この町唯一の宿が全館禁煙とは、何の嫌がらせだ?

夕べから悟浄と喧嘩続行中で、元から超低空飛行だった三蔵の機嫌は、ここへきて輪を掛けて下降した。
喧嘩の原因はよくあるパターン。戦闘中に庇ったの庇ってないだのと傍から見れば立派な痴話喧嘩だが、不幸なことに本人たちは自覚がないので始末に悪い。
そのまま互いに一言も言葉を交わさないままにジープに揺られ、昼過ぎに到着した宿は時期を外しているのか閑散としていた。八戒に伺いを立てられた三蔵は腹立ちのままに個室を指定したのだが、悟浄はそっぽを向いたまま何も言わなかった。
しばらくは、静かな部屋で新聞を広げ、一人の空間を満喫していた三蔵だったが、時間が経つにつれ、やはり口寂しくなってくるのはどうしようもない。
とりあえず煙草を吸える場所を確保しようと、三蔵は重い腰を上げた。
 

 

 

 

 

 

たとえ明日がこなくとも

 

 

 

 

 

 

ここなら許されるかと、何気なく回り込んだ宿の裏庭。二、三歩踏み込んで三蔵は、煙草を取り出そうとした手を、ふと止めた。
三蔵の目線の先には、見覚えのある丸い背中。先程この宿に到着した際、丁寧な挨拶をくれた老婦人であった。苦労の跡が偲ばれる節ばった指が、不思議と印象に残っている。
庭の隅にしゃがみこんで何をしているのかと見れば、小さな石に向かって手を合わせていた。――――墓だ。
三蔵の視線に気付いたのか、老婦人はゆるゆるとした動きで振り返ると、微笑んで頭を下げた。
何故かは分からない。たまたま気が向いたと言うしかないが、いつの間にか三蔵は、老婦人の元に歩み寄っていた。
黙って目を閉じ、手を合わせる。

「これは三蔵法師様に‥‥。勿体のうございます」
「この辺りで敷地内に墓所とは、珍しい」

頭を下げる老婦人に、三蔵もまた僅かに顎を引いて応えた。

「昔の‥‥。知り合いの墓でございます」

おや、と三蔵は思った。てっきり亭主か、或いは子供か―――、どちらにせよ家族の墓だと思っていたからだ。自宅である宿の裏庭に墓を作るぐらいである。縁もさぞ深かろう、と。
三蔵の微妙な表情に気付いたらしく、老婦人は温和な笑みを浮かべた。

「私には、夫も子もおりません。ここは、弟の所帯でしたが‥‥今は弟夫婦にも先立たれまして、甥一家の元に居候の身でございますよ」

自嘲気味な呟き。
三蔵の見かけた宿の主人は物腰柔らかく穏やかな印象の男だったが、やはり居候の立場としてはそれなりの肩身の狭い思いをしているのだろう。
老婦人は再び墓に向き直り、墓石をそっと撫でた。

「私には分不相応な、高貴な生まれの方でした。‥‥‥もう、遠い昔の話でございます」
「‥‥‥‥」

老婦人は、愛しいものを見るような目で墓石を見ていた。遠い昔と口では言いながら、今も彼女は過去に生きていると、すぐに分かる。

身分違いの恋。

その言葉は三蔵には馬鹿らしく感じられる類のものであったが、嘲笑う気にはなれなかった。いくら最終的には本人たちの気持ち次第だとはいえ、相手を想う心さえあれば云々などという奇麗事で片付く問題ばかりではない事ぐらい、わきまえている。

これ以上、老婦人の話を聞くべきかどうかと三蔵は一瞬迷った。老婦人が自分に聞かせたがっているのは雰囲気で知れるが、興味本位で立ち入っていい話題とも思われない。それでも自分に関係ないと切り捨てる事が出来ないのは、一瞬浮かんだ紅い髪の男のせいだと分かっていた。悟浄が、自分との関係について、『身分違い』とは言わないまでも背徳めいた感情を抱いているのは知っている。
三蔵は、ふっと息をついた。

「‥‥‥伺ってもよろしいか?」

三蔵の視線を受けて、老婦人は若い頃を偲ばせる美しい笑みを浮かべた。
 

 

 

 

 

「あら、おばあちゃんたら、またあんな所で‥‥‥」

部屋で世間話をしていた宿の娘が、二階の窓辺で呟いたのを悟浄は聞きとがめた。
せっかくの一人部屋。三蔵に対する当てつけもあって宿の娘に声を掛けてみると、あっさりと部屋への誘いに乗ってきた。
尤も、娘にしてみれば夕食の支度前に、暇を持て余している客の時間潰しのお喋りに付き合うことなど珍しいことではないのだろう。何の警戒心も抱いていない相手では、却って手を出しにくく、悟浄は苦笑した。

「あれ、お連れ様ですよね?ごめんなさい、うちの大伯母の昔話につき合わされてるんだわ。もう!お客様には遠慮しろって、いつも父さんも言ってるのに!」

娘の示すままに、悟浄も下を覗いてみる。確かに、見慣れた金髪が、老婦人と何やら話しこんでいた。珍しいこともあるものだ。

「大伯母?君のおばあちゃんじゃないの?」
「いえ、祖母の姉に当たるんです。‥‥‥他に身よりがなくて」

娘は、わざとらしくため息をついて見せた。子供も?と悟浄が問うと、娘は曖昧な笑みを浮かべ、悟浄にはすぐにピンときた。

「結婚、しなかったんだ?」
「‥‥‥まあね。好きな人はいたけど、急に亡くなっちゃったんです。今でも、誰彼捉まえてはその人の話ばっかり。『明日は何が起こるかわからないんだから』って、もううんざりしちゃう」

娘の口調から、老婦人の現在の境遇が伺える。鬱陶しがられる年寄りが、逃げ込む裏庭。

何故だか、興味を引かれた。

「良かったら聞かせてくれる?その話」

物好きね、と娘は呆れた顔になった。

 

 

 

 

 

 

もう随分と、昔の話だ。
物見遊山の途中でふらりと町に立ち寄った高貴な男が、宿屋の娘と恋に落ちた。無論、周囲の猛反対を喰らい、特に男の両親は躍起になって二人を引き離そうとした。
遠くへ逃げようと言い出したのは、男の方だった。誰も知らない遠くの町で、二人で暮らそうと。娘は渋ったが、男は強引に押し切った。

美しい満月の夜に、二人は旅立った。

何日もかけて辿りついた遠くの町で、男は仕事を探し、二人で住む家も借りた。
これからはずっと一緒にいられるよと微笑んだ男に抱きしめられて、ようやく娘の胸にも、幸せが実感となって湧いてきた。男の腕に抱かれたまま、娘はその日眠りについた。そのぬくもりに、これからもっと幸せになれるのだと、信じて疑わなかった。
翌日、今までの疲れが出たのか娘は寝坊した。男は何故か娘を起こさずに家を出た。
そして、それっきりだった。

男は仕事場に出かけず、町外れの雑木林で首を吊って死んでいた。

娘は、男の訃報を知らせる使いの声で目を覚ました。性質の悪い夢を見ているのだと思った。
ようやく二人の所在を突きとめ、追ってきた男の両親の落胆ぶりは、凄まじかった。錯乱した母親は『お前が息子をたぶらかしたせいだ』と娘を酷く詰った。
遺体は男の両親が埋葬すると譲らず、娘は生まれ育った町に連れ戻された。せめて遺髪を、と望んだ娘の言葉は聞き入れられなかった。
娘は、隠すように持っていた僅かな男の遺品を埋めて、裏庭に自分だけの墓をひっそりと作った。

以前は親しげに声をかけてくれた人々も、戻ってみると娘を避けるようになっていた。親でさえも、娘を疎んじた。
結ばれるはずのない縁を望んだ愚か者だと、誰もが娘を罵った。

 

身の程をわきまえていれば。
両親の忠告を聞いていれば。
いや、いっそ。―――出会わなければ。

 

それからの娘の人生は、後悔に染まった。

 

 

 

 

 

 

「明日という日は当たり前にくるものと、信じていた頃のお話でございますよ」

老婦人はそこで一旦言葉を切ると、三蔵の顔を見て寂しく笑んだ。

「どうして人は、明日の運命を知ることが出来ないのでしょう」

穏やかなばかりと思っていた老婦人の瞳には、複雑な感情が宿っていた。
運命を恨み、男を憎み、自らを愚かだと蔑み、それでも忘れられなかった男を慕い続けて、――――今日の日まで、ずっと。

三蔵はただ、黙って聞いていた。

男を死に追いやった原因が何なのか、それは誰にもわからない。そもそも老婦人が望むものが糾弾なのか慰めなのか、それともただ聞いて欲しかっただけなのか、三蔵には判断できなかった。
三蔵は何も答えないまま、踵を返した。
老婦人も、三蔵の返事など期待していなかったのか、重ねて問うては来なかった。ただ、独り言のような呟きが三蔵の耳をうった。

「‥‥‥知っていれば、愛さなかったのに」

ふと気配を感じて、宿の二階を仰ぎ見る。
三蔵の視線の先、紅い髪を揺らして窓から離れる男の後姿が見えた。

 

 

NEXT