確かめる術もない。
手元に残された我が子の唯一の形見を手放すのに、何の躊躇いも覚えない者がいるだろうか。
老僧の苦悩と葛藤を慮り、三蔵は深々と頭を下げた。手の中の包みが、急にずしりと重みを増したような気がした。
老僧の、亡き我が子への想いの重みだった。

 

「―――ああ。明日も、よいお天気になりそうですな」

場違いともいえる明るい言葉に三蔵は顔を上げ、窓の外に目をやった。確かによく晴れている。
明るい日差しが老いた瞳には強すぎたのか―――老僧の目尻に光るものに、三蔵は気付かない振りをした。

 
風向きが変わったのだろう、一枚の桜の花弁が窓からふわりと三蔵の元へと降ってきた。頼りなげに虚空を舞っていたそれは、やがて三蔵の手の中の毛髪の上へと留まった。

三蔵は、守り袋ごと花びらを握り締めた。

 

いつか全ての桜が散り去って、絶望という花弁がこの身を覆い尽くしても。

この手に最後に残る一枚は、きっと希望であるはずだと。

 

 

三蔵は、信じた。

 

 

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「Pandora」完


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