幽谷洞奇談(8)

翌日だったはずの出発が、何故かさらに一日延期され、ようやく三蔵一行はこの森を後にするための準備に取り掛かった。

「でもさあ、なんでアイツ悟浄食わなかったんだろー?確かにマズそうだけどさ〜」
「さあ‥‥けど悟浄は人間でも無いですし‥‥。まあ窮奇は基本的には善人しか食べませんしねぇ」
「良かったな、伝説の魔獣に好かれるほど性格が悪くて」
 

「‥‥お前らなぁ‥‥」

散々な事を言われているのだが、腹を立てる気にはならない。
形だけの文句を口にすることで、悟浄は心の中の謝意を皆に示した。自分が生き残った事に対する皆の喜びが、いつもと同じ憎まれ口に含まれていたのと同じように。

 

洞窟を出た四人は、一旦悟浄が怪我を負った地点の近くまで戻った。そこからでしか、ジープで進める道が無いのだ。
数日前、絶望と怒りと焦燥が溢れかえっていた場所。幸いにも、未だ悟浄の血の跡が消えていないであろうそこは通らずに済みそうだった。

正直、二度と見たくはない。
三蔵は無性に、自分の後ろを歩く悟浄をハリセンで殴り倒したい衝動に駆られ、即座に実行した。

「あにすんだよ、イキナリ!」
「気分だ」
「んだとぉ?」

噛み付いてくる悟浄の様子を目の端にとめながら、三蔵は先へと歩き出す。
歩きながら、数日前窮奇と交わした会話に思いを馳せていた。
 

 

 

悟浄が怪我を負い、担ぎ込まれた洞窟の前で、三蔵は窮奇に対峙したまま考え込んでいた。
今しがた、悟浄が自分を怖がる理由を聞かされたばかりなのだが、三蔵の胸中はかなり複雑だった。

―――何で、ちゃんと言わねぇんだ

悟浄が、自分を想う気持ちが強いというのは喜ばしい限りだが、どうして隠そうとするのか。全てを見せて欲しいとまでは言わないが、これはどう考えても自分にも関係している事なのだ。何故、隠そうとする?

悟浄の葛藤を知るはずも無い三蔵は、胸のうちで何故、何故と繰り返すうちに、自分が最も疑問に感じるべき事が他にあることに気が付いた。
情けない話だが、悟浄が生きているという事実に、自分はかなり舞い上がっていたらしい。
軽く息を吸い込むと、三蔵はその疑問を口にした。

「何故、あいつを助けた?」
 

『注文を付けられてな』

その問いは、予想されたものだったのだろう。窮奇の返答は間髪を置かず返ってきた。
「注文?」
『ああ。食うなら残すな、とな。うわ言のようなものだったから本人は無意識だったろうが――。だから、全てを残してやりたくなった』

噂に違わず、相当なひねくれ者らしい。だが、三蔵は僅かに違和感を覚えた。

「本当の理由は、何だ?」
『何だ、疑り深いな』
「伝説の人食い獣の言う事を、素直に信用しろと?」
『では、今から食っても構わんな?』
「食うのに、助けたのか」

『あいつではない――お主だ』

 

「‥‥‥」
窮奇の言葉に狼狽するわけでもなく、三蔵は新しい煙草に火を付ける。
細く煙を吐き出すその口元には、笑みさえ浮かんでいた。

「―――善人しか食わんと聞いていたが」
 

三蔵の返答が思いもよらない物だったのか、窮奇は少し目を見開くと、ふぉっふぉっと低い笑い声をたてた。

『最近の人間は面白いな。皆、そうなのか?』
「他の奴の事なんざ、知らねぇな。俺は俺だ」
『‥‥大事か?あの男が』

急に質問を変えた窮奇に、三蔵は僅かに目を眇めて答えた。

「別に。ただの下僕だ」

 

成る程な、と呟くと、窮奇はすっくと立ち上がり、ゆっくりと三蔵の横を通り過ぎて、森へと入っていこうとした。

「食わねぇのか?」
『これは聞いてないか?我は、嘘吐きも食わん』

そのまま2、3歩足を進めたところで、不意に足を止めて振り向いた。
『‥‥‥我が奴を食おうとした時、奴は謝っていた。三蔵という名を呼んで――これも、無意識だったのかもしれんが』
「‥‥‥」
『初めてだった。命乞いをしなかった者は。残すなという注文も、自分の命より自分を失う者の心配をしたからだろう。最後まで抵抗はしていたが、それも命を惜しんでの事だとは思えん。あまり、自身の事には執心しないようだな、あ奴は』

「ああ――いつも、苦労している」
 

このひねくれものの妖獣は、悟浄が自分の命に頓着しなかったから、助けたと言いたいのだろうか。
今度の三蔵の返答は、窮奇にとっては満足のいくものであったらしい。
もう一度低く笑うと、今度は振り向くことなく、伝説の妖獣は森へと消えていった。

三蔵は、その後姿に、ただ黙って一礼した。
 

 

 

 

「おーい、さんぞー?たれ目ハゲぼーずー?何ボーっとしてんだ?」
悟浄の声に我にかえる。

「‥‥‥誰がハゲだって?」
懐に手をやればきゃーっ、と大げさに逃げて見せる。そしてその足で悟空とじゃれ合いを始めた姿は、とても数日前には死にかけていた男のものとは思えない。ため息をつきつつ、ふと見上げると、数日前悟浄を探す自分たちが立っていた崖の上に、朝の光を浴びて美しく輝く一匹の獣の姿があった。
じっと、こちらを見下ろしている。

あの時はそう言っていたが、三蔵には窮奇がひねくれた性格を発揮して悟浄を助けたのだとは思えなかった。
 

「全く、どこが気に入ったんだか」
 

小さく呟き、歩き出した三蔵の頭の中に、聞き覚えのある低い声が響いた気がした。
 

『お主に、言われたくはないな』
 

咄嗟に振り仰いだ崖上には、その獣の姿はもうどこにも無く。
ただ、太陽の柔らかな光が、自分たちに降り注いでいた。
 

 

「幽谷洞奇談」完

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