この町唯一の宿が全館禁煙とは、何の嫌がらせだ? 夕べから悟浄と喧嘩続行中で、元から超低空飛行だった三蔵の機嫌は、ここへきて輪を掛けて下降した。
たとえ明日がこなくとも
ここなら許されるかと、何気なく回り込んだ宿の裏庭。二、三歩踏み込んで三蔵は、煙草を取り出そうとした手を、ふと止めた。 「これは三蔵法師様に‥‥。勿体のうございます」 頭を下げる老婦人に、三蔵もまた僅かに顎を引いて応えた。 「昔の‥‥。知り合いの墓でございます」 おや、と三蔵は思った。てっきり亭主か、或いは子供か―――、どちらにせよ家族の墓だと思っていたからだ。自宅である宿の裏庭に墓を作るぐらいである。縁もさぞ深かろう、と。 「私には、夫も子もおりません。ここは、弟の所帯でしたが‥‥今は弟夫婦にも先立たれまして、甥一家の元に居候の身でございますよ」 自嘲気味な呟き。 「私には分不相応な、高貴な生まれの方でした。‥‥‥もう、遠い昔の話でございます」 老婦人は、愛しいものを見るような目で墓石を見ていた。遠い昔と口では言いながら、今も彼女は過去に生きていると、すぐに分かる。 身分違いの恋。 その言葉は三蔵には馬鹿らしく感じられる類のものであったが、嘲笑う気にはなれなかった。いくら最終的には本人たちの気持ち次第だとはいえ、相手を想う心さえあれば云々などという奇麗事で片付く問題ばかりではない事ぐらい、わきまえている。 これ以上、老婦人の話を聞くべきかどうかと三蔵は一瞬迷った。老婦人が自分に聞かせたがっているのは雰囲気で知れるが、興味本位で立ち入っていい話題とも思われない。それでも自分に関係ないと切り捨てる事が出来ないのは、一瞬浮かんだ紅い髪の男のせいだと分かっていた。悟浄が、自分との関係について、『身分違い』とは言わないまでも背徳めいた感情を抱いているのは知っている。 「‥‥‥伺ってもよろしいか?」 三蔵の視線を受けて、老婦人は若い頃を偲ばせる美しい笑みを浮かべた。
「あら、おばあちゃんたら、またあんな所で‥‥‥」 部屋で世間話をしていた宿の娘が、二階の窓辺で呟いたのを悟浄は聞きとがめた。 「あれ、お連れ様ですよね?ごめんなさい、うちの大伯母の昔話につき合わされてるんだわ。もう!お客様には遠慮しろって、いつも父さんも言ってるのに!」 娘の示すままに、悟浄も下を覗いてみる。確かに、見慣れた金髪が、老婦人と何やら話しこんでいた。珍しいこともあるものだ。 「大伯母?君のおばあちゃんじゃないの?」 娘は、わざとらしくため息をついて見せた。子供も?と悟浄が問うと、娘は曖昧な笑みを浮かべ、悟浄にはすぐにピンときた。 「結婚、しなかったんだ?」 娘の口調から、老婦人の現在の境遇が伺える。鬱陶しがられる年寄りが、逃げ込む裏庭。 何故だか、興味を引かれた。 「良かったら聞かせてくれる?その話」 物好きね、と娘は呆れた顔になった。
もう随分と、昔の話だ。 美しい満月の夜に、二人は旅立った。 何日もかけて辿りついた遠くの町で、男は仕事を探し、二人で住む家も借りた。 男は仕事場に出かけず、町外れの雑木林で首を吊って死んでいた。 娘は、男の訃報を知らせる使いの声で目を覚ました。性質の悪い夢を見ているのだと思った。 以前は親しげに声をかけてくれた人々も、戻ってみると娘を避けるようになっていた。親でさえも、娘を疎んじた。
身の程をわきまえていれば。
それからの娘の人生は、後悔に染まった。
「明日という日は当たり前にくるものと、信じていた頃のお話でございますよ」 老婦人はそこで一旦言葉を切ると、三蔵の顔を見て寂しく笑んだ。 「どうして人は、明日の運命を知ることが出来ないのでしょう」 穏やかなばかりと思っていた老婦人の瞳には、複雑な感情が宿っていた。 三蔵はただ、黙って聞いていた。 男を死に追いやった原因が何なのか、それは誰にもわからない。そもそも老婦人が望むものが糾弾なのか慰めなのか、それともただ聞いて欲しかっただけなのか、三蔵には判断できなかった。 「‥‥‥知っていれば、愛さなかったのに」 ふと気配を感じて、宿の二階を仰ぎ見る。
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