All or Nothing(20)

こんな筈ではなかったな、と悟浄は長い手足をベッドに投げ出すような形で、天井をぼんやり眺めていた。

今回の事で、つくづくと思い知らされた。
自分にとって、三蔵がどれほどに大きな存在だったのか。
自分が特別強いと思っていた訳ではないが、これほどまでに弱いとは思っていなかった。情けなくて自分で呆れる。

こんな筈ではなかった。

いつか三蔵に別れを告げられたら、と考えていた事がある。
笑って別れたその後は、せいぜい派手に遊んで、男っぷりに磨きをかけて。そしていつか後悔させてやろうと。自分を手放したその手を見て、笑ってやろうと。
例えそれが真実の欠片も無い笑みだとしても。三蔵の気が少しでも楽になるなら。
 

今回だって同じ事だった。
ただ、別れを告げられる前に、自分が無かった事にしようとしているだけだ。するべき事は、同じ筈だ。
三蔵に縋って生きている訳ではない。三蔵がいないと生きていけない訳でもない。例え一人きりに戻ったとしても、どこか穴の開いた心を抱いて生きていけばいい事なのだから。
 

だが、そう思う心に、身体はついてこなかった。
 

あの妖怪と対峙してから、つまりは三蔵の記憶を消されてしまったときから、悟浄は食物をだんだんと受け付けなくなってきていた。皆に心配をかけるので、一応口にはするが、こみ上げる嘔吐感に耐え切れず後で必ず吐き戻してしまう。
そもそも、味覚が麻痺していた。何を食べても、味を感じない。生物として生きる為の「食物の摂取」を、体が必要としなくなった証拠だった。
おまけに、痛みも感じなくなっている。痛覚までもが悟浄を見放していた。
普通なら、とっくに倒れていても不思議ではない。

自分の意思よりも早く、生を手放そうとする肉体。

こんなにも、自分という存在の隅々にまで『三蔵』が浸透していたのだと今更ながらに実感する。ほんのしばらく摂取しないだけで、細胞の一つ一つが渇きを訴え反乱を起こすほどに。

『身体の方が正直だな』

何度も三蔵に言われた、閨での言葉。
認めるのが悔しくて、歯を食いしばって声を我慢してはよく鼻で笑われた。だが、そんな時には必ず、三蔵の指は優しかった。

『意地張ってんじゃねーよ』

楽しそうに笑う、三蔵の声を、顔を。思い出しても、やはり悔しさは変わらない。
ただ、それを宥めてくれる優しい指は、もう何処にもありはしないのだ。
 

それでも一つだけ、安堵したことがある。三蔵を失った自分は、もしかしたら他の妖怪と同じく自我を失うのかもしれない、という心配があったのだが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。三蔵への意地とプライドが、自分を手放さず引き止めている一因かとしれぇねな、と悟浄は薄く自嘲した。

 

 

勢いを付けて、ベッドから起き上がる。弱った身体は早速眩暈を起こし、悟浄の足元をふらつかせた。
だが、今、倒れるわけにはいかない。悟浄は、今自分が精神力だけで立っている事を自覚していた。
耐えなければならない。もし三蔵の状態がこのままなら、もう少しでこの旅の終了が決定される筈だ。そうすれば、この後、三蔵は自由に生きる。八戒と悟空もそれぞれ自分の生活を見つけるだろう。

いや、それより前に。叩きのめすべき奴がいる。

『その妖怪の言動からして、このまま三蔵を放置しておく事は無いでしょう』
親友の確信に満ちた言葉を思い出す。

『必ず、実験結果を確かめに現れるはずです。その時は』
ああ。その時には、必ず。

もう少しだ、今だけ普通に見せていればいい。無理に食べる事もなく、傷を痛がる振りもしなくてもいい。
自分が、決めた事だ。自分に惑わされる事のない人生を、三蔵に送らせてやるために。
自分が三蔵にしてやれる、最後の事。そして、自分にとっては、最後の意地。

―――――お前が俺を求めないのに、俺が涙を見せて縋る訳にはいかねぇよな。
 

『他の誰が何と言おうとも側にいる』

初めて三蔵に告白された時に二人で決めた覚悟。その時に、悟浄は『三蔵が自分を求めていてくれる限りは』という注釈を、胸の内でこっそり追加した。

『三蔵に自分が不要となれば笑って離れる』

そう決めた。いつか訪れるその時のために。三蔵には、決して言わないけれど。
 

悟浄は、部屋の壁にかかった鏡に写った自分を眺めた。紅い髪と紅い瞳の男が、笑っているのが見える。
よし、ちゃんと笑えている。大丈夫、あと少し。遣り残している事が済んだら、全てが終わったら。

もうどうなっても構わない。

 

『痛いのは生きている証拠です』

八戒の言葉が蘇る。だとしたら、俺は。

 

俺はとっくに、死んでいるのだろう。
 

 

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やっぱり問題は、悟浄さんの方でした。

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