たいせつなひと(2)

八戒と別れ、戻ってきた宿の部屋で、悟浄は一人唸っていた。
あれから長い時間をかけてようやく書き上げたその手紙は、今は悟浄の上着のポケットに入っている。
だって、仕方ないではないか。前回も今回も、真っ先に思い浮かんだのがあいつだったんだから。前は伝えたいことがあったし―――伝える気はなかったけど―――、今回はもっとストレートな人選だし。
俺のせいじゃねぇぞ。大体がこんな宿題を出すのが悪い。最近の教師はどうなってるんだ!
悟浄が見知らぬ教師に怒りの矛先を向けたとき、先程の子供の悲しげな顔が不意に浮かんだ。

『父親に手紙を書こう』ではなく。
『母親に手紙を書こう』でもなく。
そして、『家族に手紙を書こう』ですらなく。

家庭事情に配慮されたはずのその課題は、大切な者を全て失った子供にとっては、却って残酷なものなのかもしれない。
しばし感慨に耽っていた悟浄は、部屋のドアが開くまで、その人物の気配に気が付かなかった。不意に現れた、今まで考えていた人物の登場に、僅かにうろたえる。

「んだよ」
「ははは、べっつにぃ」

その微かな気配を察知して、訝しげに眉を顰めたその男は、それでもどっかりと椅子に腰掛け、煙草を取り出した。悟浄は恐る恐る、その男に呼びかけてみる。

「あ〜、三ちゃん?」
「‥‥‥」

返事もせずそっぽを向いて煙草を燻らす三蔵に、悟浄は構わず言葉を続けた。

「その、八戒の奴、何か言ってなかったか?」

そこでようやく、三蔵の視線が悟浄を捕らえた。相変わらず眉は顰められたままだ。その口が疑問の形に開かれるのを制して、悟浄はひらひらと手を振った。

「あ、イイのイイの。大した事じゃねぇから」

なるべく三蔵に不信感を与えないよう、いつもの調子で軽く流す。
三蔵をからかう事を無上の喜びとしている八戒に格好のネタを与えてしまったと、悟浄は己の迂闊さを後悔しまくっていたのだが。どうやら、八戒はちゃんと約束を守り、三蔵には何も告げていないらしい。

『あー良かった』
悟浄がほっとしたのも束の間。

「‥‥八戒にな」

その名前に、ドキリとする。やっぱり、あの野郎チクりやがったのか!?
ドギマギする姿を見られるのは癪だから、必死に平静を取り繕う。

「事情は聞いた。母親への手紙、だそうだな」

思わず、肩から力が抜けた。
‥‥そうだ。八戒はそう思ってたんだった。そして三蔵にもそう説明していたのだろう。
八戒にあらぬ疑いをかけてしまった事など忘れ、悟浄は安堵の息を吐いた。

「おい‥‥ガキと約束したのは何時だ?」
「あ?――っと、6時。あれ、もうこんな時間かよ?えーと、あと1時間はねぇな」
「手紙、書いたのか」
「ああ‥‥まあ、うん。適当に」

本当は、適当にどころではなかった。必死に悩んで考えて、それでもいい加減には書きたくなくて。散々悩んだ挙句、書いたのは結局、一言。
くしくもそれは、三年前に書いた言葉と寸分違わぬものだった。
 

 

三年前。誰にも言えなかった自分の想いを綴って、燃やした。
燃えつきて。灰になって。煙が気持ちごとどこかへ持ち去ってくれれば。そう思った。
同じだ、相手が生きていようが死んでいようが。どうせ伝えられない想いなのだから。

(確か、あの時は半ばヤケだったよな)

そう考えて、悟浄は思わずクスリと笑みをこぼした。

「どうした?」
「いや、ちっとばかし感傷。考えてみりゃ可愛い事に付き合ってんなー、とか思ってよ」

相変わらずの皮肉気な笑みをその顔に貼り付けたままで、悟浄はペラペラと言葉を紡ぐ。三蔵にバレなかったという安心感が、悟浄の口を軽くしていた。

「まあ、子供騙しではあるがな」
「んー?けどよ、そんな馬鹿にしたモンでもねぇかもよ?燃やしたのに生きてる奴に伝わったくらいだから、案外あの世にもちゃんと届いたり‥‥」
 

 

「生きてる奴?」
 

 

「‥‥‥‥」
 

 

「‥‥‥‥」
 

 

 

 

 

バタン!!!
 

 

突然、扉が乱暴に開かれたかと思うと、ドタドタと人が走り出る音が響く。

『てめぇ、その手紙見せやがれ!』
『冗談!』

けたたましい足音と共に、三蔵と悟浄の叫び声が、だんだんと遠ざかっていく。
隣の部屋で、八戒と悟空は呆然とその音に耳を傾けていた。

「何‥‥今の?」
「‥‥いつもの痴話喧嘩でしょう。放っときなさい。ああ、お湯沸きましたね」

(馬鹿な人ですねぇ)

八戒はひとりごちた。せっかく黙っておいてあげたのに。あの人のことだ、自分から口を滑らせてしまったに違いない。そして見事、三蔵に見抜かれてしまった、といったところか。

(全く、どうしようもありませんねぇ)

どんなに悟浄が三蔵を想っているかなんて、分かっているつもりだった。なのに、「一番大切な人」と聞いた悟浄が誰を思い浮かべたのか、どうして気付かなかったのだろう。

(僕も、まだまだですね)

三年。過ぎ去ってみればあっという間だったこの年月を、あの紅い瞳の友人はどんな気持ちで過ごしたのか。改めて、八戒は悟浄の想いの深さを認識したのだった。そして恐らくは、それは三蔵にも通じた筈だ。
 

 

「なー、八戒」
「何ですか?」
「嬉しそうだね、何か」
「え?」
「さっきから、嬉しそうだよ。何かいい事でもあったの?」

そう問いかけてくる悟空の表情も、妙に嬉しそうで。
三蔵と悟浄に関係した何かであることが分かっているのだろう。そして、それが決して悪い事ではないという事も。

「―――そうですね」

悟空には、話してあげよう。きっと悟浄は許してくれる。そもそも、口止めされたのは三蔵だけだ。
三蔵に手紙のいきさつを話したとき、悟空も部屋にいたから知っている。後は、その手紙の宛先が「母親」ではなくて実は「三蔵」だったという事を教えればいい。勘のいい悟空には、それで十分通じる筈。

八戒が口を開こうとした寸前、開いた窓から喧騒が飛び込んできた。初めは遠くから聞こえてきたそれは、だんだんと近付き、ついには会話が聞き取れるほどに接近した。

『絶対見せねーぞ!!人がせっかく燃やすために書いたってのに!』
『馬鹿かてめぇは!本人が目の前にいるのに燃やす必要なんざ無ぇだろうが!俺への手紙は俺に直接届けろ!』
『んな恥ずい真似出来るかよ!!大体いつも顔を突き合わせてる奴に手紙でもねーだろーが!』
『てめぇが言うなっ!じゃあ、口で言え!何て書いた!?』
『だああっ!しつけーぞ、この生臭!!』

そして、二人分の喚き声が、再び遠ざかって行った。思わず、八戒と悟空は顔を見合わせる。僅かの沈黙の後、八戒がおもむろに口を開いた。

「‥‥という訳です。分かりました?」
「うん‥‥すっげぇ、分かりやすい‥‥」
 

八戒は苦笑すると、悟空に甘いカフェオレを入れてやった。
 

 

もうすぐ、子供との約束の時刻。
それまでに、例の手紙を三蔵は見る事ができるのか、それとも悟浄が死守するのか。

沈もうとする夕日だけが、未だ追いかけっこを続ける二人を見守っていた。
 

 

「たいせつなひと」完

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