Smile

Smile(前編)

それは、夕暮れの街での出来事だった。
 

「なぁーに、やってんの?お前ら?」
 

薄暗い路地裏。不意に悟浄の声が響くと、その場にいた全員が動きを止めた。
一人の子供が、大勢の子供たちに囲まれていた。小突かれ、服を汚され――だが泣きもせず、歯を食いしばってじっと立っている。

「一人を相手に大勢で寄ってたかって、てのは感心しないぜ?」

悟浄の言葉に、周りを取り囲んでいた子供たちは互いに顔を見合すと、誰が合図をしたのか一斉に逃げ去った。

「‥‥何なんだ、ありゃ」
そう呟いた悟浄だったが、大体の事情は察しがついた。取り囲まれていた子供は、逃げ去った連中に比べて格段にいい服を身に付けている。
妬み、嫉み――そんな感情は大人の世界だけの物ではないというわけだ。

「大丈夫か?ぼーず」
ひとり、ぽつんと微動だにせずその場に立ち尽くす子供に、声をかける。返って来たのは、思いもかけず明るい声だった。
「うん!ありがとう、お兄ちゃん!」
 

 

 

三蔵一行は、ようやく辿り着いたこの街で、宿屋を物色しながら歩いていた。
何の変哲も無い、普通の街。
ようやく見つけた宿屋に、入ろうとした時。悟浄が不意に、路地裏に続く脇の道に入っていったのだ。
一体何なんだ、と三蔵達が訝しがっていると、路地から大勢の子供たちが飛び出してきた。

「悟浄?」

路地裏に向かって、八戒が呼びかける。悟浄が振り向いて返事をした。

「あー悪ィ、先、入ってて!俺、このガキ送ってくっからよ」
 

 

 

てくてくと歩きながら、少年はアイスを頬張っている。年を尋ねると、6歳だと答えた。
詳しい事情は尋ねなかったが、先ほどの少年の様子から、ああいう事が初めてではない、という事が伺えた。大勢に取り囲まれて、なじられて。だが泣きもせず、気にした素振りも見せず我慢して。

まるで、遠い昔の誰かのように。

 

「よく、泣かなかったよな」

悟浄は、胸の奥に生まれた小さな疼きを無視して、少年に話し掛けた。

「泣いたら負けなんだって、父さんが言ってた。言いたい奴には言わせておけって」

少年の言葉に、胸の疼きが強くなる。あの頃の自分と、同じ。「泣いたら負けだ」と何度も繰り返し自分に言い聞かせた。

だが、この少年はせめて。

「そ、っか。父さんは知ってるんだな?」
「うん。前に泣いて帰ったら、怒られちゃった。母さんは、後でこっそりぎゅーって、してくれたけど」

悟浄の心に生まれていた小さな綻びが消えていく。良かった。少なくともこの子は、両親に愛されている。母親に、抱きしめて貰っている。本当に、良かった。

「ぼーずは、父さんと母さんのこと、好きか?」
「うん、大好き!」
「そっかそっか」

悟浄は本当に嬉しそうな笑顔で、少年の頭を撫でた。
 

 

少年の家は、街の中心からそんなに離れていないところに、建っていた。
「ここだよ」と指し示された家は、それはまさに邸宅と呼ぶにふさわしい、豪奢な建物。
裕福な家庭の子供だとは思ったが、まさかここまでとは。
悟浄はある種の気後れを感じずにはいられなかった。

「なー、お前の親父さん、何やってんの?」
このご時世にこの立派な屋敷。とても普通の勤め人だとは思えない。

「‥‥お金、貸してるの」
初めて、その少年の瞳に、暗い蔭がよぎった。

金貸し、か。悟浄は納得した。
以前自分が住んでいた街にも、当然そういう職業の者はいた。高い利息と厳しい取立てに、耐え切れず死を選ぶものも少なくは無い。
お世辞にも、人から感謝されるばかりの仕事とは言いがたい。
父親の仕事を、子供は子供なりに理解しているらしい。どうして、自分が苛められるのかも分かっていて、耐えているのだ。

「こっちだよ」
門を開けて、少年が手招きをする。
「いや、俺はここでいいや。んじゃ、元気でな」
可哀想だが、これ以上は自分には立ち入る事は出来ない。この子が、父親を好きだといった事が、せめてもの救いだった。
悟浄は、そのまま立ち去ろうと踵を返した。

 

「待ってよ、お兄ちゃん!」

上着の裾を引かれ振り向けば、今にも泣き出しそうに歪んだ顔。

「もう少し、遊んでってよ?」
「でもなぁ、俺、もう戻らねぇといけねーんだわ。友達呼んで遊べや、な?」
「‥‥いないんだ、友達」

しまった、と悟浄は自分の迂闊さを呪った。大きな目で自分を見上げる少年に、どうしても自分の姿を重ねてしまう。いつも一人で過ごしていた毎日。

「わーった。じゃ、ちょっとだけな」
「うん!」

途端に笑顔がぱっとはじける。こりゃあ、ちょっとで済みそうにねーな。悟浄は一人ごちたが、自分が優しい笑顔を浮かべている事には気付かなかった。

 

 

 

「お兄ちゃんだけに教えてあげる。ここが僕の秘密基地!内緒だよ」

そこは、裏庭にある物置と屋敷の僅かな隙間。自分にはとても入れそうに無い小さな空間。そこにお菓子やら玩具やらを持ち込んでは、時間を潰しているらしい。

たった、一人で。
 

(そーいや、俺にもあったっけ、一人で過ごす場所‥‥)

母さんに殴られて、近所のガキに石を投げられて。兄貴がいれば無理にでも平気な顔をしてみせたが、一人のときには決まって過ごす場所があった。家の裏山にあった、岩と岩との隙間。
明日になれば、もしかしたら。もしかしたら、母さんが笑ってくれるかもしれない。
そんな淡い願望を抱き、ただ時が過ぎるのを一人でじっと待っていた場所。
もっとも、持ち込んでいたのは煙草や酒だったりしたが。

「これ、綺麗でしょ。前に父さんに連れて行って貰った海で拾った貝殻なんだよ。それでね、これがね‥‥」

次々と自分の宝物を披露していく少年に相槌をうってやりながら、悟浄は首筋に電気のような物が走るのを感じた。

本能が警鐘を鳴らす。

咄嗟に悟浄が伏せるのと同時に、一発の銃声が響き渡った。
 

 

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