さくら(2)

悟浄が再びその場所を訪れたのは、しばらくしてのことだった。

あれだけ溢れていた花見客も、今となってはひとりも見当たらない。当然だ。桜は、とっくの昔に散ってしまったのだ。現在、悟浄の目の前に広がるのは、限りない緑。
だが、やはり悟浄は人々で溢れかえっていた当時と同様に、指定席となっていた隅の大木の根元に胡坐をかいた。取り出した杯は二つ。これも、変わらない。
既に初夏の陽気を孕む風が、緑の葉をざわりと揺らす。悟浄の杯に降り注ぐのは、かつて雪のようだと思った桜の花びらではなく、明るい太陽の日差しだった。ともすれば、すぐに温んでしまう液体を、悟浄はあの頃のように一気に飲み干して、空を見上げた。

「―――悟浄」

不意に呼ばれた名前に視線を戻す。感じる既視感。
だが、目の前に佇むのは、あの時とは違う人物だった。純白の法衣を纏った僧侶―――三蔵だ。

三蔵は生きていた。
慶雲院を離れることとなった三蔵は、田舎の寺をひとつ任されることとなり、今日出発するのだ。

「遅ぇよ。もう始めちまった」
「フン」

三蔵は、ゆっくりと悟浄に近付くと、さも当然のように隣に腰を下ろした。その動きが多少ぎこちないのは、まだ癒えきらぬ傷のせいだ。三蔵は大怪我を負い、つい先日までは寝たきりの状態だったのだ。袂から垣間見える腕に巻かれた包帯が痛々しい。
だが、それより目を引くのは、三蔵の頭部をすっぽりと覆う頭巾だった。神々しいとまで評された金糸の髪も全てが隠され、唯一剥き出しの深い紫暗だけが、この人物が玄奘三蔵法師本人であることを証明していた。

「おい、俺にも寄越せ」

当然のように手を差し出してくる尊大な男に、杯を渡す。なみなみと注がれた酒に口を付けようとして、被っている頭巾が邪魔で飲み難いということに気付いたらしい。見えない口元から短い舌打ちが聞こえた。

「いいじゃん誰もいねぇし。取っちまえよ」

笑いを含んだ悟浄の声に押されるように。
三蔵の指が、頭巾の留め具にかかった。

 

 

 

 

 

転落した地点からかなり下流で発見されたとき、三蔵はひどい状態だったらしい。全身打撲と数箇所の骨折、背中には裂傷。発見したのは山奥に隠れ住むひとりの醜い男だったという。
男は自分をいじめ、除け者にした村の人間を憎んでいた。だが以前、村人たちに危うく半殺しにされかけたところを通りがかった僧侶に救われてから、僧侶にだけは敬意を払うようになっていた。だから、初めは無視しかけた怪我人が、法衣を纏っていたのに気付くと、すぐに引き返してきたのだった。
三蔵はすぐに医者の元に運ばれた。だが手当を受けても三蔵の意識は戻らず、しかも担ぎ込まれた先が男の嫌う近くの村ではなく遠く離れた隣町の医者だったことも、三蔵の消息を掴めなくさせていた一因だった。三蔵の死という最悪の結果からくる信者たちの仏教離れを恐れた寺院側が、三蔵の行方不明を公にしなかったことも、所在の判明の遅延に多分に影響した。
昏睡状態が続く金髪の僧侶の情報を寺院が得られたのは、高額の治療費を請求された男が困った挙句、近くの寺に相談したからに他ならない。

すぐさま駆けつけた悟浄は、不眠不休で三蔵を看病し続けた。今度ばかりは僧侶たちに何を言われても、三蔵の側を離れようとはしなかった。
身体の傷はどんどんと癒えていくのに、意識だけが戻らない。三蔵がこのまま目覚めなかったらと、悟浄は焦燥感に苛まれ、眠れぬ日々を過ごした。そして再会から一週間後、三蔵がようやく目を開いたときには、悟浄は不覚にも泣いてしまった。
その後、三蔵は順調に回復していった。だが、顔面を覆う包帯だけはいつまでも取れることはなく。退院するときにも頭巾で顔を隠したまま慶雲院に戻り、決して人前でそれを取ることはなかった。

玄奘三蔵法師がその美貌を失ったと、寺院内で噂が立つのに時間はかからなかった。

緘口令が布かれたにも拘らず、噂はいつしか街中で囁かれるようになり、瞬く間に桃源郷全土に広まっていった。

そうなると、困窮したのは噂の発信源である慶雲院であった。
回復したとはいえ、生死の境をさまよった身体が、すぐに本調子に戻るわけではない。いくらなんでも、ようやく起き上がれるようになったばかりの三蔵法師に、山のような公務は酷である。かといって、あの三蔵が、寺院の上層部が望むような単なるお飾りでいてくれるとも思えない。三蔵法師が寺院の最高位である限り、何に付けても伺いを立てなければならないが、当の本人に面倒事を押し付けるわけにはいかないのである。
かつては三蔵の姿をひと目と寺院に大量に押しかけてきていた信者も、随分と減った。三蔵は確かに偉業を成した。しかし喉もと過ぎれば熱さを忘れるの諺通り、その業績を差し引いても、美貌を失った三蔵法師は既に仏教の広告塔ではなくなったのだ。
こうなると、三蔵法師もただの厄介者だ。寺院の僧侶たちが盲信するには、玄奘三蔵法師はあまりにも規格外の最高僧だった。

住職の居ないまま放置されている田舎の寺の話を誰かが聞き及んできたのは、寺院側にとっては渡りに船といえた。
すぐさま、『三蔵様には心身ともに負担の少ない田舎の寺でゆっくり静養されていただきたい』、とのもっともらしい嘆願が三仏神へなされ、受理されたのだ。赴任先へ赴く間の護衛と、着任してからの三蔵の身の回りの世話係とを兼ねて、悟浄が同行することが決定しても、誰も口を挟むものはいなかった。それどころか邪魔者が纏めていなくなると喜んだ。

三蔵の新たな赴任先は、悟浄が耳にしたこともない山奥の寺だった。三蔵によると、高齢だった前の住職が身罷ってから数年来、その寺には後任も派遣されず空き寺になっていたらしい。その理由というのが『出る』からだと聞かされたとき、悟浄は首を傾げた。

『出るって‥‥何が?』
『妖魔とか、幽霊とか、そんな類だ』
『‥‥ふーん‥‥』
『待てコラ』

そのまま立ち去ろうとする悟浄の首根を、むんずと三蔵は捕まえた。

『放せ!!俺は行かねぇぞ、そんな胡散臭いトコ!』
『心配すんな。祟られて死んだ奴は今のところいない、という噂だ』
『噂かよ!しかも今のところって!?』

公表されてはいないが、その地には空間の歪みのようなものがあり、時折この世のものではないモノが湧き出してくるという。全てが人間に仇をなす存在ばかりではないのだが、歪み自体は解消できない類のものなので、法術の心得がある者が定期的に祓わなければ湧き出したモノは増え続ける一方らしい。実際は三蔵が悟浄をからかったような危険はないが、やはり薄気味が悪いと僧侶たちにも敬遠されていた。
そんな住む人もまばらな田舎の地で、これから三蔵は生きていくのだ。―――――悟浄と共に。

 

 

 

それにしても、と悟浄は目を細めて、手酌で酒を注ぎ足す隣の男を見やった。頭巾を取った今は、素顔が晒されている。

「――――詐欺師」
「何のことだ?」

悟浄に目もくれず酒を口に運ぶ横顔。初夏の日差しに見事な金糸が煌いて、美しい。過酷な旅の間にも不思議と日に焼けた印象の無い肌は、今も抜けるように白くある。

だが、ただひとつ。左頬に広がった薄い痣は、以前にはなかったものだ。

悟浄は、つん、と三蔵の頬の痣を軽くつついた。

「その分じゃ、もうじきキレーに治っちまうなあ。どうせなら、俺とお揃いの傷でも残りゃ良かったのに」
「それも悪くなかったかもな」

悟浄の指を避けるわけでもなく冗談で返され、悟浄は驚く。

「どした?機嫌よくね?」
「悪いわけねぇだろが」

三蔵は今日、慶雲院の主な僧正たちと共に、斜陽殿を訪ねた。三仏神より正式に任命を受け、旅立ちの挨拶をするためである。特別に赦されて、三蔵は謁見の間もずっとその顔面を隠す頭巾を被ったままだった。

儀式も終わり、三蔵が暇の挨拶のために顔を上げたとき、三仏神の一人が不意に言った。

『ところで玄奘三蔵よ。身体の具合もさることながら―――顔の痣はその後どうか?』
『は。おかげ様で順調に』
『どれ、見せてみよ』
『いやしかし‥‥このようなものを晒しては、お目汚しに』
『構わん』

三仏神からの求めに否とも言えず、三蔵は頭巾を取り去った。

驚いたのは、同席していた慶雲院の僧正たちである。
ある者は、三蔵法師の顔は醜く歪んでいるものと思っていた。
ある者は、三蔵法師の顔には酷い傷が残っているものと思っていた。
いずれにせよ、玄奘三蔵法師は二目と見られぬ醜い顔になっているはずだったのだ。
だが、頭巾を取った目前の三蔵法師といえば、以前からの秀麗な美貌はそのままに、よく見なければ分からないような薄い痣が左頬にぽつりとあるだけではないか。
僧正たちが呆然としている間にも、三仏神と三蔵の和やかともいえる会話は続く。

『確かに順調のようだな。傷も残らぬ様子でなによりだ。もう頭巾は取ってもいいのではないか?』
『は、ですがすっかり消えるまでは。皆に不快な思いをさせるのも如何なものかと』
『そうか、まあよい。せっかくの皆の心遣いだ、しばらくは田舎でのんびり養生するがよかろう』
『ありがとうございます』

三蔵が神妙に頭を下げる。目の前で繰り広げられる光景に、僧正たちはただ口をぱくぱくとさせ続けるだけだ。

『それから―――』

不意に、三仏神は呆けたままの僧正たちに目をやった。心なしか厳しさを増した視線に、我に返った慶雲院の僧正たちは慌てて一斉に頭を下げた。

『今後はそなたらの寺に三蔵法師はおらぬことになるゆえ、早急に新たな大僧正なりを赴任させることとしよう。それぞれに修養に励み、皆で力を合わせて寺を守っていくがよい。此度はそなたらの玄奘三蔵を思いやる心根、深く感じ入った』

『は、はっ!勿体無きお言葉にございます!』

一糸乱れぬタイミングで平伏した僧正たちの手が、微かに震えている。ようやく僧正たちは、自分たちが何をお膳立てしたかに気付いたのだ。
三蔵が赴任するのは、妖魔が溢れているだろう田舎の村。だが祓う行為自体には然程の霊力も法力も不要で、強いて三蔵法師が赴く必要などない。ただ、定期的に力を揮わねばならない環境は、三蔵を長く遠方の地に縛り付けておきたい寺院の思惑にはうってつけだったのだ。それが三蔵にとってこそ、渡りに船の申し出だったことに気付かずに。
悔しさを滲ませながら平伏し続ける僧正たちを一瞥した後、三仏神は意味深な微笑を三蔵に寄越したのだった。

 

 

 

 

「寺の連中、今頃地団駄踏んでんだろな」
「自業自得だ。知ったことか」

美貌の三蔵法師の噂が再び長安に流れてくるまでには、しばらくかかるだろう。呼び戻されるか、新たな赴任先を与えられるか、どちらにしても当分は、三蔵と悟浄は誰に憚ることなく共に暮らし、生きられる。
これで三蔵の機嫌が悪くなるはずがなかった。勿論、悟浄とて同じ気持ちだった。

しばらくは黙って互いに酒を注ぎ合い、静かに二人の旅立ちを祝う。目に鮮やかな緑の若葉たちが風に揺られ、少し早い本格的な夏を待ちきれないように急かしていた。

「葉桜もいいとこだな」

ぽつ、と零された言葉は、悟浄との約束を指しているのだろう。悟浄は口元に上る笑みを堪え切れなかった。

「しゃーねーべ。花見はまた来年な」

この約束は、きっと口約束にはならないだろう。悟浄は忘れないし、三蔵も忘れない。守られる約束を交わす心が浮き立つような感覚を、二人は久しぶりに味わった。
ふと、悟浄が気付いた。三蔵の視線が悟浄の頭部にある。何だと問う前に、三蔵の指が伸ばされた。髪に触れたかと思うとすぐに引かれた指先を見て、悟浄は思わず目を見開く。

「桜‥‥」

半分茶色に変色しかけた桜の花びらが一枚、三蔵の指先に乗せられていた。枝のどこかに引っかかっていたものが、風に吹かれてついに飛ばされたらしい。正真正銘、今年最後の桜だった。

突然何かが込み上げて、咄嗟に悟浄は三蔵の肩口に顔を埋めて表情を隠した。
少し強い風を背に感じる。その風は、三蔵の指から最後の花びらを散らしていったが、悟浄は寂しいとは思わなかった。

ただ優しく抱きしめてくれる三蔵の腕の温かさだけを、いつまでも感じていた。 

 

 

 

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「さくら」完