All or Nothing(16)

だが、三蔵の望みは適わなかった。
悟浄が足を踏み出したからだ。腰を抜かしたままの哀れな男たちに向かって。
 

伸ばした指をすり抜け、少しずつ遠ざかっていく背中。
はっきりとした失望を覚える自分に驚きながら、三蔵は自分の身体が傾いでいくのをまるで他人事のように感じていた。ぼやけていく視界の中、咄嗟に浮かんだ疑問を、そのまま口にしたような気がする。だが、何と言ったのか自分でもよく分からなかった。

意識が完全に闇に沈む直前、大きな腕に支えられたような感覚。
やたら懐かしいような、温かいような。そんな気がした。

 

 

 

しばらくの後。
三蔵が、宿のベッドで眠っている。側には、少し離れて立つ悟浄の姿があった。
あれから悟浄は三蔵を宿へと連れ帰った。気配も消し、物音を立てないように部屋まで戻る。八戒や悟空を起こしたくは無かった。
倒れた直後には、意識が無いままにも眉根を寄せ、苦痛に苛まれているのだという事を伺わせていたが、ベッドに寝かせたその顔は穏やかで、悟浄はようやく肩の力を抜いた。
窓を閉め、カーテンを引きながら、外の様子を伺う。
先ほどまで止んでいた雨が、また激しく降り始めていた。三蔵が酷く濡れずに済んだ事に、安堵する。
あの男たちは放っておいた。あれだけ脅せば、二度と三蔵に手出しをしようとは思わない筈だ。蹴り飛ばして壁に叩き付けた男も、まだ死んではいまい。運がよければ助かるだろう。
軽く息を吐き、明かりを消した。

三蔵は、穏やかに眠り続けている。

起こさないように、気配を殺し、そっと近付く。
暗闇の中でも、存在を主張するその金色の髪。思わず、その輝きに手が伸びた。
寝顔なんて、久しぶりに見たような気がする。ついこの前までは、夜中にふと目覚めると、すぐそこにあった事の多かった穏やかな顔。深い紫の瞳を隠して閉じられる瞼に、こっそり口付けたことも何度となくあった。
もう、それも出来ない。

初めに、戻っただけ。

この旅の始まった頃は、自分だけがこの気持ちを抱えていて。気が付けばその姿を視線で追っている自分がいて、気取られないようにするのに苦労した。
眠っている彼を見て、触れたくて、でも触れられなくて。眠れない夜を過ごした事もままあった。

その頃に、戻っただけ。

伸ばした手は三蔵に届く事無く、触れる直前で止められた。
自分の姿を見るたびに、頭痛に顔を歪ませる三蔵。自分の存在が、三蔵を苦しめている事実が重い。三蔵に触れる資格など、自分には欠片もありはしないのだ。だが、それでも。

「悪ィな‥‥。もう少しだけ、傍にいさせてくれ‥‥」

囁くように口にすると、悟浄はそのまま指先をぎゅっと握りこみ、静かにその場を後にした。早足で、外へ出る。誰にも会いたくない、今の顔を見られるわけにはいかない。外は土砂降りの雨だった。もうこの雨でさえも、三蔵の憂鬱の原因にはならない。雨の日のトラウマですら、彼は忘れてしまった。

『お前は、俺の何だ?』
三蔵は倒れながらそう聞いてきた。
 

それは三蔵しか知らない事だった。悟浄がそれを言うのは、願望でしかないのだから。本当に、三蔵は忘れてしまったのだという事を、今更に、実感する。
忘れられるのは、無くすのと同じ事だ。
それは気が狂いそうになるほどの痛みだった。全身から、血が吹き出るような喪失感。

(三蔵‥‥三蔵!三蔵!三蔵‥‥っ!)

ともすれば漏れる嗚咽と涙を、激しい雨が隠してくれる事に悟浄は感謝した。

心の中に、現実以上の激しい雨が降っていた。
 

 

 

一方、三蔵は悟浄が部屋を後にすると同時に、目を開けていた。
本当は、悟浄に背負われ連れ帰られる途中から、目覚めていた。気付かれるかと思ったが、何かを考え込んでいた様子の悟浄には察知されずに済んだようだ。
 

三蔵もずっと、考えていた。
あの紅い髪の男が自分に見せた感情の色に戸惑い、気付いた時には罵声を浴びせて拒絶していた。以来、一向に姿を見せない男に、所詮その程度の関わりだったのだと自分を正当化しようとさえした。

だが、何故か自分は、気がつけばあの男を捜している。視界にあの紅が無いと落ち着かない気分だった。初めは、ただ紅い色が目立つから気になるのだと思っていたのだが、この数日で、そうではないと思い知らされた。

最初は、側にいると苛付く奴だと思った。
だが、それは。
側いると苛つくのでは無く。
側にいても自分を見ようとしないあの男に苛つくのだと。

今となっては、それを認めないわけにはいかなかった。現に今も、側を去られて苛付いているのだから。
そして先刻、自分を庇うように前に立ち塞がったあの男を思い出す。
自分に乱暴しようとした男たちに向けられたのは、あからさまな怒りと殺気。

(誰でもいいんじゃないのか‥?)

またじわじわと、不快な頭痛が押し寄せてくる気配がある。
それでも考えなくてはならないのだ、と思う。忘れてはいけない何かが、そこにあるのだと心のどこかが叫びを上げている。

『変わってねーのにな‥‥』
悲しげに聞こえた、あの呟きは何だったのか。

『傍にいさせてくれ』
縋るように響いた、あの言葉は本心なのか。

そして、何より。

『お前は、俺の何だ?』
自分が倒れる直前に発した問いの意味を。
 

 

明かりの落ちた部屋の中で、押し寄せる痛みに負けないように、三蔵は歯を食いしばった。
 

 

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二人の想いが交錯する日は一体いつ…。

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