あれから(後編)

シュボッ。
 

小さな音がしたかと思うと、目の前に炎が差し出された。
「――?」
揺らめく炎に、言葉を失う。三蔵が、自分の袂から取り出したライターを悟浄に向けて差し出したのだ。

その場にいた全員が、三蔵の行動に驚愕していた。
最高僧の三蔵法師が、禁忌の子供の煙草に火を?僧侶が落とした数珠すら拾おうとはしなかったこの気高き玄奘三蔵法師が?

先程までの勝ち誇った空気は一変し、僧侶たちは戸惑い、ざわめきたった。

「―――どうした。吸わんのか?」
「あ、ああ。さんきゅ」

呆然と佇んでいた悟浄は、三蔵の声に慌てて顔を近づける。吸い込んだ煙は、いつもと同じ苦さと、いつもとは全く違う何かを悟浄の体に染み渡らせた。
体が、震える。それは先程とは、違う種類の震え。

「お前が、持ってろ」

そんな悟浄に、三蔵は自分と悟浄のライター二つを同時に放ってきた。慌てて、受け止める。
そしてその光景を唖然と眺め、ただ目を白黒させている僧侶たちを、三蔵は睨めつけた。

「本山とどんなパイプがあるか知らねぇが、人が大人しくしてればつけ上がりやがって。どうやら耳が遠い連中ばかりのようだが、俺に同じ事を何度も言わせるな。ウゼぇんだよ」

そのまま三人を促して歩き始める三蔵に、我に返った僧侶の一人が追い縋る。
「お、お待ち下さい三蔵様!」
それこそ絶対零度の視線を、三蔵は投げつけた。足を止める気配も無い。
「まだ、グダグダ抜かすつもりか?」
「ですが!その者たちとて、いつ狂うか―――」

その言葉に、三蔵は初めてその歩みを止め、振り返った。
 

「では問うが、お前らに人が殺せるか?」
 

「な、何を!三蔵様、お口が過ぎましょうぞ!」
責任者らしい先程の老僧が、思わず声をあげる。口元に冷笑を浮かべた三蔵は、老僧にゆっくりと近付き―――顔の真横に腕をついた。

「狂っているのは妖怪ばかりだと思うか?旅を続けていれば、色んな人間たちに遭遇する――寺に閉じこもりっぱなしのアンタらにゃ分からんだろうがな。盗賊もいれば、人殺しが趣味の変態野郎もわんさかいやがる。そんな奴らに襲われた時、お前らはどうする?言っとくが、説法かまして改心させる暇なんざあると思うなよ。相手を殺せないなら、自分が死ぬしかない」

三蔵の押さえた声音が、却って怒りのボルテージの高さを表している。それを一身に受ける老僧は、傍から見てもハッキリ分かるほどにがたがたと震えていた。
 

「‥‥お前らに、その覚悟はあるか?」
 

「――ヒッ」

凄みを含んだ三蔵の声に耐え切れなくなった老僧は、ずるずると壁を滑るようにへたり込んだ。
「僧正様!」
老僧を助け起こそうとする若い僧侶たちを、三蔵は静かに見下ろした。

「それが出来ん奴に用は無い。二度と下らん事は考えるな」

足早に部屋を後にする。今度は、寺を出る三蔵たちを追う者は、誰も居なかった。
 

 

 

 

「じゃあ僕たちは、こっちの部屋に移りますので。いやあ、急にキャンセルが出て良かったですねぇ。それじゃ、ごゆっくりv」

宿に戻ってきた途端、八戒は空き室が出たと聞くや否やそう言い残し、悟空と共に早々に姿を消した。去り際に、悟浄は悟空にも意味深に小突かれた。

二人に、気を遣ってもらったのは分かる。分かるのだが。

‥‥‥‥気まずい。

二人きりの空間で、妙な居心地の悪さを二人は感じていた。いや、実際は悟浄がそう思っているだけで、三蔵はそうでもないのかもしれないが。
この一週間近くというもの、こうやって二人きりで、というシチュエーションから遠ざかっていた事に気付く。二人になれば、喧嘩していたのだ。

(ええと、やっぱ俺から何か言うべきなのかね。でも、もうヤっていいよ、てのも変だしな)

「おい」

ぐるぐると考えを巡らせていた悟浄は、不覚にも三蔵に声をかけられたのに気が付かず――――気付いた時には、ハリセンが顔面を直撃していた。

「〜〜〜〜〜っ!て!てめぇ、よくもこの悟浄さんの自慢の顔を〜〜!!世界中の女が泣いたらどうしてくれんだ!」
「ボケっとしてる貴様が悪い。オラ、火」

フン、と鼻で笑うと、三蔵はベッドにどっかりと腰を下ろし、煙草を取り出した。

「さっきの坊主たちに見せてやりてぇよ、憧れの三蔵様の真の姿ってやつをよ!」

お返しとばかりに憎まれ口を叩きながら、それでも隣に腰掛け、三蔵の煙草に火を点けてやる。手の中にあるのは、三蔵の百円ライター。自分の煙草にも火を灯すために何気にライターに目をとめると、先程の三蔵の行動が脳裏に蘇った。
再び、悟浄の体を震えが走る。
言葉よりも、何よりも。三蔵が自分を手放す気が無いという事を示された、あの瞬間を思い出して。

(やべ、煙草が吸えねぇ‥‥)

無性に感じる熱さを誤魔化そうと、悟浄はあくまで軽く、隣で自分とは違う煙草の香りをさせている三蔵に声をかけた。

「そ、それにしたって、いいのかよ?あんなに脅しちゃって。知んね〜ぞ〜。本山にチクられても」
「知った事か。言いたい奴には言わせとけばいい」
「ヨユーね、お前。‥‥まあ、そうだよな。俺を連れて旅してんのは三仏神の命令があったからだもんな。いくら本山のお偉いさんが騒いだところで、お前をどうこうできるわきゃねぇか。一応、お前最高僧だし」

その言葉に、三蔵は僅かに眉根を寄せた。
何度伝えても、今ひとつ理解できていない様子の悟浄に、苛立ちが増す。
もう既に、「三仏神の命令だから」などという理由ではないのに。

―――覚悟しとけ。必ず、分からせてやる。お前の馬鹿な頭でもちゃんと分かるまで、伝え続けてやるさ。

煙草の灰を灰皿にひとつ落とし、三蔵は横目で悟浄の様子を見やりながら口を開いた。

「俺があの場で本当にしたかった事――――教えてやろうか」
「あのハゲ坊主、殴り倒してやりたかった、つーんだろ?俺も同感。ちょームカツクあのジジイ」
「ま、違ぇねえがな‥‥‥おい」
「ん〜?」

呼ばれて、何の警戒もせずに横を向く。
ふわり、と唇に何かが触れ、すぐに離れた。
 

三蔵は、また黙って正面を向き、煙草を燻らせている。
与えられたのが三蔵の唇だという事に、悟浄はようやく気が付いた。
呆然と三蔵の横顔を眺めながら、唇に指を当てる。触れるだけの、キス。
今まで、キスなんて何度もしてきたってのに。こんな子供騙しみたいな、触れるだけのキスだってのに。
無理やり押さえ込んだはずの震えが、また体を襲う。胸が痛い。でも、不快な痛みじゃない。ぎゅ、と締め付けられるような、初めての感覚。

なんだか分からない。こんな感情を、俺は知らない。

心臓だけが訳知り顔で、バクバクいってやがる。

「悟浄――」

名前を呼ばれて。引き寄せられて。額に三蔵の唇を感じて。髪を優しく梳かれて。
 

温かい。
 

ずっと、待ってた。この温もりを、俺は、ずっと。
 

今まで感じた事のない不思議な感覚に身を委ね、悟浄はゆっくりと瞳を閉じた。
 

 

 

「おい?悟浄?」

急に動かなくなった悟浄を不振に思い、顔を覗き込んでみると、悟浄は三蔵にもたれかかったまま眠っていた。

(こ、こいつ‥‥‥)

三蔵にしてみれば、今まで触れる事を許さなかった悟浄に伺いを立てるつもりで、軽い口付けで反応を見たつもりだったのに。OKならば、あわよくば、このまま‥‥‥。などと考えていたのだ。だが。

実に幸せそうな顔で、悟浄は眠っている。

その顔を壊したくはなくて、三蔵はため息をひとつつくと、悟浄を起こさないように気を付けながら静かに自分の体ごと横たえた。
手触りのいい髪を梳きながら、自分も目を閉じる。

まあいい。恐らく目が覚めたときには、お預け期間は終わっているだろう。
 

長い一週間だった、と三蔵は思った。
 

 

 

 

 

後で三蔵に聞いた。どうして俺を避けたのか、と。
そしたらさ。

「手を出したら舌噛み切って死んでやるとか言ってなかったか、お前」

顔見たら手ぇ出したくなるだろうが、だってよ。威張って言う事か、ソレ?
フツー、真に受けるか?ていうか、そっちを気にしてたのな、お前は。

そんな一言を迂闊に口にした自分を馬鹿だと思う。けど、それを気にしてずっと我慢していたらしいこいつは、もっと馬鹿だと思う。
いつもなら、俺の意志なんてお構いなしなのに。それだけ、今回の事に関しては反省してるって事か?
仕方ねぇから、許してやるさ。う〜ん、俺ってば寛大。
 

 

でも結局、俺ばっか振り回されたみてーでちょっと悔しい。

そんな事、アイツには絶対言わねーけどね。
 

 

「あれから」完

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