旅を終えてから、初めての春だった。
悟浄は桜の大木の根元に腰を下ろし、手にしていた荷物を解く。中からは、少し辛口の酒と、二つの杯と。
顔を上げれば、どこまでも視界を染め上げる桜色。
ほら、桜が満開だぜ?
ここにはいない誰かに向けて心の中でそっと呟くと、杯を一瞬掲げて。
注いだ酒を、一気に飲み干した。
さくら
少し前の話だ。悟浄たちは旅を終え、長安に無事に戻った。
任務を完了して帰還した三蔵法師への寺院側の期待は大きく、三蔵の仕事は旅の前以上に激増し、三蔵は公務に忙殺される日々が続いた。
しかし増えたのは、公務の量だけではなかった。
寺院関係者からの悟浄に対する風当たりは、それこそこれ以上ないというほどに強くなった。面と向かって罵られ、詰られ、家にまで押しかけられて嫌がらせを受ける。こればかりは、三蔵がいくら睨んでも止む気配は無かった。
桃源郷の危機を救うという大任を果たした最高僧、しかも若く美貌の持ち主とあれば、世間は放ってはおかない。玄奘三蔵法師は、今や寺院にとって大衆への何よりの宣伝材料であり、仏教信仰を揺ぎ無いものにするためには、欠かせない偶像のひとつでもあった。それが故に、三蔵の身辺に影を落とす存在として悟浄を目の敵にし、排除に躍起になっていた。
それでも二人は何とか監視の目をかいくぐり、時間を調節しては、逢瀬を続けていた。
その日も抜け出した寺院の裏手の山で、二人は密かに逢っていた。
悟浄が見つけた桜の下に二人して腰掛けている。三蔵も今までその存在に気付かなかったほど、その桜の木は小さなものだった。
「もうすぐ咲くなあ」
今年の春は例年より少し早く訪れそうだと、大きく膨らんだ桜の蕾が二人に教える。
「花見酒、決定だな」
「お前、飲むことばっか」
悟浄はけらけらと笑った。今だって、三蔵の言いつけで購入してきた酒で、二人きりの酒宴の真っ最中なのだ。
三蔵のグラスに酒を注ぎ足してやりながら、けどよ、と悟浄は続けた。
「どうせなら、もっとばーっと、たくさん桜があるトコ行きてえよな。お前だって知ってるだろ?こっからはちょいあるけど‥‥北の方にさ、すっげー有名な」
「ああ、知ってる」
その場所とは、この寺院のある町からはかなり北上したところの山間部を指していた。桜を愛する地主の長年かけての桜の定植が実り、春になれば見渡す限り、文字通り桜色に視界が染まる。誰でも自由に入山できる計らいのおかげで、そこは桃源郷の中でも春の名所のひとつに数えられていた。
「行こうな、絶対。美味い酒持って」
「そうだな」
本当は、そんな約束は実現しないと知っていた。
三蔵法師としての公務の現状を考えれば、離れた場所に花見に出かける時間など、取れよう筈がなかった。だが二人は、そんな戯言のような約束を笑顔で交わし、酒を注ぎあった。それだけで、よかった。
共に在れる時間は、旅の間を考えれば格段に減ったけれど。それでもこうして二人で居られるだけで、十分だった。
「悟浄‥‥」
悟浄が小さな桜の樹を見上げていると、不意に名を呼ばれて引き寄せられた。軽く重ねられた唇からは、ほんのり甘い酒の香りがした。
「コラコラ。時間ヤベぇって」
そのまま上着の中に手を滑らせ、素肌をまさぐってくる三蔵に、一応の抗議を試みる。だが、三蔵が手を止める気配はない。
「お前が嫌なら、やめる」
「‥‥ズルい言い方ね、それ」
三蔵の不在を僧侶たちに気取られれば、また悟浄への風当たりは強くなる。だが、限られた時間のうちで、相手の全てを感じたいと思う気持ちが抑えきれないのはお互い様だ。
悟浄の苦笑いをどう受け止めたのか再び三蔵が口を開きかけたのを遮って、噛み付くように口付ける。すぐに滑り込ませた舌に絡んできた三蔵の舌もやたら熱いのは、酒のせいだけではないだろう。息が上がるまでたっぷりと、互いの口内を味わって離れる。
唇を繋ぐ銀糸をぺろりと舐めとって、悟浄は挑戦的に口元を引き上げてみせた。
「時間ねぇからって―――、手ェ抜いたらぶっ殺す」
悟浄の挑発に三蔵も不遜な笑みで応え、二人はもつれるように倒れこんだ。地面の固さも背中に染みる冷たさも、肌蹴られたシャツから感じる外気の肌寒さも、じきに忘れることは分かっている。
悟浄が我を失う前、三蔵の肩越しに揺れた、膨らんだ桜の蕾。
花々が、木々が、鳥たちが、もうすぐ一斉に春を謳い始める。
そんな季節の、小さな桜の木の下の出来事だった。
ある日突然、悟浄の元に届いた知らせ。
三蔵が、行方不明になったと。
法要のため招かれた遠くの寺院からの帰り、三蔵と供の僧侶たちは山中で山賊に襲われた。
三蔵は銃で応戦し、山賊を退け、一行は何とか難を逃れた筈だった。だが、応戦中に反れた山道は険しく、僧侶がひとり足を滑らせ、崖下に落下しかけたのを三蔵が咄嗟に庇い――――。僧侶は無事だったが、三蔵は、そのまま谷底の河へと落ちていったのだと。
同行の僧侶たちは勿論、知らせを受けた長安の慶雲院の僧たちも、殆ど総出で三蔵の行方を捜した。その中には、八戒や悟空、そして悟浄の姿もあった。
だが、八方手を尽くした捜索にも関わらず、結局は何の手がかりも無いまま時が過ぎ。やがて寺院では三蔵の行方について悲観的な見方が強まり、徐々に捜索の回数も減った。
そして、ついに三蔵がいなくなってから一ヶ月が過ぎ、僧達の誰も三蔵のことを口にしなくなった頃には。
寺院の裏山の小さな桜の木は、誰にも気付かれないままに、その短い春を終えていた。
探せるところは探し尽くした。三蔵が消息を絶ってから一ヵ月半が経過し、ここにきて、ついに寺院側は三蔵の事故を公表した。
あとは、連絡を待つだけだ。悟浄はあとを八戒に頼み、ひとりこの北の地を訪れていた。
悟浄の目の前には、視界を埋め尽くさんばかりの桜色が広がっている。長安の桜は盛りを過ぎてしまったが、北に位置するこの山では、今がちょうど見頃を迎えていた。
流石に桃源郷随一と謳われる桜の名所だけのことはあり、どこに目をやっても桜色の景色は見事という他には言葉がなかった。大勢の花見客が入れ替わり立ち代り、思い思いの場所に陣取っては酒宴を催している。そんな騒がしい人々の中で悟浄はたったひとり、隅に根を張る桜の大木の幹に背をもたせ掛け、黙って酒を飲んでいた。
次の日も。その次の日も。また次の日も。
悟浄の姿は、毎日同じ場所で見られた。いつもひとりで桜を眺めながら、手酌で酒を飲んでいる。時には酔客に絡まれながら適当にあしらって、それでも悟浄は毎日その場所に通い続けた。
まだ本格的な春が訪れる前、他愛の無い会話の中で交わした約束があった。その場限りの口約束だった筈なのに、今になってみるとひどく大切な約束に思えていた。
悟浄の杯に小さな花びらが一枚、ひらりと舞い落ちた。
花びらごと酒を飲み干すと、頭上の桜を仰ぐ。大きな樹からはひっきりなしに、花びらが降り注いでいる。まるで雪のようだと悟浄は思った。薄紅色の、春の雪。
長安より遥かに遅れて咲き誇った北の桜も、ついにその運命を儚くし始めていた。
「―――悟浄」
不意に呼ばれた名前に視線を戻す。笑顔で行き交う人々のはざまに、ぽつんと親友が佇んでいた。眼鏡に日差しが反射して、表情が読み取れない。
「三蔵が、見つかりました」
杯が、悟浄の足元に転がった。
手から零れた酒を惜しむのは、ひらりはらりと降り注ぐ桜色の花びらだけだった。
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