こんな夢なら悪くない(2)

八戒と悟空が、心配気な様子を見せつつ立ち去った後、悟浄はベッドの側の椅子に腰掛け、三蔵の寝顔を見守った。
時々、汗を拭いてやっては水を口に含み、飲ませてやる。ただそれを、繰り返した。

「う‥‥」

不意に三蔵が、かすかな声を上げる。悟浄は弾かれた様に側に寄った。苦しげに眉根を寄せる三蔵の汗を拭ってやる。また、師匠の夢でも見ているのだろうか。

「行‥くな‥」

誰を呼び止めているのか。三蔵の口から漏れる苦しげな声。それは、師の名を呼んだときとはまた違う、魂を千切られるほどに辛い響きがあった。三蔵がその人物をどれほど大事にしているのか、それだけで伝わってくる。
師匠か、悟空か、あるいは別の人物か。悟浄は三蔵の心に住む「誰か」に嫉妬している自分に気付き、自嘲の笑みを浮かべずにはいられなかった。
三蔵の頬に手を添える。
 

 

「行かねぇよ」

今だけは、その「誰か」の代わりに。

 

「ここにいるから」

お前にとって俺が何番目の存在かなんてどうでもいい。お前の心には、確かに俺だけの場所もあるはずだから。その部分で、俺を必要としてくれれば十分だ。

 

「俺が、いるから」

そして俺は、お前が必要だから側にいる。ただ、それだけのこと。
だからさ、三蔵。
お前はもっと、俺を利用していいんだぜ?
俺じゃお前の心全てを埋めてやる事は出来ないかもしれねぇけど。お前の代わりに壊れてやるぐらいはしてやるよ。
 

「‥‥?」
そこで悟浄は、三蔵の顔から苦しげな表情が消えているのに気が付いた。むしろ、穏やかとも言える表情を浮かべている。添えられた自分の手に、頬を摺り寄せてきた、と思えたのは気のせいだろうか。

「‥‥」

困惑する悟浄の前で、三蔵は僅かに身じろぎ、何かを呟いた。
悟浄の、動きが止まる。

信じられないものを見るような目を横たわる三蔵に向け、しばらく固まっていた悟浄だったが。
再び、三蔵が身じろぐのを見て我に返ったのか、ぬるんだ水を取り変えるために立ち上がった。口元に、微かな笑みを浮かべて。
 

三蔵の声は、やっと聞き取れるぐらいの小さなものであったけれど。
悟浄には、確かに、届いた。
 

 

 

 

夢を見た。

また、いつもの、あのときの夢。
気が付けば、俺の手は血で染まっていて、目の前にはあの人が倒れていて。
違うのは、どこからか声が響いてくる事。

『取り戻せ!』

誰かが俺を追い立てる。誰だ。どこかで聞いた事のある声。本当は分っている。だが、何かが違う気がして、認めたくない。

『急げ!』

俺は走ってる。声にあおられ、ただ闇雲に、ただひたすらに。
足がもつれて、無様に倒れた。あの声が俺を叱責する。

『だらしねぇな。お前がそんなだから守れなかったんだ』

煩せェ!

心が叫びを上げる。声を出そうにも、何かに喉を塞がれているのか音が出ない。

『その分じゃ、また無くすかもしれねぇよな。お前の大切なあの紅い‥‥』

やめろ!

動かない体を叱咤して、声のする方向を必死で見上げれば、腕を組み、冷ややかな目で俺を見下ろす―――紅い髪の男の姿がそこにあった。

 

あまりの衝撃に、動けない。声も出せない。

 

這いつくばった格好の俺に、見下すような視線を投げていたその男だったが。

『じゃあ、俺はもう行くわ。お前はそこでみっともなくあがいてな』

待て‥‥!

振り向くことなく、遠ざかる背中。また俺は失うのか。

 

「行くな!」
 

ようやく搾り出した声は、自分でも痛いほど胸に響いた。
 

 

『行かねぇよ』

不意にふわりと温かい何かに包まれる。ああ、俺の知っているのはこの声だ。心地よく耳に届く。俺は思わず安堵の息をついた。

『ここにいるから』

頬を包む、大きな手のひらの感触。懐かしい、温かい手。ひどく、安心する。
お師匠様の手とは違う。それは確かに、今の俺にとって一番大切な、アイツのぬくもり。

『俺が、いるから』

全身を満たす、温かなモノ。
俺は躊躇わず、そいつの名を呼んだ。
 

 

 

 

「あ、目ぇ覚めた?」
「‥‥‥どのくらい、眠ってた?」
「半日くらい。そりゃもう、ぐっすりと」
「そうか」

ゆっくりと体を起こす。目覚めの気分としては、悪くない方だ。どうやら熱も引いたらしい。

「あれ?怒んないの?」
「そういや、どこかの馬鹿に薬を盛られたんだったな‥‥」
「あは‥は‥は。やっぱ忘れて」

軽く睨めば、乾いた笑い声を立てる紅い髪の男。軽い口調だが、『ほっとした』という表情は隠しきれていない。誤魔化すように後ろを向いたそいつは、今度はちゃんとグラスに水を汲んで、俺に差し出した。
 

冷たい水が渇いた体に染み込んでいく。俺は手の中のグラスを弄びながら、目の前の男に呼びかけた。その存在を確かめたくて。

「悟浄」
「ん?」
「この前、野宿した山、あっただろ」
「‥ああ、うん」
「ガキの頃、師匠と過ごした寺から見た風景に、妙に似ててな」
「そ‥っか」

他の誰にでもなく、こいつにだけは話しておきたい。そんな気がする。余計な口も挟まず、だからといって無視するでなく。好きなように話していい、と素直に思えて。

こいつの存在に、俺は救われている。

「取られちまった」
「ん」
「必ず、取り戻す」
「ん‥‥分ってるって」

悟浄は俺の手にあるグラスを取り上げて、宥めるような声を出した。

「もういいから。も少し、休めよお前‥‥うん、熱は下がったな」

額に置かれた大きな手の感触。やっぱり、お前だったんだな。離れようとしたその手を、思わず掴み、体ごと自分の隣に引き寄せる。

「うわっ!」
「お前も眠れ」

こいつの事だ。どうせ昨日から一睡もせずに俺についていたに違いない。

「何だったら、よく眠れるようにしてやろうか?」
「だーっ!お前!どこ触ってんだよ!病み上がりのくせに、んな無理したらまた出発が遅れるじゃねーか!」

「いまさら一日二日遅れたところで、変わんねーよ」

その瞬間、悟浄はめまぐるしく表情を変えた。
まず、驚いたように瞳を大きく見開いて、そして今まで見た事の無いような、穏やかで優しい笑みを浮かべて―――残念ながらすぐに消しちまったが―――、最後にいつもの茶化したような表情を作った。

「はいはい、大変お前らしくて結構なんですけどね、今日は大人しく休みましょうね。何だったら子守唄でも唄おっか?」

俺の頭を抱きこむように撫でながら、ふざけた事を言ってくる。

いらねぇよ、馬鹿。そう答えると、クスクスと笑う気配がする。それでも、悟浄は手を止めようとはしない。優しく頭を撫でられる心地よさを感じながら、俺は再び眠りの淵に落ちていった。
 

「オヤスミ、今度はいい夢を」

意識を手放す寸前に、滑り込んできた囁き。
 

 

そうでもないさ。あんなお前の声が、聞けるなら。
 

悪夢を見るのも、悪くない。
 

 

「こんな夢なら悪くない」完

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