降りしきる大雨の中、一人の僧侶が道を急いでいた。

(すっかり遅くなってしまったな)

もうじき日が暮れる。ついつい麓の村人達と話し込んでしまって、帰りが遅くなってしまった。この辺りも暗くなってからは野盗、追い剥ぎの類いが出没し、あまり治安の良い所ではない。
それに、人間だけではないのだ。最近は突然狂暴化した妖怪が人間を襲うことも珍しくはない。寺の住持である上人様が法力僧の多くを供とし、寺を空けている今、留守をまかされている自分がいなければ皆も心細い筈だ。

(一刻も早く戻って、寺を守らねば)
ぬかるみに何度も足をとられながら、僧侶は寺へと急いだ。
 

近道をしよう、と思ったのが間違いだったのかもしれない。山に落ちた雨が滝となって道を遮るように流れ落ちている。さながら、川の中を歩くに等しい有り様だった。
それでも足を進めていると、不意に、体が揺れた。踏み締めた足に手応えがない。道が、崩れたのだ。

(落ちる!)

僧侶は目を閉じ、口の中で経を唱えた。体が浮遊する感触に包まれる。だが、いつまでたっても、覚悟していた衝撃はやってこない。

「ダイジョーブ?あんた」

振って湧いたようにかけられた声に、僧侶が恐る恐る目を開けると、紅い髪の男が自分を抱きかかえて笑っていた。
 

 

 

旅の途中で

 

 

 

「私はこの先の寺で修行しております可念と申します。危ない所を助けていただきまして―――」
「いいっていいって。ここらへん地盤が弛んでるみたいだからさ、気ィつけな。じゃな」

可念の礼を遮るように、ひらひらと手を振って立ち去ろうとするその男の腕から、血が流れているのを可念は見咎めた。

「お待ちください。お怪我をなされたのですか?寺はすぐそこです。手当てをしなければ」
「気にすんなって。こんなカスリ傷、嘗めときゃ直るさ」

片目を瞑って見せる男に、可念は尚も食い下がった。
「ですがこのままでは私の気がすみません。せめてこの雨があがるまで、お休みくださいませ。失礼ながら、寺には裏口もあります。そこを通れば誰にも見咎められず僧房に入ることができますので――――もし、貴方がお気になさるのでしたら」
 

おや、と紅い髪の男―――悟浄は思った。この僧侶の目に自分に対する嫌悪の光がないのは、てっきり自分の髪と眼の色の意味を知らないからだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。

「さ、どうぞ。御案内いたします」
その言葉に、素直に頷きを返してしまったのは、もしかしたらこの僧の瞳が、誰かと同じ美しい紫色だったからかもしれなかった。
 

 

 

寺の一室に悟浄は通され、手当てを受けた。取りあえず、濡れた服を乾かしてもらう間、着物を借りて待つ事にした。可念の言っていた通り、誰にも見咎められることなくこの部屋に入ることができたので、気は楽だ。

「最近はそういう抜け道もないと、若い僧達は、色々とありましてね」

そう言って、先ほどのお返しとばかりに片目を瞑った可念も、まだ三十は超えていないだろう若さだ。だが、その落ち着きといい、物腰といい、一介の修行僧ではない事を十二分に伺わせている。

「なあ、ここさ、あんたの部屋?」
「はい、そうですが」
「ここって一人部屋だろ?もしかして、結構エラい人?いいわけ、俺みたいなの入れちゃって。油断させておいて、ここの寺、襲いにきたのかもよ?」
「ああ、成る程。そういう考えもありますかねぇ」
「ありますかねぇ、ってあんた」
手を打たんばかりの可念ののんびりした返答に、悟浄はがっくりと肩を落とす。

「御覧の通り、この寺は僧も少ないところ。貴方が本気になれば中にいようが外にいようが、我々などひとたまりもありますまい。それにもし仮に貴方が、ここを襲うつもりだとして、それは私の人を見る目が曇っていただけの事。皆も諦めてくれますのでどうぞお気遣いなく」

にこにこと笑い、茶を勧める可念の姿に、悟浄はすっかり毒気を抜かれてしまった。

「なーんか、調子狂うぜ」
「何か?」
「いや、今まで会ってきた坊さんとは、ちょっと違うタイプだからさ、あんた」

その悟浄の言葉に僅かに目を細めた可念だったが、何事もなかったかのように、自らも茶を口にする。

「そうですか?自分では普通のつもりですが」

普通。確かにそうかもしれねぇな、と悟浄は思った。
今まで自分が出会った僧侶達とて、別に異常なわけではないのだ。未知のものを恐れ、排除しようとするのは特別奇異な事ではない。それを表に出すか、黙って受け入れるかで度量の差は有るにせよ、どちらも信仰心から発せられる行動には違いない。いわゆる常識的な反応の範囲内といえるだろう。
それよりも、何かにつけて銃をぶっ放しまわる、やたら凶暴な生臭坊主の方が、よっぽど普通じゃない。そう考えて、くすりと悟浄は笑った。

「どうしました?」
「いや、あんたは本当に普通の坊さんだと思ってね。同じ紫の目してんのに、俺の知ってる奴なんか、すっごい変。信じられない程、変」
「その方も、僧侶でいらっしゃる?」
「俺はあいつが坊主を名乗ってること自体、既に犯罪だと思うね」

すると突然、可念はくすくすと笑い出した。ナニ?と目で訴える悟浄に、可念は急いで口元を押さえる。

「ああ、申し訳ありません。その方は、悟浄さんにとって大切な方なんだな、と思いましてね」
「は?何でそうなんの?」
「当たりでしょう?」
「だから、何で」
「だって、貴方、今、とても優しい顔をしていましたよ?」

かああ、と顔を赤くした悟浄を見て、また可念はくすくすと笑った。髪をかきあげるようにして顔を隠しつつ、悟浄は可念を軽く睨む。

「・・・・前言撤回。あんた普通じゃなくて、意地悪ィ坊さんだよな」
「おや残念、評価を下げてしまいましたか」
そうして顔を見合わせ、二人して笑った。
 

 

 

「どこで油売ってやがったんだ、てめぇ」

雨があがるのを待って、宿に戻ってみれば、待ち構えていたのは超不機嫌な顔で睨んでくる紫の目を持つ男。
悟浄は、自分が煙草を買う、との名目で宿を出たのを思い出した。本当は昼過ぎから降り出した大雨に、三蔵が一人になりたがっている気配を察知して出かけたに過ぎないのだ。

近くにいれば、必要以上に構いたくなる気分だったから。

通りを歩く気にもなれず、ひとり山の中の木陰で雨を避けていた所に、可念に出会ったのだった。
雨が止んだからか、それとも大雨の中ふと我にかえったのか、三蔵はすっかりいつもの調子を取り戻していた。

「妖怪が出るって噂があるとこで、一人でほっつき歩いてんじゃねぇよ」
「あら?もしかして心配した?」
ガウン!
「こ、このクソ坊主、ヤバかったぞ今!」
「くだらねぇ事抜かすからだ」
乱暴な口調とは裏腹に、自分を引き寄せる手が優しいのに気付く。

(やっぱ、変な奴)

こんな変な奴にイかれてる自分も、相当なものだと苦笑する。取りあえずはこれ以上御機嫌を損ねないように、大人しく三蔵の手の動きに身を任せていた。上着を脱がされたところで、ふと三蔵の動きが止まる。

「どした?」
「おい。何だこれは」

言われて、思い出した。腕に巻かれた包帯。可念を助けた時に付けた傷だ。

(しまった)

「てめぇ、また妙な事に―――」
「あ。大丈夫大丈夫。別にトラブったわけじゃねぇから。今度はマジ、ホント。お前に迷惑かけたりしませんって」

誰もんな事心配してねぇよ。三蔵の不機嫌に拍車がかかる。三蔵はその不機嫌の腹いせに、少し乱暴に手を進めた。

(迷惑掛けねぇっつってるのに、何で機嫌が悪いんだよ!?)

ホント、難しいヤツ。
悟浄は大きくため息をつくと、三蔵の首に腕をまわしてやった。
 

 

 

「この村の外れにある寺が、明け方妖怪に襲われたらしいですよ」
「それはまた物騒な」
「お客様もくれぐれもお気を付けて――」

翌朝、いつもと変わりなく四人が朝食を摂っている時に飛び込んできた、宿の主人と客との会話。
悟浄の顔色が変わる。手にしていたマグを放り投げると、掴み掛からんばかりの勢いで、客を見送る店主に詰め寄った。

「おい!寺が襲われたって、そこの坊主達はどうした!?無事なのか!?」
「さ、さあ。そこまでは‥‥」

(可念!)

宿の主人の言葉が終わらぬ内に、悟浄は外へと駆け出していた。八戒が何か言っていた気がしたが、意味をなす言葉としては耳に入ってこなかった。
 

 

 

その場所に到着して、悟浄は自分の目を疑った。
昨日訪れたはずの寺は、見る影もなく焼き尽くされ――――跡形も無くなっていた。
呆然と佇む悟浄に、背後から忍び寄る気配―――と、突き入れられた槍の先端をかわしつつ咄嗟にそれを掴んだ悟浄は、思いきり力を込めて武器を奪う。すると相手は簡単にころりと転がった。
それは、まだ年若い僧侶だった。

「おのれ妖怪!よくも、よくも寺を!」
憎しみをその瞳に漲らせて自分を睨み付けてくる若い僧侶の姿に、悟浄は僅かに安堵する。少なくとも、生き残った者がいるわけだ。それが悟浄に一縷の希望を抱かせた。

「可念はどうした?無事なのか?」
「可念様が狙いか?誰がお前らなどに可念様を渡すものか!喰いたいのなら私を喰らうがいい!」
「じゃあ、無事なんだな?」

ホッ、と悟浄の身体から力が抜ける。その様子に若い僧は訝し気な表情になった。僧が口を開くより早く、悟浄が問いかける。

「可念の居場所は言わなくていいからさ。ここを襲った妖怪の事、詳しく教えてくんない?」

怒りのオーラを漲らせながらも、軽い口調で問いかける男の瞳は、紅蓮の炎が燃えているかの如く。
 

美しい、とその若い僧侶は思った。

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