All or Nothing(22)
「まだ‥‥、なにか、用?」 少し、声がかすれた。 「用が、あるのは‥‥、そっちだろ」 何故三蔵が自分を引き止めているのか、悟浄にはその意図が見えない。 「この前‥‥、手を伸ばしかけて、止めただろ。‥‥俺に」 あの時だ。三蔵が部屋を抜け出して、男たちに絡まれた雨の夜。 「ウゼえ‥‥んだよ、お前。いつもいつも、泣きそうなツラ‥‥、しやが、って」 している筈はない。三蔵の前では、それこそ全身全霊をかけて軽薄な表情を作っている自信がある。 「してん‥‥だろ。人の夢に、毎日出てきて‥‥情けねぇツラ、晒してんじゃ、ねぇ、か」 唐突な話の展開に、悟浄の頭は益々混乱した。どうにも、話についていけない。夢が、どうしたと? そんな事より、脂汗を垂らしながら眉間に皴を寄せる三蔵の方が余程心配だった。だが、三蔵は悟浄の腕を解放するつもりはないらしい。 「気に、なって‥‥、仕方ねぇだろう、が」 伸ばされた手が、自分に触れなかった事が不満だった。それを今、明確に三蔵は自覚していた。 「‥‥てめぇの事を‥‥思い出そうと、する時だけ‥‥、頭が痛む‥‥。それが何故なのか、‥‥ずっと、考えてた‥‥」 禁忌だからだよ。心の中で、悟浄は呟いた。 「八戒や悟空も‥‥、肝心な事は、言いやがらねぇし‥‥。もっとも‥‥、言われたところで、聞きゃあ‥‥しなかっただろうが、な」 苦しい息遣いの中の言葉であるのに、三蔵の口調には今まで感じられていた迷いがない。 「‥‥俺なりの結論、だ。俺の記憶を奪った術とやらにとっては、‥‥てめぇの存在が、邪魔ならしい‥‥。こんな風に‥頭が痛むのは‥‥、術を解かせないための、防御、で、」 突然、がくりと三蔵の膝が折れる。 「確認したかったのは‥‥てめぇじゃねぇ、俺、の‥‥」 悟浄の身体に腕を回すような体勢で、三蔵は目前の髪に顔を埋めた。悟浄の身体が強張ったのが感じられたが、手放す気にはなれなかった。 「貴様が、来て、くれて‥‥、嬉しかっ、た」 悟浄の焦りを含んだ足音。自分を見つけたときの安堵の吐息。 目を向けなくても、悟浄の想いの方向を如実に示すそれらのひとつひとつが、三蔵の心に沁みていた。頭痛の辛さよりも何よりも、代え難い喜びを感じる自分を、自覚した。 「思い、出して、みせる‥‥!」 ぎりぎりとした痛みが間断なく三蔵を襲う。耐え切れず、くぐもった呻きを洩らすと、それが悟浄を我に返したようだ。 「もうよせ!」 「せっかく―――。せっかく、俺の事なんか忘れられたのに!」 まるでガキだな、と三蔵は思った。 「それが、―――本心か‥‥」 お前は俺の何だ、と以前悟浄に問うた事をおぼろげながら覚えている。今思えば、随分と意味のない質問をしたものだ。自分の心を他人に聞いても意味がない。それは自分自身が決めることなのだから。 「俺は、もう、逃げん‥‥。だ、から‥‥、お前も、もう‥‥」 もうすぐだ。 意識すら持っていかれそうな激しい痛みの中、三蔵はうっすらと微笑んだ。 今の三蔵に、妖怪の術に抗う手立てなど分かろう筈もない。だが、この痛みの先には、きっと何かがあると思えた。例えそれが自分の命に関わる事態だったとしても、少しでも可能性があるなら、それに賭けたい。黙って妖怪の意のままにされ続けるより、自分の意思で思い出すことを選ぶ。 「悟浄‥‥」 名を呼ばれて、悟浄は反射的に目を閉じた。記憶を失ってから、初めて三蔵の口から紡がれる自分の名前だった。懐かしい、自分だけに聞かせてくれた甘い声。二度と聞く事はないと思っていたその声で呼ばれた名に、体中が歓喜に震えている。
けれど。
悟浄は拳を握り締めた。鈍い音が、静かな空気を打ち破る。 「ぐっ‥?」
嬉しかった。 だが、出来なかった。あのまま三蔵の頭痛を放置して、もし彼の命に関わったら。例え命には別状なかったとしても、精神が壊れてしまった三蔵を見るのは耐えられなかった。 「ごめん、三蔵‥‥」 意識を失った大切な人の身体を抱きしめて。
悟浄は泣いた。
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…悟浄さんをこんなに乙女にするつもりはなかったのに、手が勝手に(涙)