鬱蒼とした森の中で、悟浄は不機嫌だった。
手には錫丈を持ち、服には所々返り血が付いている。だが、相手はいつもの妖怪ではなかった。
『水、汲んできて下さい』
にっこり笑った親友の笑顔がちらつく。悟空は八戒の手伝いをするんだと言って聞かなかったし、三蔵が水汲みに付き合うはずもない。
『へーへー、行って来ますよ』
とは言ったものの、すぐに後悔した。本当なら近くの川ですむはずが、昨日まで降り続いていた雨のせいで増水していて近づけない。仕方なく、移動中に見つけた湧き水がある場所まで足を伸ばす羽目になった。山道で足場が悪い上に、距離もある。おまけに、その途中襲われたのだ。何十、いや何百という数の野犬の群れに。
「悪ぃけど、俺今、機嫌サイアクなのよ?動物愛護の精神は、期待しないでちょーだい」
ざくざく錫状を振るっていく。どんなに数が多いところで、所詮は悟浄の敵ではない。相手が悪いとようやく悟ったのだろう、どこかで遠吠えが聞こえたと思うや否や、一斉に逃げ去っていった。
「や〜れやれ、終わった終わった‥‥って、ここどこよ?」
野犬に追われて随分道を外れてしまった。
「やべ〜、あんま遅くなるとまた嫌味言われちまうぜ」
水場に急ごうとしばらく歩くと、何やら洞窟の入り口のようなものが眼に入った。ただそれは、自然が創り上げたというのには、あまりにも不自然すぎる穴。僅かの逡巡の後、悟浄の足はその洞窟に向かっていた。
「‥‥遅いですね、悟浄‥‥」
心配げな八戒の声に、三蔵は読んでいた新聞から眼を上げた。
「さっき、遠吠えのようなものも聞こえてましたし‥‥大丈夫でしょうか」
本当は三蔵も気になっていたのだが。それを悟られないようにつとめて平静な声を出した。
「‥‥大丈夫だろ。いくらあいつが馬鹿でも、動物にやられるほど鈍くはないはずだ」
「ええ‥‥ですが」
さっき悟空が様子を見に行った時、近くの川の状態を聞いて、悟浄が遠くの水場まで行ったのだということはすぐに分かった。此処に来るまでに特別妖気も感じなかったので、タカをくくってしまったのかも知れない。探しに行く、と三蔵に言おうとしたその時。
「悟浄!」
悟空の、叫ぶような声が聞こえた。振り返る三蔵と八戒の眼に、憔悴し切った悟浄の姿が飛び込んできた。
「悟浄、血の匂いがする!どこか怪我してんのか?」
悟空の言葉に緊張が走る。
「あ、いや‥‥野犬、殺したから‥‥俺は、別に‥」
「ウソ付け!手、血ィ出てるじゃんか!」
「見せてください!‥‥爪が剥がれてるじゃないですか!一体、何があったんです?水場に行ったんじゃなかったんですか?」
「ああ‥‥そうだ、ワリ、水‥‥忘れた‥‥」
「そんなことはどうでもいい。何があったんだ?」
どこか空ろで要領を得ない悟浄の様子に業を煮やしたのか、三蔵が初めて口を開いた。そこで初めて三蔵の存在に気が付いたように、「三蔵‥」と呟く。はっとしたように眼を見開いたかと思うと、ぶんぶんと頭を振り、息を吐く。
「‥‥ああ、悪かったな。ちょっと俺、ぼけてたみてぇ」
ようやくいつもの彼に戻った。八戒が密かに安堵のため息を漏らしたとき、悟浄が再び三蔵の名を呼ぶ声がした。
「ちょっと一緒に、来てくんない?」
そこは、森の中にあって、まるで森ではないような‥‥そんな場所だった。円形に開けた地面には草花が生い茂り、空もまた丸く切り取られている。そして、その場所の中心に、小さい土饅頭が作られていた。上には花が添えられている。
「野犬に襲われたんだと思う‥‥まだ、赤ん坊だった」
骨を見つけたから、ここに埋めたと悟浄は言った。痛々しい手は、その時に傷付けたものだろう。
「経、あげてやってよ」
「‥‥‥」
何も言わず、三蔵は足を組んだ。自分の経で、死んだ赤子の魂がどうにかなるとは思わなかったが、目の前の優しい男の気が少しでも慰められるのなら、無駄ではない。響き渡る三蔵の声を、悟浄は眼を閉じて、聞いていた。
「早く戻りましょう、悟浄の手も手当てしなくては」
もう、あたりはほの暗い。早く戻らねば、また懲りもせず野犬たちが襲ってくるだろう。八戒の言葉に足を速める一行だったが――――ふと、三蔵の足が止まった。何か、感じる。何か、術のような‥‥本当に微かな物だったが。
踵を返し、その気配のする方へと歩き出す。
「お、おい、三蔵?」
悟浄の焦った声が聞こえる。八戒と悟空には何が何だか分からなかったが――取りあえず三蔵の後を追った。
三蔵が足を止めたのは、洞窟の入り口だった。横には、悟浄が持って出たはずの、水を入れる容器が落ちている。悟浄を睨むと、一瞬困ったような顔をして、眼をそらした。
―――何、隠してやがる
イラ立ちを抑え、中へ足を踏み入れた。
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