All or Nothing(19)
三蔵が記憶を失ってから、さらに数日が過ぎた。依然、妖怪の動きはない。 驚くべき事に、悟浄は今でも三蔵に普通に接していた。 「三蔵様はまーだベッドとお友達?ま、もう年なんだから無理すんなよ」 返事を待たずに閉じられる扉は毎度の事。そして、目も向けずに無視する三蔵の態度も毎度の事。 「奴は‥‥。どこか具合でも悪いのか?」 小さく問われ、八戒は驚いた。いつもなら、悟浄の軽口などまるで耳に入っていないように振舞う三蔵が。 「何故です?」 自分の発言を後悔したのか、三蔵は形の良い眉を顰め、苦々しげな表情を隠そうともしていない。その表情は、彼と出会ってからというものすっかり見慣れてしまっていたもので、まるで何も起こっていないかのような錯覚を一瞬八戒にもたらした。今は外している悟空が居れば、さぞ興奮した事だろう。 「‥‥少し、食欲が無いようですね。意外と繊細ですから、彼」 言外に、貴方が記憶をなくしたせいなのだと匂わせて三蔵の様子を伺う。三蔵は、やや視線を落とし、頭に手を当て、何かを考えている様子だ。 「‥‥お前らは、俺が奴に関心を示す事が嬉しいらしいな。何故だ?」 違う。 言ってしまえ。 八戒の心の中で、誰かが囁く。構いやしない、ひょっとして三蔵の記憶が戻るかもしれないじゃないか。あんなに悟浄を想っていたのだから。 「そう思いますか?」 明らかに、数日前とは違う反応。拒絶とは違う、何かがある。 「なら、よく聞いてください」 駄目だ。悟浄があんな思いをしてまで守ろうとしている事を、自分が破っていい筈がない。 分かっているのに、八戒はもう言葉を抑える事が出来なかった。 「忘れちゃいけない事なんです」 訝しげに顰められる眉。ああ、何も変わっていない。この人のこんな顔を、僕たちはいつも見てきた。大丈夫、何も変わってなんかいない。 「貴方にとって、悟浄は僕たちと同じではないんです」 大丈夫。三蔵は彼を受け入れてくれる。
『普通の人生を送らせてやりてぇんだ』
(すみません、悟浄‥‥) 壊れそうな友人の、壊れそうに儚い笑みが一瞬脳裏に浮かんだが、無理矢理それを心の奥の目の届かないところに捻じ込んで、黙殺した。 「悟浄は、貴方の‥‥」 言いかけた八戒の顔が、歪んだ。 「何故‥‥‥あいつの事を‥‥思い出そうとすると、頭が‥‥‥」 八戒は、金縛りにあったかのように動けなかった。 「‥‥‥奴だけ、どうして‥‥‥」 何も答えられない。答えてはいけない。 『三蔵が壊れちまってもいいのか?』 悟浄が心配したのは、自分との関係が三蔵の精神状態に悪影響を及ぼすのではないかという事だった。確かに、悟浄の存在に三蔵は苦しんでいる。だがその原因は、悟浄の危惧したものではなく、悟浄が三蔵の心をあまりに大きく揺さぶる存在であったが故に、三蔵にかけられた術が拒否反応を示しているのだった。 かなりの集中力をもって、どうにか腕を持ち上げると、八戒はそのまま三蔵に手を差し伸べた。 「横になってください。少し休まなくては。‥‥‥何も、考えずに」 ふらつきながら身体を支えようとする三蔵に手を貸しながらも、八戒は三蔵の顔を正視出来なかった。 「僕が今言えるのは‥‥失いたくないという事だけです。貴方も、悟浄も」 本当は、喚きながら駆け出したい気持ちだった。
だから、八戒は気付かなかった。 何かが、三蔵の中で動き出している事に。
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きっと問題は、悟浄さんの方。