All or Nothing(18)
「何を笑ってるんですか!貴方は―――!」 まるで他人事のように笑っている悟浄に、八戒の声が荒くなる。 「三蔵の記憶が無くなって‥‥‥、その翌々日‥‥かな」 何の事か一瞬分からなかったが、すぐに先程の自分の問いへの返答だと思い当たる。いつから食べていないのか、と八戒は悟浄に問うたのだ。 ―――ではもう五日もこの人は、ろくに栄養を摂っていないという事か。 全く気付かなかった事が悔やまれる。 「やっぱり、言いましょう。三蔵に、何もかも」 初めて、悟浄の表情が動いた。 「言ってどうなる?『ああそうですか』って、あいつがそれを受け入れるとでも?あいつはもう覚えちゃいないんだ。俺の事も、お前の事も、悟空の事だってな。見も知らない男に突然言い寄られてどう思うかなんて、奴の性格考えりゃ分かんだろ?」 確かに、それに対する三蔵の反応は楽観できるものではない。記憶を無くしたとはいえ、彼の性格は殆ど変わっていないように見受けられるのだ。再び拒絶を受ける危惧は捨て切れない。そして二度目の拒絶は悟浄を――――完全に壊すだろう。 「拒まれるだけならまだいい。けどもし、そのショックが術に妙な影響を与えたりしたら‥‥!」 はっ、と悟浄は我に返ったようだった。バツの悪い顔に、八戒は密かに安堵する。 「‥‥悪ィ、八戒‥‥言い過ぎた‥‥」 八戒の言葉に、悟浄は目を細め、穏やかに笑った。 「どういうつもり、か‥‥それ、三蔵にも言われたな。あの妖怪と戦う前によ」 何かを思い出すように、悟浄は僅かに八戒から視線を外す。 「疑ってるのか、って聞かれてさ。何だかなあ。あいつ妙に焦ってて。あれ、何だったのかなあ」 クスクスと笑う悟浄の様子に、八戒の背に嫌な汗が流れる。この焦燥感を、数日前には三蔵が味わったなどとは想像もしていなかったが。 「ああ、大丈夫だって。俺、正気だから」 焦りの浮かぶ八戒の表情に、悟浄は少し首を傾げ、笑うのを止めた。 「最初に、決めてたんだよな、俺」 ぽつり、と零される悟浄の言葉。八戒は一言も聞き漏らさぬよう、全身全霊を彼の言葉に傾けた。 「奴が俺を見なくなったら、一緒にいる意味無ぇし‥‥‥‥きっぱり、自分からお別れしましょうってな。ここんとこあんまり居心地が良くて、俺たちの関係が傍から見れば普通じゃねぇって事忘れてた。それでも、奴が俺を求めてくれるのなら何があっても離れないって覚悟決めて‥‥‥。でも、求めてくれないからってダチにゃ戻れねぇだろ?一度その手を取っちまったら最後、『ただ側にいるだけでいい』なんて嘘になっちまう」 相変わらず鋭いトコ突くのな、お前。悟浄は苦く笑って、八戒に向き直る。 「あいつは今、生まれたばかりの赤ん坊と同じだ。記憶がさっぱり無ぇんじゃ、三仏神だっていつまでも『三蔵』の称号を与えているわけにもいかねぇだろ、じきに、奴は三蔵で無くなる」 そんな筈は無いと分ってはいるものの、悟浄の真意が今ひとつ掴めない八戒は、敢えてその問いを口にした。悟浄にとって、『三蔵』の称号が重くない筈は無い。 「んなんじゃねーよ」 そう言って、悟浄は煙草を取り出した。 「あいつ、黙ってりゃいい男だよなあ。女なら、妙に惹きつけられる何かがある、ってそー思わねぇ?」 俺は男だけど、と悟浄は軽く笑った。 「まあ、多少性格に難ありってのはあるけどさ。現に、麗華はベタ惚れしてるよな。けどさ、実際あいつは相手にしなかったじゃん?まあ坊主だから仕方ねーけど。ずっと、女のいない環境で育ったんだし。それに、俺いたし」 きっと自分は今、悲痛な顔をしているのだろうと八戒は思った。笑むことしか出来ない悟浄の分まで、泣きそうな顔をしているに違いなかった。 「あいつはもう坊さんじゃなくて普通の男になったんだぜ?色んなしがらみも無くなって、自由になったんだ。好きに出来る――普通の環境で生活していれば、出来ただろう事がさ」 ふーっと吹き出される紫煙が、部屋に霧散していく。 「あいつが坊主じゃなけりゃあ、俺に気を取られる事なんか無かったかもしれない。公平に女と出会う機会があって、色恋に関しての制限が無けりゃ、普通に女と恋愛して結婚して、ガキ作って。そう生きてたかもしれねぇよな?」 八戒の感傷に気付かない悟浄は淡々と、ただ淡々と話を続ける。 「あいつは、今まっさらなんだ。変な先入観を植え付けたかねぇ。あいつがこれから歩く人生は、自分で決めさせてやりてぇんだよ」 彼の言っている事は、もしかしたら正しいのかもしれない。もしかしたら、正しくないのかもしれない。もう、八戒には判断できなかった。ただ、胸が痛かった。 「普通の人生を送らせてやりてぇんだ」 穏やかに笑う悟浄が、痛かった。 「‥‥悟浄は、それでいいんですか?貴方はどうなるんですか」 ようやく絞り出した声は、微かに上擦っていただろうと思う。
オール オア ナッシング。 半端なものなど、必要ない。全てを得るか、失うか。
突き付けられたのは現実だった。自分にはどうする事も出来ない、悟浄の覚悟と決心だった。
悟浄は、答えなかった。 ただ、静かに笑って、八戒の問いに答える事を拒絶した。
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ようやくでたタイトル…。長かったー(涙)