それでも旅は続いてく(3)

「か、勝てねぇ―――」

ようやく実力の違いを思い知った妖怪が、脱兎の如く逃げ出すのに時間はかからなかった。転がるように走り去る逃げ足は、それなりに評価に値するが。

「あれま。どーする三蔵様?」
「ほっとけ。そろそろ来る頃だ」

何が?と悟浄が尋ねる前に、妖怪たちが逃げ去った方向から轟音と断末魔のような叫び声が響いてくる。

「あ。そゆこと、ね」

間をおかず、その音の発生源と思われた二人が息を切らせてやってくる。

「あー、いたいた。いい年して迷子にならないで下さいよ、三蔵」
「俺じゃねぇ、そっちがはぐれたんだろが」
「‥‥そんな事言っちゃいますか、貴方」
「悟浄もめっけ!ちぇ〜、心配して損したなぁ」
「そーゆー台詞は心配してから言えっての」
「へへっ、バレた?」
「じゃ、そろそろ行きましょうか?買出しは済ませてありますし」
「ああ」

首が捻じれ、顔を潰され、頭を撃ち抜かれ、手足を投げ出して転がる死体の数々。そこかしこにある血だまりを何気なく避けながら、四人は軽口を止めずに歩き出す。もう、この街に留まるわけにもいかない。街の住人たちの逆恨みを買うのは目に見えていた。

 

「は‥‥はは‥‥。どうやら助かったみてぇだな‥‥」

乾いた笑いと掠れた声に引きつけられるように、悟浄の足が止まる。悟浄の旧友が、腰を抜かしてしゃがみ込んだまま、返り血と涙にまみれた顔を歪ませていた。

「冗談じゃねぇよ‥‥。何でこんな事に巻き込まれなきゃならねぇんだよ。なぁ、悟浄、お前だってそんな怪我させられて――――。信じてくれよ、マジで俺はお前に怪我させるつもりなんか、これっぽっちも無かったんだ。眠らせたのだって、お前を守ろうと思ってやった事なんだよ。アイツらに、三蔵法師だけが目的だって言われて――――」

あまりの恐怖が心の箍を外し、却って男を饒舌にしている。

思わず振り返って反応しようとした悟空の腕を、悟浄が掴んで止めた。悟空の抗議の視線を、悟浄は無言のまま手にほんの僅かな力を込めて受け流す。

「でも、な?分かるだろ?仕方がねぇ事ってあるだろ?俺はさ、お前と違って普通の人間だし?妖怪なんかに勝てるわきゃねぇよ。脅されりゃ、言う事聞くしかねぇって。な?そうだろ?」

悟浄は黙って男に背を向けたままだった。
三蔵も、八戒も、そして悟空も。誰も男を見てはいない。だが、男はそんな事には気付かない様子だった。

「仕方ねぇんだよ、街を守るためだったんだ。世の中、奇麗事ばっかじゃやってけねぇ。な?お前なら分かってくれるよな?悟浄、お前だって昔は色々やってたよな?今更、俺を責めたりしねぇよな?」

欠けた月から溢れる優しい光が、転がる妖怪にも、三蔵たちにも、悟浄にも、男にも、分け隔て無く降り注いでいる。
柔らかな光に紅い髪を縁取られた悟浄は、男に背を向けたまま微動だにしなかった。

「そうだ―――ここに残ってくれよ悟浄。只でさえ毎日気苦労ばっかでヘトヘトなのによ、これから俺はこの街を立て直さなきゃならねぇんだ。お前の助けがありゃあ、心強ぇよ。大体その坊さんと一緒に旅してりゃ、これからだってヤバい目にあうだろ?そんなの止めとけって、なぁ?俺と組もうぜ、悟浄。昔に戻って、楽しくやろうぜ?」

不意に、じゃらん、と悟浄の腕の鎖が鳴った。今までの鎖の存在を忘れさせる程に軽快な動きが嘘のように、鈍く腕を上げて髪をかき上げる。男は悟浄が怪我人である事を思い出したのか、僅かばかり気まずそうに口を閉じた。
途端に辺りは静寂に包まれる。そこでようやく、男は場の雰囲気というものを感じたらしい。無言のままの三蔵たちに気後れした様子で辺りを見回したが、助けを求めるようにもう一度悟浄の名を呼んだ。

その声が、悟浄の中でどんな作用を齎したのかは誰にも測れない。

僅かに伏せていた瞳を上げたとき、悟浄の表情からは全ての感情が消え失せていた。ただ、真っ直ぐに前を見ている。そして無言のまま、他の三人を促す形で歩き出した。

「ま、待ってく‥‥!」

追い縋る、必死な声。だが、悟浄は足を止めない。焦る男の声だけが、静寂の街に響き渡る。悟浄に拒絶されるのは理不尽だと、叫ぶ声音が物語っていた。

「俺が悪いってのか悟浄!?仕方がなかったんだ!俺は――――俺は!この街と、お前のために―――」

緩まる事の無い歩調。恐らくは二度と埋まることのない旧友との距離が、ゆっくりと、だが確実に開いていく。

「仕方なかったんだ、俺は悪くない‥‥。仕方なかったんだ‥‥」

徐々に小さくなる悟浄の背中に、男の声は既に届かない。結局悟浄は一度たりとも、男の方を振り返ることはなかった。
うわ言のように繰り返される呟きは、誰にも受け取られず空気に溶けて消えていった。

 

 

 

 

 

 

「眠れねぇのか?」
「んー?まだお子様タイムっしょ」

あれから三蔵たちはすぐに街を出発した。
これからあの街がどうなるか、気にしてみても始まらない事だ。とりあえず街からある程度の距離をおいたところで、予定外の野営となった。
全員が疲労していたため、早々に火を落として眠りについたのだが。
音を立てないようにこっそり皆から離れた悟浄を、三蔵は追いかけた。そんな三蔵の行動を予期していたのか、悟浄は不意に掛けられた声にも驚く様子は無く。
三蔵が煙草を咥えると、黙って火が差し出される。
ライターの炎に照らし出された悟浄の手首は、僅かに赤黒く変色していた。

悟浄の両手首に嵌められた妖力制御装置は外され、体中の傷も八戒により治療されていた。ただ左の肩だけは、しばらく使い物にはならないだろう。
下げられたままの肩に、三蔵は一瞬だけ目をやった。

「痛みは?」
「へーき。そっちは?」
「‥‥ああ」

答えになっていない返事で煙草をふかす姿に、悟浄は苦笑する。それでも意図は十分に伝わったのか、悟浄はそれ以上何も言わなかった。ふたつの紫煙が立ち昇るのをぼんやりと目で追っている。
妖怪たちと死闘を繰り広げたのはつい二時間ほど前。あの時の喧騒が夢であったかのように、辺りは静寂に包まれていた。欠けた月は僅かに位置を変え、やはり柔らかい光で二人をほのかに照らし出す。

静かな夜だった。

つ、と悟浄が三蔵の頬を不意に撫でた。手当てするほどの傷でもないと放っておいた、掠り傷。

「残んなきゃいーけど」

女じゃあるまいし、という言葉を三蔵は飲み込んだ。この傷はあの男の銃弾によって付けられたものだ。悟浄がそれを知る筈はないが、迂闊だったか、と三蔵は手当てを拒んだ事を後悔した。
目に見える傷は、いずれは癒える。だが、見えない傷は。

「残らねぇよ、こんな傷」

そっけない声で答えるしか出来ない。
鬱陶しげに振り払えば、ホントに可愛くねぇのと拗ねたようにそっぽを向く。いつもより絡んでこない視線が、悟浄の押し殺した感情を表している。けれど場を立ち去らないところをみると、悟浄が今、三蔵の存在を望んでいると判断して良いだろう。
ならば、黙って側にいるだけのことだった。

ほんの少し俯き加減で紫煙を吐き出す悟浄の頬に、髪がさらりと流れてかかる。右手に煙草、左手は怪我で動かせない悟浄のために、何の気なしに三蔵はそれをかきあげてやった。ベッドの上では悟浄の髪を梳くのは一種の習慣のようなものだったから、抵抗はない。
すると、悟浄はほんの少し目を見開いて、すぐにふわりと微笑んだ。今にも泣き出しそうな微笑だった。
何だと問い質す間もなく、悟浄はその微笑を消し去った。一瞬の揺らぎを隠すように、三蔵から視線を逸らす。
静かな、とても静かな夜に佇む二人の間を、沈黙が流れていく。

 

 

「‥‥ダチだったんだ」

やがて、ぽつりと悟浄が零した。

「ああ」

自分から視線を外したままの呟きに、三蔵は頷いてやる。

「‥‥変わったなって、言われてさ」
「そうか」

悟浄は木に寄りかかるようにして、どこか遠くを見つめていた。
ほう、と小さなため息をひとつ吐いた横顔は、思いのほか幼い。

「‥‥生真面目な奴でさ、遊びなんて全然知らなくって。俺が馬鹿やる度に説教すんだよな。お堅いし、お節介でウゼぇんだけど、何でかウマが合うってのかな、不思議と一緒に飲むのが楽しいって思える奴でねぇ。俺の片親が妖怪だって知った時も、ふーんて笑ってたっけ」

懐かしそうに目を細めて笑う。こんな風に、悟浄が過去を語るのは珍しい。
数少ない悟浄の理解者。悟浄が自分の出生を語るほど、心を許していたという証。かつてのあの男は、悟浄にとって本当にいい友人だったのだろう。

「何事も筋を通さなきゃ許せねぇってタイプでさ。も少し頭、柔らかくしろよって皆によくからかわれてたなー」

目を血走らせ、三蔵に銃を向けた男。自己防衛のための言い訳に終始していた姿からは、悟浄の語る男と同一人物だとはとても想像できない。

人は変わる。良くも悪くも。
それだけの年月が、悟浄とあの男の間には流れたのだ。

悟浄は笑んだまま、ようやく三蔵の方へ顔を向けた。いつもと同じ筈の深紅の瞳が、今夜はやけに哀しい色をしていると三蔵は思う。
 

「昔さぁ、俺‥‥」

そこで少しだけ言い淀んで、悟浄は新しい煙草を取り出した。

「一度だけ、あいつに‥‥‥。酔った勢いで告白された事あってさ」
「‥‥‥」
「俺、酷いこと言ったんだよなぁ。男なんか気持ち悪ィとか何とか‥‥‥せせら笑ってさ」

三蔵は知らない。悟浄が今、『宗旨替えか?』と酒場で寂しげに微笑んだ旧友の顔を思い浮かべ胸を痛めていることを、三蔵は知らない。こんな時にも三蔵の手ならば髪を梳かれる行為に喜びを感じてしまう自分を責めていることを、三蔵は知らない。

「真っ直ぐに俺の目ぇ見てさ‥‥。あいつの本気がビシビシ伝わってきたもんだから、ビビって罵って‥‥‥結局は冗談にして誤魔化した。次の日には、あいつ町からいなくなってたよ」

悟浄は火を入れたばかりの煙草の煙を、殊更に細く吐き出した。まるでため息のようだった。
 

「‥‥‥あいつがあんなになったの、俺のせいかもな」
 

穏やかな告白が、夜気に吸い込まれていった。
悟浄が口を閉ざすと同時に、再び辺りは静寂に包まれる。二人は黙ったまま、紫煙を燻らせていた。

そんなことはないと。お前のせいじゃないと。慰めの言葉を掛けるのは容易い。だが、三蔵はそうしなかった。

「――――いい加減もう休むぞ。明日も早い」
「へいへい」

煙草を木に押し付けて消し、素直に八戒たちの眠る場所に戻ろうとする悟浄の手を三蔵は押さえて引き止めた。何?、と振り向く唇を軽く啄む。あまりにも自然になされた不意打ちに目を丸くしている悟浄の側を、すり抜けた。そういえば、三蔵から仕掛ける口付けは、いつも奪うような激しいものだった。触れるだけのそれを悟浄がどう受け止めたのかは、三蔵には分からない。
余程驚いたのか、しばらく悟浄が動く様子は感じられなかった。

 

「さんぞっ」

数歩離れたところでようやく背後から追ってきた声に、足を止める。

「さんきゅ、‥‥あいつ守ってくれて」
「‥‥‥‥」

答えないまま再び歩き出す三蔵に、軽く笑う気配。もう三蔵は歩みを止めなかった。
少し遅れて、後ろの地面が鈍く鳴る。やっと悟浄が歩き出したらしい。ゆったりと歩を進める三蔵へと、徐々に速度を速めながら近付いてくる足音を聞きながら、どうやら明日も晴れそうだと三蔵は取り留めのないことを考えた。
追いついた悟浄が、三蔵の隣に並ぶ。痛めた腕を庇う仕草を全くみせないところが、この男らしい。

「なあ」

声をかけられて無防備に首を回せば、急激に視界に紅い色が広がった。頬にぬるりとした感触。傷を舐められたのだと気付いたときには、悟浄は既に駆け出していた。んじゃお先、と振り返ってニヤリと笑う表情はいつも通りだ。
三蔵が悟浄に仕掛けた口付けより恥ずかしい真似に、してやられたと三蔵は苦々しく思ったが、何故か口元は意思に反して綻んでいた。そして三蔵は、それを無理に収めようとは思わなかった。

長かった一日が、終わろうとしていた。
 

 

「それでも旅は続いてく」完

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