All or Nothing(7)

控えめなノックに、悟浄が返事を返すと、麗華がドアから顔を覗かせた。

「悟浄さん、お茶を入れたんですけれど階下に下りてらっしゃいませんか?」
「お、いいねぇ〜。美人のお誘いは大歓迎よん」
「またそんな冗談を‥‥良かった、体調が悪いわけではないんですね?」
「え?どして?」
「お昼、あんまり食べていらっしゃらなかったから」

優しい娘だと、悟浄は思う。よく気が付き、裏表なく接してくる。
誰だって、彼女に好意を抱かずにはいられないだろう。

「‥‥きっと、疲れすぎたんだよ。飯がマズかったってんじゃねーから、安心して」

ウィンクをひとつ贈ると、麗華はクスクスと笑った。

「玄奘様はどちらにいらっしゃるんでしょうか?お部屋にはおいでにならなくて」
「そう?散歩でもしてるんじゃねーの?」

そう言いつつも、まさか一人で外に出たわけじゃ、と悟浄は内心焦った。が、すぐにその考えを否定する。この町の近くには森の迷路を仕掛けた得体の知れない妖怪がいるのだ。いくら怖いもの知らずの三蔵とはいえ、一人で外をうろついては危険な事ぐらいは誰かに言われるまでもないだろう。

(まあ、俺に心配されたくはねぇだろな)

日頃、単独行動を咎められては銃弾の洗礼を受ける自分に、それを口にする資格はない。
悟浄は一人苦笑した。

 

 

 

 

結局三蔵のいないまま、悟浄と麗華は向かい合って小さな茶会を楽しんでいる。

麗華から色んな話を聞いた。
以前宿に泊った面白い客の話やこの村の人々の暮らし。両親を事故で失った事。父の知り合いだったのここの主人に引き取られ、暮らしている事。
そして、話を聞くほどに、悟浄は彼女に対する好意を深めずにはいられなかった。

今までの通りすがりの女性に向けた関心や、勿論三蔵に向ける感情とも違う何かを、悟浄は麗華に感じている。純粋な好意というには、いささか戸惑いを含む不思議な感情。
それが一体どういう感情なのかは、悟浄にもはっきりとは判らなかった。

話の途中、悟浄の心に、ふと、ある疑問が湧き上がる。

「そう言えばさぁ、何で、三蔵を玄奘って呼ぶの?」
「え?確かお名前は玄奘三蔵様では‥‥?」

唐突な悟浄の質問に、麗華は少し戸惑ったのか、わずかに顔を赤くした。寺院関係者ならともかく、一般人がその名で三蔵を呼ぶのを悟浄はあまり聞いたことがない。

「確かにそーだけどさ。みんな三蔵って呼んでるよ?」
「でも、三蔵様は他にもいらっしゃるでしょう?玄奘様はお一人しかいない。だからそう呼んで差し上げたいんです」

そう答える麗華の顔は、どこか輝いていて。
綺麗だな、と悟浄は思った。心から、そう思った。

 

 

その問いがきっかけとなったのかもしれない。
やがて麗華は、意を決したように悟浄の目を真っ直ぐに見つめた。

「ねぇ悟浄さん‥‥お坊様でも、人間ですよね。想いを止められないって事、ありますよね」

ギクリと悟浄は身を強張らせた。もしかして、ヤバい方向に話が向いている?

「‥‥玄奘様って、恋人とか、心に決めた方とか、いらっしゃるんでしょうか?」

う、と悟浄は一瞬返答に詰まり、内心やっぱりと肩を落とした。まさか『一応俺が恋人です』とも言えまい。

「さ、さあ〜?あんま、個人的なことは知らないんだけどさ」

そう返事しておいて、悟浄はそれが事実なのに僅かに驚いた。

そう、俺は三蔵の事を、何も知らない。好む煙草と酒の銘柄。最高僧三蔵法師のクセにとんでもない暴力坊主で、モラルの欠片もなくって常識外れで、高飛車で。ただその腕の中はとんでもなく温かくて居心地がいい。―――それが、悟浄の知る三蔵の全てだった。

「麗華ちゃんは、その、三蔵の事が好きなわけ?」

僅かにざわついた心を押し隠して開いた悟浄の口から零れたのは、驚くほど直球な質問。
ぽっ、と頬を赤く染めた麗華の横顔は、さすが天女と謳われるだけあって、清楚な美しさをたたえている。

(可愛いよな〜。前だったら、絶対放っとかねぇな、俺)

今でも、お近付きになりたいと思わないでもないけれど、坊主の銃弾をかわすのが、何故かこの頃面倒臭い。
出来れば奴を刺激したくはないと思ってしまう辺り、どうやら自分も大概"沸いて"いるらしい。

「けどさ、あいつ坊主だぜ?こう言っちゃ何だけど、その、あんまし望みは‥‥」

なるべく彼女を傷付けないように。それだけを考えながら、悟浄は遠まわしに麗華に『諦めさせる』べく言葉を選んだ。

「ええ、ご本人にもそう言われました」
「何それ、もう告っちゃったの?」

純情なお嬢さんだとばかり思っていたが、案外にやる事は早い。だが悟浄の言葉に弾かれた様にかぶりを振り、麗華は否定した。

「違います!でもお分かりになったみたいで‥‥。『自分に興味を持っても無駄だ』って」

「あちゃ」

あの馬鹿、女の扱いがさっぱり分っちゃいねぇ。どうせ本人曰く『ソノ気もねぇのに、期待を持たせてどうする』つうんだろうが、それにしたってもう少し言いようがあるだろうに。

「私、駄目ですね。ご迷惑に思われてしまって――けど、想うだけなら、許されるでしょうか?」
「‥‥‥それって、三蔵の事、諦めないってコト?」

ざわり、と悟浄の心に波が立つ。

「分かってるんです。玄奘様は私の事なんて、特別には見て下さらないって」
「だったら――」
「玄奘様って、ずっと三蔵法師様として生きられるんでしょうか」
「え?」

突然何を言い出すのだろうか、この女性は。
礼儀に反すると思いつつも、俯き加減の麗華の横顔を、悟浄は思わずまじまじと見詰めてしまう。

「三蔵様の称号は、代々受け継がれるものと聞いています。勿論お年を召してその役を退かれる方もいらっしゃるでしょうが、そのあまりの重責に、年若くして後継者の方に三蔵法師の任を譲られる場合も多い、と」

確かに、三蔵も奴のお師匠さんから引き継いだんだったよな。そう悟浄は思い当たる。
並外れた精神力と、体力的にも脆弱では勤まらないだろう三蔵法師の職責。自身の限界を悟れば、より可能性を秘めた者にそれを譲り渡すこともあるだろう。三蔵の師匠が自身に限界を感じたかどうかはともかく、まだ幼い子供だった自分の弟子に『三蔵』を託したのは、彼に何かを見出したからに違いない。

「いつか‥‥もし、いつか、何らかのご事情で玄奘様が三蔵法師を降りられたとき、私にはあの方が還俗されると思えてなりません。例えそれが何年、いえ何十年先であったとしても――。例え今は駄目でも‥‥‥もし、出来る事なら、その時にもう一度、ちゃんと私の気持ちをお伝えできれば、と‥‥‥」

「何でだよ?!」

急に大声を出した悟浄に、麗華の体がビクッと震えた。

やめろ。言うな。頭の中では制止の言葉がぐるぐると回っている。だが、一度堰を切って溢れ出した言葉は、悟浄の意思とは裏腹に止まらなかった。

「ナンで、そんなに思えるわけ?昨日、会ったばっかの男じゃねぇ?どんな奴だか、わかんねーじゃん。ナンで何十年先の事まで決められるんだよ!?」

「あ、あの、私」

うろたえる麗華の震える声に、我に返る。目の前のお茶をがぶりと飲みほし、心に大きくうねっていた波を無理やり落ち着かせる。
悟浄は深呼吸をするように、深く息を吸い込んだ。
できるだけ穏やかにと、言葉を紡ぐ。

「‥‥‥ごめん、大きな声出しちまって‥‥。けどさ、一時の思い込みで、簡単にそんな事決めちゃ駄目だと思うぜ、俺は」

麗華は、笑った。少し寂しげな微笑だった。

「出会ってからの時間なんて関係ないと思います。想うだけで生きていけると思える方と出会った事を、私は喜びたいんです」

やっと、分かった―――。

今、悟浄ははっきりと理解していた。
彼女を見るたびに湧き上がる、あのどうしようもない困惑。
同じだからだ。あの頃の自分と。昔の自分を目の前に突きつけられるからだ。

(想うだけで‥‥か)

悟浄の心のどこかが痛む。自分もそうだった。
一目見て、捕われて。三蔵が自分の事など歯牙にもかけることは無いと、諦めて。それでも想いを捨てることなど出来なくて。
もしかしたら一生、この気持ちを抱えたまま生きるのかと覚悟していた。
だが、その感情を憎むことも出来なかったのだ。

―――想ったことを、後悔しなかったから。
 

自分と同じ想いを、彼女は三蔵に抱いた。そして自分がかつてそうだった様に、これから辛く寂しい日々が始まるのだ。いや、もう会えないかもしれない分だけ彼女の方がどれだけ辛いだろう。それを覚悟すると彼女は言っているのだ。

強い。女は恋をすると、こんなに強くなるのだろうか。
恋敵である筈の彼女に、悟浄は共感を覚えずにはいられなかった。これからの彼女を考えるだけで、胸が痛む。いつまで続くのだろうか、麗華の想いは。

彼女が、三蔵を諦めるまで?
それとも、他の男に心奪われるまで?
もしかしたら、三蔵が三蔵でなくなって、改めて彼女が想いを伝えるまで――――。

そこまで考えて、悟浄の思考は停止した。

「あの方と出会えて、幸せだと思っています。例え報われなくても」

その言葉は、悟浄の耳には入っていなかった。
悟浄の頭は、一つの考えで占拠されていたからだ。先程麗華が口にしたある台詞が、じわじわと悟浄の頭に浸透し始めていた。

(三蔵でなくなる?いつかは、三蔵の任を降りる?三蔵が?三蔵を辞めて、坊主も辞めて、普通の――)

今まで、考えてもみなかった可能性に、悟浄は一人、狼狽していた。
 

 

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麗華ちゃんと悟浄さんが一番似ているところって、思い込みの激しさなのかも。
悟浄さん、頑張らないと押され気味。

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