それでも旅は続いてく
とある夏の日の出来事だった。 「な〜三蔵〜腹減った!あれ買ってよ、あれ食いたい!」 活気があろうと寂れていようと。店がある限り繰り広げられる、いつもの光景。 「もう少し、我慢してくださいね、悟空。宿に着いたら何か作ってあげますから」 八戒が指し示す方に目をやれば、少し離れたところで、これまた見慣れた光景が繰り広げられていた。 「お嬢さん、お買い物?家どこ?こんなところ一人で歩いてたら物騒だから、俺が送って‥‥」
ドゴッ
後ろから蹴り倒されて、悟浄は壁に激突した。それでも目の前の女性を避けたのは、流石というべきか。 「んのエロ河童!フラフラしてんじゃねぇ!」 怯えた女性が後ずさり、通りを行く人々の足跡が僅かに遠巻きなコースを辿り始めても、当の二人の罵り合いは一向に止む様子は無い。 「女と見りゃあ、見境なく口説きやがって、ちったあ自制しろ!獣か貴様は!」
ぱちぱちぱち
「いやあ、全くその通り!いい事言うねぇ、おにーさん!」 拍手と共に、不意に耳に届く明るい男の声。三蔵と悟浄、そして八戒と悟空も、思わず声の方向を振り返る。 「‥‥‥お前!?」 悟浄の目が驚きと困惑で見開かれるのを楽しそうに眺め、男はゆっくりと近付いてきた。 「うわ、お前元気だったか?何年ぶりだよ?急に消えちまいやがって!」 ばんばんと男の肩や腕を叩いて喜ぶ姿は、まるで子供のようだ。 「みんな心配してたんだぜー?」 急に現れた男は、どうやら悟浄の知り合いらしい。三蔵が八戒を横目で伺うと、その意図を正確に読み取った八戒は首を横に振った。 「僕は会った事はありませんね‥‥もっと以前の知り合いでしょう」 困惑顔の仲間を他所に、悟浄とその男は妙に盛り上がっている。男は手で杯を空ける仕草をした。 「どうだ久しぶりに。奢るぜ?」 手を取り合わんばかりに再会を喜ぶ二人をじろりと一瞥すると、三蔵は再び通りを歩き出した。 「いいんですか?」 もう一度、同じ問いを八戒が発する。 「――――街は、久し振りだからな」 ちら、と突然現れた悟浄の旧友に目をやりつつ、八戒が問いかけた。三蔵は振り向きもしないまま足を進めている。 「馬鹿は馬鹿を呼ぶんだろ――――いいから放っとけ。行くぞ」 『何であの人も馬鹿って三蔵知ってんの?』という悟空の無邪気な問いかけを無視して、三蔵は宿へと足を速めた。八戒も苦笑しながら後へ続く。 「悟浄〜、置いてくぞ!」 悟空に呼ばれ、悟浄は男に手を上げると仲間の元に走り寄る。
数時間後、繁華街の酒場で昔話に花を咲かせた悟浄と友人の男は、早くも二件目の店に向かっていた。いい店を知っているからと男に連れてこられたそこは、異国風の豪奢な建物。扉の前には黒いスーツを着たいかつい男が二人立っている。 「ずいぶん、洒落た店知ってんじゃねーか。大丈夫かよ?」 決して金の心配だけをしたのではないのだが。悟浄の心配をよそに男はずんずん扉の前に立ち塞がる男たちに近づいていく。 高級ではあるが落ち着いた装飾に、薄暗い照明とムーディな音楽。フロアでは何組かがチークを踊っている。 「‥‥すごいね、お前。こんなとこ顔パスかよ」 そこに居る客は、自分たちを除けば皆、正装をした連中ばかりだ。どう考えても、普段着の自分たちがあっさり入れる店だとは思えない。何より驚くのは、この場の誰一人として、場違いな服装の自分たちに奇異の目を向ける者がいない、という事実だった。それは、この友人がこの店のただの常連クラスではないという事を示唆している。 「ま、俺も色々あってな‥‥ちょっとした商売で当てて、一応この町の顔役っつー事になってる」 顔を見合わせて噴出して。 「こんな店がフツーにやっていけてるんじゃ、ここは平和なんだな」 感嘆を含んで漏らされた悟浄の呟きに、男は何故か曖昧に言葉を濁した。
「おい。あっち、見てみろよ」 突然、男にグラスで指された先に、二人連れの女がいた。こちらに含みのある視線を寄越している。 「どうだ?誘うか?」 男が小声で聞いてくる。女は、いかにも男たちの行動を待っている様子だった。一人は栗色の髪を隙無く結い上げ、背中の大きく開いたドレスを着ている。もう一人はブロンドの長髪を緩やかにカールし、大胆なスリットの入ったドレスから美しい足を惜しげもなく覗かせている。二人とも悪くない美人だった。 「こちら、ご一緒してもよろしいかしら?」 男はちらりと悟浄に視線を寄越す。『お前が決めろ』という事らしい。 「ごめんね。せっかくだけど、商談中なの。今度またプライベートで来た時に」 女の細い指が、さらりと悟浄の髪を撫でる。 「ありがと。君も俺の好みだけど‥‥また次にね」 自分の髪に伸ばされた女の指を絡め取り、指先に軽く口付ける。 「ん?」 男の視線が自分の髪に向いているのを見て、悟浄は軽く肩を竦める。 「髪をどうこう言われると、不機嫌になってたって?まあ、あの頃はガキだったし。俺も、色々あって、ってやつ?」 うっせーよ、と悟浄は笑った。 「決まった相手でも出来たのか?」 余程、悟浄が美女の誘いを足蹴にした事が意外だったに違いない。過去の悟浄の姿しか知らない旧友が、突っ込んで尋ねてくる。一体どれほどに女好きの印象を持たれているというのだろう。だが、確かに過去の自分の行動を思い起こせば、強くは否定できないところが少々情けなかった。おまけに、髪に対するコンプレックスを払拭した原因が、とんでもなく性悪の破壊坊主に入れあげたからだというのは致命的だ。 「んだよ、女を断ったからか?今日はたまたまそーゆー気分じゃねぇっつーだけ‥‥」 悟浄は軽い調子で否定していたのだが、男の表情を見て口をつぐんだ。 旧友は、笑っていなかった。前屈みで、両手で挟んだグラスを回しながら、男は揺れる酒の表面をただじっと見つめていた。 「‥‥‥さっき、街でな。実は声をかける少しばかり前から、お前に気付いてた」 沈黙を破ったのは、男の方だった。 「お前、いかにも身持ちの堅そうな女にばっか声かけてんのな。あの坊さんに止めて貰えるまで」 それきり、再び沈黙が落ちた。
「‥‥‥悪ィ」 どのくらいの間が空いたのか、グラスの氷が溶け出す頃に、ようやく悟浄がぼそりと呟いた。思い出したように男がグラスの中身を煽り、苦笑じみた笑みを零す。 「別に責めてんじゃねぇよ、人の心は変わるモンさ。俺たちはダチだ。あの頃からずっと――――そうだろ?」 何と答えるべきなのか悟浄には分からない。ただ、記憶の隅へと追いやっていた遠い昔の出来事が、胸にせりあがるように浮かんできただけだ。 「さ、飲もうぜ!」 殊更に明るい調子で笑って、男が琥珀色の液体を悟浄のグラスに注ぎ足してくる。
酔いが回って口が軽くなったらしく、男はこの街の実情についてぽつりぽつりと語った。 「それが‥‥妖怪の仕業だってのか?」 その問いに悟浄は答えなかった。強烈な違和感が拭えない。 (妖怪が、街の勢力争い‥‥。―――っ!?) 突然、悟浄は席を立った。少し酔っているらしく、立ち上がった拍子に僅かによろめく。足がテーブルにぶつかり、ボトルが倒れた。あたり一面に、高級酒の芳香が漂う。 「おい、どうした?」 一瞬感じた、特徴ある気配。この感じは間違いなく妖怪だ。 「なんだよ急に。まだいいじゃねぇか」 酔いを振り払うかのように軽く頭を振る悟浄の腕を掴んで、男が引き止める。 「すまんが、用事はキャンセルして貰う」 男の口調が、僅かに変わった。 「どうせ妖怪の狙いはあの坊さんなんだ、お前が巻き込まれるこたあねぇ。ここにいれば安全だ」 何故、普通の人間であるはずの男が妖怪の接近に気付いているのか。何故、妖怪の狙いを把握しているのか。 どんな馬鹿でも取り違えようもない事実が、そこにあった。 「何で‥‥おま‥‥、妖怪と‥‥?」 腕を引かれ、悟浄はあっさりと男の方へと倒れこんだ。身体は完全に自由を失い、それどころか意識さえも白濁した波に攫われそうだ。酒に何かを盛られたのは疑いようも無かった。 「少しの間、眠ってろ。目が覚めたら、何もかも終わってる」 優しげに聞こえる男の声と、髪を梳かれる感触。虫に肌を這われたようなざわざわとした寒気が、足元から這い上がってくる。髪に触れる手に嫌悪感を感じるのは久し振りだった。 「すぐ忘れられるさ、あんな坊さんの事なんか―――」 男の言葉を最後まで待たず、悟浄は意識を手放した。
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