それでも旅は続いてく(3)
「か、勝てねぇ―――」 ようやく実力の違いを思い知った妖怪が、脱兎の如く逃げ出すのに時間はかからなかった。転がるように走り去る逃げ足は、それなりに評価に値するが。 「あれま。どーする三蔵様?」 何が?と悟浄が尋ねる前に、妖怪たちが逃げ去った方向から轟音と断末魔のような叫び声が響いてくる。 「あ。そゆこと、ね」 間をおかず、その音の発生源と思われた二人が息を切らせてやってくる。 「あー、いたいた。いい年して迷子にならないで下さいよ、三蔵」 首が捻じれ、顔を潰され、頭を撃ち抜かれ、手足を投げ出して転がる死体の数々。そこかしこにある血だまりを何気なく避けながら、四人は軽口を止めずに歩き出す。もう、この街に留まるわけにもいかない。街の住人たちの逆恨みを買うのは目に見えていた。
「は‥‥はは‥‥。どうやら助かったみてぇだな‥‥」 乾いた笑いと掠れた声に引きつけられるように、悟浄の足が止まる。悟浄の旧友が、腰を抜かしてしゃがみ込んだまま、返り血と涙にまみれた顔を歪ませていた。 「冗談じゃねぇよ‥‥。何でこんな事に巻き込まれなきゃならねぇんだよ。なぁ、悟浄、お前だってそんな怪我させられて――――。信じてくれよ、マジで俺はお前に怪我させるつもりなんか、これっぽっちも無かったんだ。眠らせたのだって、お前を守ろうと思ってやった事なんだよ。アイツらに、三蔵法師だけが目的だって言われて――――」 あまりの恐怖が心の箍を外し、却って男を饒舌にしている。 思わず振り返って反応しようとした悟空の腕を、悟浄が掴んで止めた。悟空の抗議の視線を、悟浄は無言のまま手にほんの僅かな力を込めて受け流す。 「でも、な?分かるだろ?仕方がねぇ事ってあるだろ?俺はさ、お前と違って普通の人間だし?妖怪なんかに勝てるわきゃねぇよ。脅されりゃ、言う事聞くしかねぇって。な?そうだろ?」 悟浄は黙って男に背を向けたままだった。 「仕方ねぇんだよ、街を守るためだったんだ。世の中、奇麗事ばっかじゃやってけねぇ。な?お前なら分かってくれるよな?悟浄、お前だって昔は色々やってたよな?今更、俺を責めたりしねぇよな?」 欠けた月から溢れる優しい光が、転がる妖怪にも、三蔵たちにも、悟浄にも、男にも、分け隔て無く降り注いでいる。 「そうだ―――ここに残ってくれよ悟浄。只でさえ毎日気苦労ばっかでヘトヘトなのによ、これから俺はこの街を立て直さなきゃならねぇんだ。お前の助けがありゃあ、心強ぇよ。大体その坊さんと一緒に旅してりゃ、これからだってヤバい目にあうだろ?そんなの止めとけって、なぁ?俺と組もうぜ、悟浄。昔に戻って、楽しくやろうぜ?」 不意に、じゃらん、と悟浄の腕の鎖が鳴った。今までの鎖の存在を忘れさせる程に軽快な動きが嘘のように、鈍く腕を上げて髪をかき上げる。男は悟浄が怪我人である事を思い出したのか、僅かばかり気まずそうに口を閉じた。 その声が、悟浄の中でどんな作用を齎したのかは誰にも測れない。 僅かに伏せていた瞳を上げたとき、悟浄の表情からは全ての感情が消え失せていた。ただ、真っ直ぐに前を見ている。そして無言のまま、他の三人を促す形で歩き出した。 「ま、待ってく‥‥!」 追い縋る、必死な声。だが、悟浄は足を止めない。焦る男の声だけが、静寂の街に響き渡る。悟浄に拒絶されるのは理不尽だと、叫ぶ声音が物語っていた。 「俺が悪いってのか悟浄!?仕方がなかったんだ!俺は――――俺は!この街と、お前のために―――」 緩まる事の無い歩調。恐らくは二度と埋まることのない旧友との距離が、ゆっくりと、だが確実に開いていく。 「仕方なかったんだ、俺は悪くない‥‥。仕方なかったんだ‥‥」 徐々に小さくなる悟浄の背中に、男の声は既に届かない。結局悟浄は一度たりとも、男の方を振り返ることはなかった。
「眠れねぇのか?」 あれから三蔵たちはすぐに街を出発した。 悟浄の両手首に嵌められた妖力制御装置は外され、体中の傷も八戒により治療されていた。ただ左の肩だけは、しばらく使い物にはならないだろう。 「痛みは?」 答えになっていない返事で煙草をふかす姿に、悟浄は苦笑する。それでも意図は十分に伝わったのか、悟浄はそれ以上何も言わなかった。ふたつの紫煙が立ち昇るのをぼんやりと目で追っている。 静かな夜だった。 つ、と悟浄が三蔵の頬を不意に撫でた。手当てするほどの傷でもないと放っておいた、掠り傷。 「残んなきゃいーけど」 女じゃあるまいし、という言葉を三蔵は飲み込んだ。この傷はあの男の銃弾によって付けられたものだ。悟浄がそれを知る筈はないが、迂闊だったか、と三蔵は手当てを拒んだ事を後悔した。 「残らねぇよ、こんな傷」 そっけない声で答えるしか出来ない。 ほんの少し俯き加減で紫煙を吐き出す悟浄の頬に、髪がさらりと流れてかかる。右手に煙草、左手は怪我で動かせない悟浄のために、何の気なしに三蔵はそれをかきあげてやった。ベッドの上では悟浄の髪を梳くのは一種の習慣のようなものだったから、抵抗はない。
「‥‥ダチだったんだ」 やがて、ぽつりと悟浄が零した。 「ああ」 自分から視線を外したままの呟きに、三蔵は頷いてやる。 「‥‥変わったなって、言われてさ」 悟浄は木に寄りかかるようにして、どこか遠くを見つめていた。 「‥‥生真面目な奴でさ、遊びなんて全然知らなくって。俺が馬鹿やる度に説教すんだよな。お堅いし、お節介でウゼぇんだけど、何でかウマが合うってのかな、不思議と一緒に飲むのが楽しいって思える奴でねぇ。俺の片親が妖怪だって知った時も、ふーんて笑ってたっけ」 懐かしそうに目を細めて笑う。こんな風に、悟浄が過去を語るのは珍しい。 「何事も筋を通さなきゃ許せねぇってタイプでさ。も少し頭、柔らかくしろよって皆によくからかわれてたなー」 目を血走らせ、三蔵に銃を向けた男。自己防衛のための言い訳に終始していた姿からは、悟浄の語る男と同一人物だとはとても想像できない。 人は変わる。良くも悪くも。 悟浄は笑んだまま、ようやく三蔵の方へ顔を向けた。いつもと同じ筈の深紅の瞳が、今夜はやけに哀しい色をしていると三蔵は思う。 「昔さぁ、俺‥‥」 そこで少しだけ言い淀んで、悟浄は新しい煙草を取り出した。 「一度だけ、あいつに‥‥‥。酔った勢いで告白された事あってさ」 三蔵は知らない。悟浄が今、『宗旨替えか?』と酒場で寂しげに微笑んだ旧友の顔を思い浮かべ胸を痛めていることを、三蔵は知らない。こんな時にも三蔵の手ならば髪を梳かれる行為に喜びを感じてしまう自分を責めていることを、三蔵は知らない。 「真っ直ぐに俺の目ぇ見てさ‥‥。あいつの本気がビシビシ伝わってきたもんだから、ビビって罵って‥‥‥結局は冗談にして誤魔化した。次の日には、あいつ町からいなくなってたよ」 悟浄は火を入れたばかりの煙草の煙を、殊更に細く吐き出した。まるでため息のようだった。 「‥‥‥あいつがあんなになったの、俺のせいかもな」 穏やかな告白が、夜気に吸い込まれていった。 そんなことはないと。お前のせいじゃないと。慰めの言葉を掛けるのは容易い。だが、三蔵はそうしなかった。 「――――いい加減もう休むぞ。明日も早い」 煙草を木に押し付けて消し、素直に八戒たちの眠る場所に戻ろうとする悟浄の手を三蔵は押さえて引き止めた。何?、と振り向く唇を軽く啄む。あまりにも自然になされた不意打ちに目を丸くしている悟浄の側を、すり抜けた。そういえば、三蔵から仕掛ける口付けは、いつも奪うような激しいものだった。触れるだけのそれを悟浄がどう受け止めたのかは、三蔵には分からない。
「さんぞっ」 数歩離れたところでようやく背後から追ってきた声に、足を止める。 「さんきゅ、‥‥あいつ守ってくれて」 答えないまま再び歩き出す三蔵に、軽く笑う気配。もう三蔵は歩みを止めなかった。 「なあ」 声をかけられて無防備に首を回せば、急激に視界に紅い色が広がった。頬にぬるりとした感触。傷を舐められたのだと気付いたときには、悟浄は既に駆け出していた。んじゃお先、と振り返ってニヤリと笑う表情はいつも通りだ。 長かった一日が、終わろうとしていた。
「それでも旅は続いてく」完 |