All or Nothing(18)

「何を笑ってるんですか!貴方は―――!」

まるで他人事のように笑っている悟浄に、八戒の声が荒くなる。
いつもなら、八戒を怒らせる事を良しとしない悟浄だが、既にそんな日常は遠いものになっていた。
届いていないのだ。自分の言葉も、怒りも。八戒は絶望的な気持ちになったが、そんな事はお構いなしに悟浄はくつくつと笑い続けている。もう一度怒鳴りつけると、ようやく悟浄は笑いを引っ込めた。

「三蔵の記憶が無くなって‥‥‥、その翌々日‥‥かな」

何の事か一瞬分からなかったが、すぐに先程の自分の問いへの返答だと思い当たる。いつから食べていないのか、と八戒は悟浄に問うたのだ。

―――ではもう五日もこの人は、ろくに栄養を摂っていないという事か。

全く気付かなかった事が悔やまれる。
自分は他人の変化に疎くないと、八戒は自負していた。だが、今回に限っては、その観察眼も機能しなくなるほどに、自らも動揺しているということなのだろう。

「やっぱり、言いましょう。三蔵に、何もかも」
「言う?あいつに?何を?」
「何って‥‥。だから貴方と三蔵が‥」
「それで、どうなるんだ?」

初めて、悟浄の表情が動いた。

「言ってどうなる?『ああそうですか』って、あいつがそれを受け入れるとでも?あいつはもう覚えちゃいないんだ。俺の事も、お前の事も、悟空の事だってな。見も知らない男に突然言い寄られてどう思うかなんて、奴の性格考えりゃ分かんだろ?」

確かに、それに対する三蔵の反応は楽観できるものではない。記憶を無くしたとはいえ、彼の性格は殆ど変わっていないように見受けられるのだ。再び拒絶を受ける危惧は捨て切れない。そして二度目の拒絶は悟浄を――――完全に壊すだろう。

「拒まれるだけならまだいい。けどもし、そのショックが術に妙な影響を与えたりしたら‥‥!」
「悟浄――」
「それを覚悟でいっそのことあいつに頼むか?『俺とお前は実はデキてました。だから、俺を愛してください』ってな!?」
「悟浄!!」

はっ、と悟浄は我に返ったようだった。バツの悪い顔に、八戒は密かに安堵する。
まだ、完全に絶望と言う訳ではない。そんな期待を、抱かせる顔だった。

「‥‥悪ィ、八戒‥‥言い過ぎた‥‥」
「いえ、僕の方こそ‥‥」
「情けねぇのな、俺‥‥自分で決めといて、お前に八つ当たるなんざ―――ホント、悪ィ」
「何を『決めた』んです?一体、貴方はどういうつもりなんです?」

八戒の言葉に、悟浄は目を細め、穏やかに笑った。

「どういうつもり、か‥‥それ、三蔵にも言われたな。あの妖怪と戦う前によ」

何かを思い出すように、悟浄は僅かに八戒から視線を外す。

「疑ってるのか、って聞かれてさ。何だかなあ。あいつ妙に焦ってて。あれ、何だったのかなあ」
「悟浄‥‥?」

クスクスと笑う悟浄の様子に、八戒の背に嫌な汗が流れる。この焦燥感を、数日前には三蔵が味わったなどとは想像もしていなかったが。

「ああ、大丈夫だって。俺、正気だから」

焦りの浮かぶ八戒の表情に、悟浄は少し首を傾げ、笑うのを止めた。

「最初に、決めてたんだよな、俺」

ぽつり、と零される悟浄の言葉。八戒は一言も聞き漏らさぬよう、全身全霊を彼の言葉に傾けた。

「奴が俺を見なくなったら、一緒にいる意味無ぇし‥‥‥‥きっぱり、自分からお別れしましょうってな。ここんとこあんまり居心地が良くて、俺たちの関係が傍から見れば普通じゃねぇって事忘れてた。それでも、奴が俺を求めてくれるのなら何があっても離れないって覚悟決めて‥‥‥。でも、求めてくれないからってダチにゃ戻れねぇだろ?一度その手を取っちまったら最後、『ただ側にいるだけでいい』なんて嘘になっちまう」
「三蔵が貴方を見ないんじゃなくて、貴方が三蔵から逃げてるんでしょう?」

相変わらず鋭いトコ突くのな、お前。悟浄は苦く笑って、八戒に向き直る。
それまで、どこか上滑りしていたような視線が、真っ直ぐに八戒を捕らえた。悟浄の目に浮かぶ真剣な光につい引き込まれる。
茶化すでもなく、誤魔化すでもなく。今まで他人に見せることのなかった真摯な表情を浮かべて、悟浄はゆっくりと口を開いた。

「あいつは今、生まれたばかりの赤ん坊と同じだ。記憶がさっぱり無ぇんじゃ、三仏神だっていつまでも『三蔵』の称号を与えているわけにもいかねぇだろ、じきに、奴は三蔵で無くなる」
「だから、どうだというんです?三蔵ではない彼には興味がないと?」

そんな筈は無いと分ってはいるものの、悟浄の真意が今ひとつ掴めない八戒は、敢えてその問いを口にした。悟浄にとって、『三蔵』の称号が重くない筈は無い。
三蔵が『三蔵』でなければ―――妙な話ではあるが―――悟浄の精神的負担が軽減されてもいいはずなのだ。

「んなんじゃねーよ」

そう言って、悟浄は煙草を取り出した。

「あいつ、黙ってりゃいい男だよなあ。女なら、妙に惹きつけられる何かがある、ってそー思わねぇ?」

俺は男だけど、と悟浄は軽く笑った。

「まあ、多少性格に難ありってのはあるけどさ。現に、麗華はベタ惚れしてるよな。けどさ、実際あいつは相手にしなかったじゃん?まあ坊主だから仕方ねーけど。ずっと、女のいない環境で育ったんだし。それに、俺いたし」
「何で、過去形なんです」

きっと自分は今、悲痛な顔をしているのだろうと八戒は思った。笑むことしか出来ない悟浄の分まで、泣きそうな顔をしているに違いなかった。

「あいつはもう坊さんじゃなくて普通の男になったんだぜ?色んなしがらみも無くなって、自由になったんだ。好きに出来る――普通の環境で生活していれば、出来ただろう事がさ」

ふーっと吹き出される紫煙が、部屋に霧散していく。
すっかり嗅ぎ慣れたハイライトの匂い。いつもならこれにマルボロの匂いが加わって、二つが交じり合った微妙な匂いをさせていた。それが普通で。変わる事など無いと思い込んでいた、日常で。
そんな考えが八戒の胸を意味もなく締め付けた。

「あいつが坊主じゃなけりゃあ、俺に気を取られる事なんか無かったかもしれない。公平に女と出会う機会があって、色恋に関しての制限が無けりゃ、普通に女と恋愛して結婚して、ガキ作って。そう生きてたかもしれねぇよな?」

八戒の感傷に気付かない悟浄は淡々と、ただ淡々と話を続ける。

「あいつは、今まっさらなんだ。変な先入観を植え付けたかねぇ。あいつがこれから歩く人生は、自分で決めさせてやりてぇんだよ」

彼の言っている事は、もしかしたら正しいのかもしれない。もしかしたら、正しくないのかもしれない。もう、八戒には判断できなかった。ただ、胸が痛かった。

「普通の人生を送らせてやりてぇんだ」

穏やかに笑う悟浄が、痛かった。

「‥‥悟浄は、それでいいんですか?貴方はどうなるんですか」

ようやく絞り出した声は、微かに上擦っていただろうと思う。

 

 

オール オア ナッシング。

半端なものなど、必要ない。全てを得るか、失うか。

 

 

突き付けられたのは現実だった。自分にはどうする事も出来ない、悟浄の覚悟と決心だった。

 

悟浄は、答えなかった。

ただ、静かに笑って、八戒の問いに答える事を拒絶した。
 

 

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ようやくでたタイトル…。長かったー(涙)

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