All or Nothing(10)
倒れたまま、ぴくりとも動かない三蔵に駆け寄ることも出来ず、悟浄はその場に立ち尽くしていた。 悪い夢を見ているようだった。 駆け寄って三蔵を抱きしめたいのに、悟浄の足は、まるで地に根を下ろしたように動いてくれない。
怖い。 近寄って確かめるのが、怖い―――。
「玄奘様っ!」 悟浄を我に返したのは、麗華の悲鳴じみた叫びだった。呪縛の解けた足を引き摺って、悟浄も三蔵の元へと向かう。 「お願い、目を開けてください!お願い!」 すると、取り縋って泣き叫ぶ麗華の声に応えるかのように、短い呻き声があがった気がした。 「三蔵!?」 三蔵の身体を静かに抱き起こす。よく見れば他の村人たちとは異なり、三蔵の顔のどこからも出血している様子は無く、呼吸も正常だ。ただ気を失っているだけらしい。 「流石は三蔵法師を名乗るだけあるの。この衝撃に耐えおったわ―――、おっと」 悟浄が振り向きもせず放った刃を、弾むような動きで老妖怪がかわす。雨は激しくなる一方だというのに、妖怪はじつに嬉しそうだった。 「てめぇ、三蔵に何しやがった‥‥?」 三蔵を腕に抱いたまま、全身から殺気を漲らせた悟浄が首だけで振り返る。 「ココをな」 「捻じ曲げたんじゃよ」 「な、に‥‥?」 「!三蔵?おい、大丈夫か!?」 呼吸音とも声ともつかぬ小さな音を短く漏らし、三蔵はゆっくりとその瞳を開いた。 「ようやくお目覚めかぁ?」 それでもいつもと同じ軽い口調で話しかけたのは、押し寄せる嫌な予感を振り払うためだったのかもしれない。元気な三蔵の声が聞きたいと願う反面、聞くなと心のどこかが叫んでいる。何故、耳を塞ぎたいのか悟浄にも分からなかった。 だが、その答えはいとも簡単に示された。 「‥誰、‥‥だ?」 紛れもなく、知らないモノを見る瞳。
いったい何度、心の凍る思いをすれば、この夢は覚めてくれるのだろう。 耳鳴りにも似た、地面を叩く水滴の滝。
「おや、記憶が無くなったかの?おかしいのぉ、わしの計算では記憶が再構築されて全く別の人格が出来上がるはずじゃったんじゃがのぉ。まあ、ハジメテじゃから、勘弁してもらおうかの」 無邪気ともとれる妖怪の弾んだ声が、何だか遠くに聞こえて。 「俺に、‥‥触るな‥‥」 三蔵は、悟浄の腕から逃れようともがき、頭痛がするのか頭を抑えて呻いた。 目の前が真っ赤に染まった事だけは、はっきり憶えている。 三蔵の身体を麗華へ預け、悟浄はゆらりと立ち上がった。 「‥‥‥‥」 何を呟いたのかは悟浄本人も覚えていない。意味のある言葉を成していたのか、それすらも定かではない。 全ての表情を削ぎ落とした悟浄が、妖怪へ向かって地を蹴った。
麗華の目の前で一進一退の攻防がしばらく続き、悟浄が妖怪の後を追うようにして姿を消してから、麗華は宿に戻り三蔵に付き添っていた。 三蔵は目を覚まさない。 不安で押し潰されそうな胸の前で、麗華は祈るように手を組んだ。 ベッドに横たわる最高僧の顔色は青白く、うっすらと汗ばんでいる。せめてもとタオルで拭おうとした時、性急なノックの音と同時に扉が開かれた。現れたのは、息を切らせた紅い髪の男。 「悟浄さん!!よくご無事で――――――」 言いかけて、麗華は息を呑んだ。 「だいじょーぶ、だいじょーぶ。全然たいした事ねぇから。それよか、三蔵は?」 予想済みの事だったのか、悟浄は特に落胆した様子も見せず三蔵の枕元に近付いた。おずおずと、麗華が問う。 「あの‥‥妖怪は?」 無言で肩を竦めて見せた悟浄の様子で察した麗華は、ひとつ大きく息を吐き出すと俯いた。身体の前で組んだ指が白くなるほどに、強く握り締めているのが分かる。 「私のせい、ですね‥‥。玄奘様は私のせいで‥っ‥」 恐らく、妖怪は麗華がいた場所から、真っ直ぐに三蔵に向かっていったはずだ。 ぼろぼろと大粒の涙を零している麗華の両肩を、悟浄は不意にがしっと掴み自分に向けると、俯いた。肩に置かれた手のあまりの冷たさに、麗華は身を強張らせる。 「あのさー‥‥。頼むから、泣くのはやめてちょーだい。泣いたってどうしようもねぇし――、それよか、俺たちがやれる事をやらないとさ」 それは多分、麗華に、というよりは自分に言い聞かせている台詞だっただろう。やがて悟浄は、顔を上げた。まるで何も起こらなかったかのような、軽い笑みを浮かべていた。 「それに、いい女が泣くのは卑怯よん?これ、俺の持論なんだけどさ」 「‥‥‥‥はい、分かりました‥‥。もう泣きません」 「じゃあ、まず悟浄さんは傷の手当を。身体も温めなきゃ。その傷じゃお風呂は止めておいたほうがいいでしょうから――――とにかくこれに着替えてください。ちゃんと身体拭いてね。私は毛布を取ってきますから。火も入れないと」 「へーきだって。それよか麗華ちゃんはもう休んで‥‥‥」 泣き笑いの顔のまま、突然てきぱきと段取り始めた麗華に反論しようとした悟浄だったが、逆に悪戯をした子供を叱るような顔で睨まれてしまった。 「自分にやれる事をやる、でしょ?」 自分の言質を取られては、苦笑するしかない。悟浄の笑みをからかいと取ったのか、麗華は僅かに頬を膨らませる。 「大体、無茶しすぎです!‥‥‥あんな恐ろしい妖怪を追いかけるなんて‥‥‥もし、三蔵様だけじゃなく悟浄さんまで‥‥‥!」 自分の言葉に再び感情が昂ぶったのか、艶やかな黒髪で顔を隠すように麗華は俯いた。小さな肩が、僅かに震えている。
やっぱり優しい娘だ。悟浄は穏やかに目を細めた。 もし、三蔵の記憶が戻らない時には―――この娘なら、三蔵に公平な機会を与えられるかもしれない――――。 だが、その前に。 出来る限りの事をしよう。俺が、今、出来る限りの事を。
俯いて、それでも必死で涙を堪えている麗華の頬を、悟浄は優しく撫でた。 「大丈夫、俺普通の人間よか丈夫だから。―――実言うとさ、妖怪なんだわ、俺」 なるべく驚かさないようにと、悟浄はそっと彼女の頬に添えていた手を引いた。 「やっぱ驚いた?怖いと思う?」 麗華が思い切りぶんぶんとかぶりを振る。躊躇いの欠片もない返事。 「貴方が妖怪だというのなら、きっと恐ろしいのは妖怪ではなくて‥‥‥。妖怪を狂わせた『何か』なんですわ。それが何なのかは、よくわかりませんけど‥‥」 悟浄を真っ直ぐに見詰めたまま、真剣な面持ちで言い募る麗華に、悟浄は思わず視線を落とす。 「アンタが、もう少し嫌な女だったら良かったのにな‥‥」 「え?今、何て?」 悟浄の言葉に麗華は笑って、救急箱を取ってきますと部屋を後にした。
先刻味わったばかりの屈辱がまざまざと甦る。
傷だらけになりながらも追い続け、ようやく住処があるという山の麓で妖怪を追い詰めた悟浄は、三蔵の記憶を戻すよう老妖怪に迫った。 ――――――断っておくがの、この術を解く方法はありゃせんよ。例えわしを殺したとて、記憶は戻らん。まぁ、お前ごときにわしが殺せるとも思えんが。 ならばと妖怪の首を刎ねようと錫丈を振り上げた悟浄の目の前で、妖怪の姿は掻き消えた。 ――――――もうひとつ忠告しておいてやろうて。無理に思い出させるような真似は、せぬ方が良いな。術がどう作用するかまだ分からんからの。もっとも、それはそれでいい実験材料じゃから、やってくれても構わんが。 湧き上がる怒りのまま山へ突入しようとして、この事態が全く甘くないものであることを悟浄は再確認する羽目になった。結界にはじき返されて妖怪の元へと進めないのだ。 遊ばれた、と理解するのに時間はかからなかった。 老妖怪は、いつでも結界の中に逃げ込めたのだ。なのに、わざと悟浄の相手をしてみせた。
屈辱に、悟浄は地を殴りつけた。拳が裂け血が滲む。 このままでは終わらせない。
「悟浄さん!」 「え?」 いつの間にか部屋に戻ってきていた麗華の大声で、悟浄は自分が自分の傷に爪を立てていた事に気付いた。だが、麗華はそれ以上は何も言わず、運んできた毛布やら救急箱やらを下ろし、悟浄の手当ての準備を始めている。 「後で熱いお茶入れますね。温まりますよ?」 何も聞かない麗華の心遣いが嬉しかった。
山には強固な結界が幾重にも張り巡らされ、悟浄には近付く事さえ不可能だった。この結界では、例え八戒や悟空がいたとしても、山に侵入する事は困難だろう。皮肉な話だが、三蔵ならば破る手段を講じる事が出来るはずだった。 妖怪のアジトには近付けない。よしんば近付けたところで、三蔵の記憶を蘇らせる手段があるのかどうか分からない。少なくとも妖怪自身は『自分が死んでも術は解けない』と言っていた。それを鵜呑みには出来ないが、もしそうなら、妖怪を倒す前に何としてでも術を解く方法を聞きださねばならなかった。 八方塞だった。少なくとも、八戒たちが到着するまでは、動きが取れない。 (ダセぇ‥‥) 自らの無力さを嘆くしかない悟浄は、麗華に気付かれないように、そっとため息をついた。
悪夢はまだ、始まったばかりだった。
|
ようやく、この連載のテーマ発表。腐女子の定番「記憶喪失」。
散々弄んだ挙句、妙な日本語の羅列となりました。自分の限界が恨めしいです。