さくら(2)
悟浄が再びその場所を訪れたのは、しばらくしてのことだった。 あれだけ溢れていた花見客も、今となってはひとりも見当たらない。当然だ。桜は、とっくの昔に散ってしまったのだ。現在、悟浄の目の前に広がるのは、限りない緑。 「―――悟浄」 不意に呼ばれた名前に視線を戻す。感じる既視感。 三蔵は生きていた。 「遅ぇよ。もう始めちまった」 三蔵は、ゆっくりと悟浄に近付くと、さも当然のように隣に腰を下ろした。その動きが多少ぎこちないのは、まだ癒えきらぬ傷のせいだ。三蔵は大怪我を負い、つい先日までは寝たきりの状態だったのだ。袂から垣間見える腕に巻かれた包帯が痛々しい。 「おい、俺にも寄越せ」 当然のように手を差し出してくる尊大な男に、杯を渡す。なみなみと注がれた酒に口を付けようとして、被っている頭巾が邪魔で飲み難いということに気付いたらしい。見えない口元から短い舌打ちが聞こえた。 「いいじゃん誰もいねぇし。取っちまえよ」 笑いを含んだ悟浄の声に押されるように。
転落した地点からかなり下流で発見されたとき、三蔵はひどい状態だったらしい。全身打撲と数箇所の骨折、背中には裂傷。発見したのは山奥に隠れ住むひとりの醜い男だったという。 すぐさま駆けつけた悟浄は、不眠不休で三蔵を看病し続けた。今度ばかりは僧侶たちに何を言われても、三蔵の側を離れようとはしなかった。 玄奘三蔵法師がその美貌を失ったと、寺院内で噂が立つのに時間はかからなかった。 緘口令が布かれたにも拘らず、噂はいつしか街中で囁かれるようになり、瞬く間に桃源郷全土に広まっていった。 そうなると、困窮したのは噂の発信源である慶雲院であった。 住職の居ないまま放置されている田舎の寺の話を誰かが聞き及んできたのは、寺院側にとっては渡りに船といえた。 三蔵の新たな赴任先は、悟浄が耳にしたこともない山奥の寺だった。三蔵によると、高齢だった前の住職が身罷ってから数年来、その寺には後任も派遣されず空き寺になっていたらしい。その理由というのが『出る』からだと聞かされたとき、悟浄は首を傾げた。 『出るって‥‥何が?』 そのまま立ち去ろうとする悟浄の首根を、むんずと三蔵は捕まえた。 『放せ!!俺は行かねぇぞ、そんな胡散臭いトコ!』 公表されてはいないが、その地には空間の歪みのようなものがあり、時折この世のものではないモノが湧き出してくるという。全てが人間に仇をなす存在ばかりではないのだが、歪み自体は解消できない類のものなので、法術の心得がある者が定期的に祓わなければ湧き出したモノは増え続ける一方らしい。実際は三蔵が悟浄をからかったような危険はないが、やはり薄気味が悪いと僧侶たちにも敬遠されていた。
それにしても、と悟浄は目を細めて、手酌で酒を注ぎ足す隣の男を見やった。頭巾を取った今は、素顔が晒されている。 「――――詐欺師」 悟浄に目もくれず酒を口に運ぶ横顔。初夏の日差しに見事な金糸が煌いて、美しい。過酷な旅の間にも不思議と日に焼けた印象の無い肌は、今も抜けるように白くある。 だが、ただひとつ。左頬に広がった薄い痣は、以前にはなかったものだ。 悟浄は、つん、と三蔵の頬の痣を軽くつついた。 「その分じゃ、もうじきキレーに治っちまうなあ。どうせなら、俺とお揃いの傷でも残りゃ良かったのに」 悟浄の指を避けるわけでもなく冗談で返され、悟浄は驚く。 「どした?機嫌よくね?」 三蔵は今日、慶雲院の主な僧正たちと共に、斜陽殿を訪ねた。三仏神より正式に任命を受け、旅立ちの挨拶をするためである。特別に赦されて、三蔵は謁見の間もずっとその顔面を隠す頭巾を被ったままだった。 儀式も終わり、三蔵が暇の挨拶のために顔を上げたとき、三仏神の一人が不意に言った。 『ところで玄奘三蔵よ。身体の具合もさることながら―――顔の痣はその後どうか?』 三仏神からの求めに否とも言えず、三蔵は頭巾を取り去った。 驚いたのは、同席していた慶雲院の僧正たちである。 『確かに順調のようだな。傷も残らぬ様子でなによりだ。もう頭巾は取ってもいいのではないか?』 三蔵が神妙に頭を下げる。目の前で繰り広げられる光景に、僧正たちはただ口をぱくぱくとさせ続けるだけだ。 『それから―――』 不意に、三仏神は呆けたままの僧正たちに目をやった。心なしか厳しさを増した視線に、我に返った慶雲院の僧正たちは慌てて一斉に頭を下げた。 『今後はそなたらの寺に三蔵法師はおらぬことになるゆえ、早急に新たな大僧正なりを赴任させることとしよう。それぞれに修養に励み、皆で力を合わせて寺を守っていくがよい。此度はそなたらの玄奘三蔵を思いやる心根、深く感じ入った』 『は、はっ!勿体無きお言葉にございます!』 一糸乱れぬタイミングで平伏した僧正たちの手が、微かに震えている。ようやく僧正たちは、自分たちが何をお膳立てしたかに気付いたのだ。
「寺の連中、今頃地団駄踏んでんだろな」 美貌の三蔵法師の噂が再び長安に流れてくるまでには、しばらくかかるだろう。呼び戻されるか、新たな赴任先を与えられるか、どちらにしても当分は、三蔵と悟浄は誰に憚ることなく共に暮らし、生きられる。 しばらくは黙って互いに酒を注ぎ合い、静かに二人の旅立ちを祝う。目に鮮やかな緑の若葉たちが風に揺られ、少し早い本格的な夏を待ちきれないように急かしていた。 「葉桜もいいとこだな」 ぽつ、と零された言葉は、悟浄との約束を指しているのだろう。悟浄は口元に上る笑みを堪え切れなかった。 「しゃーねーべ。花見はまた来年な」 この約束は、きっと口約束にはならないだろう。悟浄は忘れないし、三蔵も忘れない。守られる約束を交わす心が浮き立つような感覚を、二人は久しぶりに味わった。 「桜‥‥」 半分茶色に変色しかけた桜の花びらが一枚、三蔵の指先に乗せられていた。枝のどこかに引っかかっていたものが、風に吹かれてついに飛ばされたらしい。正真正銘、今年最後の桜だった。 突然何かが込み上げて、咄嗟に悟浄は三蔵の肩口に顔を埋めて表情を隠した。 ただ優しく抱きしめてくれる三蔵の腕の温かさだけを、いつまでも感じていた。
「さくら」完 |