忘却

ようやく辿り着いた小さな町。それに見合った小さな宿屋で、三蔵一行は今夜の寝床を確保した。
今夜は四人で一部屋に泊まる。最近、妖怪の襲撃が増加し、念のため個室が空いていてもなるべく相部屋を選択していたのだ。

(今日も遊びに出るわけにはいかねぇか‥‥‥)

宿帳にサインする八戒の後ろで、がっくりと肩を落とした悟浄は、ちょうどフロントに顔を出したこの宿の若主人らしい人物が、自分を見て息を呑んだことに、気付かなかった。
 

 

 

 

部屋に入った四人は、それぞれベッドに陣取り、一息つく。何にせよ、ベッドで眠れるのはありがたい。全員、疲れが溜まっていた。
軽いノックの音と共に、茶器を手にした若い男が部屋へと入ってくる。先ほどの、若主人だった。
悟浄を除く三人が、僅かに緊張する。この男が階下で見せた、悟浄に対する僅かな反応に、三人とも気が付いていた。
茶を入れ終えても、若主人はその場を去ろうとはしない。その視線は悟浄に向けられている。そこで、ようやく、悟浄も自分に対する「何か」を感じ取ったらしい。

「ん?何か、俺に用でも?」
「あ、その‥‥久しぶり、だな。元気、そうじゃないか」

その口調から、どうやら敵意がある輩ではないらしいと判断した三人は、ほっと肩の力を抜いた。それぞれ、配られた茶に口をつける。
 

「ええと、マジ悪ぃんだけど‥‥‥どちらさん?」
「!覚えて、ないのか‥‥?俺を‥‥?」
「あ!もしかして!昔、俺に賭けですっからかんに巻き上げられたとか?それともアンタの女、俺、寝取っちゃった?だったら勘弁して!悪かったから!」

三蔵のこめかみに青筋が浮かぶ。そんなことわざわざ言わなくてもいいのに、と八戒は親友の迂闊な言動に苦笑を漏らした。
 

だが、宿の若主人は、ゆっくりと頭を左右に振った。
「えー、チガウの?んじゃあ‥‥」
「あんたは、何もしてないさ」
「はい?」
「何かしたのは、俺の方だ‥‥‥――って、本当に覚えてないのか!?」

いきなり、男は大声を上げた。まるで抑えていた何かが、切れてしまったかのように。

「俺はずっとお前の事を気にしてたのに、何忘れてるんだよ!?」
「なーに逆ギレしてんだよ。だから、おたく誰だっつーの!」

つられて、悟浄の声も大きくなる。ガキの喧嘩か、と三蔵は内心呆れていた。
男の、次の科白を聞くまでは。
 

「自分を殺そうとした相手の顔ぐらい、覚えとけよ!」
 

部屋を、沈黙が支配した。
 

 

 

 

「――――で?で?いつあいつに会ったのか思い出した?」
「うーん」
「普通忘れねーよなぁ、自分を殺そうとした相手だもんなぁ。しかも、ただの通りすがり、ってカンジじゃなかったもんな」
「うーん」
 

 

  『―――えーと、ここじゃ何だから、場所変えねぇ?』
  『わかった。済まないが、まだ仕事があるから後で時間、いいか?』
 

 

どうやら皆に聞かせる話ではないと判断し、その場での話を打ち切った悟浄だったが、男が部屋を出ていった瞬間から悟空の質問攻めにあっていた。
 

「普段俺のこと馬鹿だ馬鹿だって言うけど、悟浄のほうがよっぽど馬鹿じゃん!」
「うーん。‥‥ん?なんか言ったか?馬鹿猿」
「だーかーら!馬鹿なのは悟浄なんだってば!」
「誰が馬鹿だとぉ!ど忘れしただけだろーが!」
「ど忘れするような事じゃねーだろ!」
 

「そんなのいちいち覚えてられるかよ!一度や二度ならともかくよ!」
 

そして、二度目の、沈黙。
 

 

 

(しまった)

 

そう思ったのは、悟空だったのか、それとも悟浄だったのか。
気まずい空気が流れる。

「悟浄、あの‥‥」
「ばーか」

悟空が謝罪を口にする前に、悟浄は悟空の頭をぽんぽんと叩いた。
そのまま部屋を出ようとする悟浄に、三蔵は新聞から目も上げず告げる。

「面倒事はごめんだ。とっとと片つけろ」
「へいへい」
軽く答えて、悟浄は部屋を後にした。
 

「いいんですか?」
「‥‥‥大丈夫だろ。少なくとも今は危害を加える気はないらしいからな」
「ごめん、三蔵‥‥」
「俺に謝ってどうする」
「うん‥‥でも、ごめん」
「‥‥奴なら心配ない。自分で何とか出来るだろ」
「けど!」
「昔は、色々あったみたいですけど‥‥。手を出してきた奴には、きっちり落とし前をつけさせた、って前に言ってたんですけどね。舐められたら、一人では生きていけないからって」
「つまりは、奴が一人で生きる前、って事だろうな」
「それじゃ‥‥悟浄、まだガキの頃じゃんか‥‥」

悟空の呟きが、やたら静かな部屋に響いた。
 

 

 

部屋を出た悟浄は、そのまま裏庭に出ていた。そんなに広くない敷地の中だ。目的の人物はすぐに見つかる。
建物のすぐ横で、若主人が薪を割っている。近寄ろうとしたとき、向かいの扉から幼い子供が飛び出して、男に駆け寄った。すぐに女性が後を追うように出てきて、危ないからと子供をたしなめている。
さっき、宿の記帳場にいた女性。あの男の妻だろう。
女性の腕には、まだ生まれたばかりらしい赤ん坊が抱かれていた。

しばらくして妻と子が家の中に戻っていった後、悟浄は、ゆっくりと男に近付いた。
 

 

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