All or Nothing(17)

「三蔵!もう起きていいの?」
「ああ‥‥」

翌朝、昨日の大雨が嘘のように晴れ上がった青空が広がった。
朝日が差し込むダイニングで、朝食を摂りに起きてきた悟空が、テーブルに着く三蔵の姿に嬉しそうな声を上げる。配膳のために忙しく立ち働いている麗華の顔にも喜びの表情が窺えた。

悟空のすぐ後ろに続いていた悟浄も例外ではなく、三蔵の様子に安堵していた。

良かった、昨日の事は三蔵の身体には障らなかったようだ。見たところ態度に特別な変化もないようであるし、もしかしたら、あの男たちの事も忘れてしまったのかもしれない。

悟浄は席に着きながら何気ない風を装って声をかけた。

「よかったじゃん、麗華ちゃんにもお礼言わないとね、三蔵様。いろいろ面倒かけたんだからさ」
「そんなことありません。私なんか!」
「いや、世話になって感謝している‥‥」

呟かれた三蔵の言葉に、その場にいた全員が驚いた。三蔵が礼を述べるなど滅多にない。しかも、その目には何か優しいものすらある。
感極まってうっすらと涙を浮かべている麗華の姿を見ながら、悟浄は全く味の分らないスープを口にした。
 

「おい、これ食えよ、悟浄」

不意に、悟空が悟浄の目の前に自分の皿をドン、と置いた。

「どーしたの、小猿ちゃんが俺にメシ譲ってくれるなんて‥‥もしかして、昨日の雨はコレの前借だったのか?」
「お前、ここんとこロクに食ってねーだろ?俺、ちゃんと知ってるんだからな」

悟浄の軽口に返されたのは、普段とは全く違う悟空の真剣な眼差しと言葉。三蔵が記憶を失ってからは当然誰もが混乱していて、まさか悟空に他人に気を配る余裕があるとは思っていなかった悟浄は、内心舌打ちした。

「ほら、食えよ」
「こりゃ、いよいよ槍でも降るんでねぇの?麗華ちゃん、今日は外には出ない方がいいよー、危ねぇから」

いつもなら悟浄の軽口に食って掛かる悟空も、今朝ばかりは悟浄の挑発には乗る気がないようだ。無言のまま、箸を悟浄に突きつける。思わず溢れ出そうになるため息を根性で飲み下し、悟浄は目の前の皿を引き寄せた。受け取った箸が、妙に重たく感じる。
痛いほどのプレッシャーを感じながら、悟浄は悟空の皿の分をかきこむ様に胃に収めると、慌しく立ち上がった。

「ごっそさん。ちょっと腹ごなしに散歩してくるわ、俺」
「待てよ、まだひと皿しか食ってねぇじゃんか!」
「バーカ。俺は元々朝は食わねーだろ?お前こそちゃんと食え」

ぽんぽんと悟空の頭を叩き、くるりと向きを変えたところで、悟浄は茶器を運んできた麗華にぶつかってしまった。部屋に響く、陶器の割れる音。

「あーゴメン!麗華ちゃん怪我なかった?」
「大丈夫です。ごめんなさい私こそ‥‥」

急いで、散らばった破片を拾い集める。何故か、麗華の息を飲む声が聞こえた。

「ご、悟浄さん!手!」
「え?」

ふと見れば、手が血で赤く染まっている。破片で切ったのだ。

「悟浄?大丈夫ですか?」

八戒が近付いてくる。悟浄は、笑って答えた。

「大した事ねぇよ、こんなの」
「見せてください‥‥結構深いじゃないですか、痛くないんですか?」
「そりゃ、痛ぇよ。けど、騒ぐほどでもねぇだろ――って、お前乱暴にすんなよ」

珍しく、どこか怒ったような響きを含ませた声を出しつつも、八戒は怪我の部分に気を当ててくれた。それに答えるいつもの軽口。特別、変わった光景でもない。

「痛いのは生きてる証拠です。はい終わりましたよ」

ぽん、と手を叩かれて、礼もそこそこに悟浄は部屋を後にした。 
 

もう、限界だった。

自分の部屋に駆け込んだ悟浄は、洗面所に飛び込んで、胃にあるもの全てを吐き出した。

 

 

 

 

顔を洗い、鏡を見て何度も確認する。大丈夫、普段通りの顔が出来ている。

意識的に顔を作り、洗面所から出た悟浄を部屋で待っていたのは、八戒だった。内心僅かに動揺したが、億尾にも出さず声をかける。あくまでも、普段通りに。

「どしたのお前、何か用か?俺、ちょっと外、出たいんだけど」
「やだなあ、用が無くちゃ来ちゃ駄目なんですか?――食後のコーヒー持ってきたんですよ。貴方、さっき飲まなかったでしょう?」

正直言って、今胃に何かを入れたいとは毛頭思わないのだが。

「それに、今後の事についてもありますし。夕べはよく話せなかったでしょう?」

散歩はもう少し後にしてくださいね。
その言葉に、悟浄はしぶしぶ頷いた。この旅の中心である三蔵が記憶を失ったのだ、これからどうなるのか誰だって気にかかる。冷静に見える八戒とて、内心は不安に違いない。
悟浄は大人しくテーブルに付いた。どうぞ、と勧められて、おもむろにコーヒーを一口啜る。

「いかがです?お味の方は」
「あん?別にいつもと同じだろ――それより、悟空はどうした?どうせなら、一緒にこれからの話ってヤツを――」

不自然に見えないように、もう一度マグカップを口に運ぶ。と、その腕を八戒に掴まれ、カップを取り上げられた。

「おい、何すんだよ」
「体に悪いですよ。こんな―――」

その口調があまりにも自然だったため、悟浄には次の台詞への対処が出来なかった。

「塩を5杯も入れたようなコーヒー飲んだら」

 

 

悟浄は無表情に八戒の顔を見上げた。八戒はどこか沈痛な面持ちで、悟浄を見下ろしている。

二人の視線が、静かに交錯した。

 

 

 

 

 

「―――嵌めやがったな」

先に口を開いたのは、悟浄だった。
だが、それは怒りを含んだ声ではなく。どこか冷めた響きのある声だと、八戒には思えた。

「騙したのは、お互い様でしょう‥‥いつからです?」
「何が?」
「今更とぼけないで下さいよ。味覚が狂った上に、食事の後、洗面所に速攻駆け込むようになったのはいつからだ、って聞いてるんですよ。おまけに、さっきも怪我した事に気付いていませんでしたね。痛覚も麻痺している、―――違いますか?」

悟浄は、否定も肯定もしなかった。小首を傾げるようにして八戒の目を見据えている。八戒もまた、悟浄の瞳から目を逸らさなかった。
睨み合いとも言える状態が、しばらく続いて。

「―――ぷっ」

不意に悟浄が吹きだした。肩を震わせて、笑い始める。予想外の悟浄の反応に、八戒は言葉を失い、固まった。じんわりと掌を濡らす汗を、とてつもなく不快に感じる。

「なに、お前。なにそんな、マジになってんのよ?」
余程可笑しいのか、悟浄は腹を抱えて笑い転げている。
 

八戒は、そんな悟浄の姿を、ただ呆然と見下ろすしかなかった。

 

まだ、心の中の雨は止まない。
 

 

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実は壊れていた悟浄さん。

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