「あれ?」

ある日、宿で荷物を片付けていた八戒が、ふと手を止めた。小さく上げられた声を聞き咎め、悟空と三蔵が顔を向ける。

「どーかした?八戒」
「いえ、ここに入れておいた薬が‥‥」
「あー、あれ?三蔵が頭が痛いから薬って言われて、さっき―――」

ガサゴソと荷物を漁る八戒の背に、悟空の能天気な声が被さり、すぐに消えた。顔色を変えた八戒の表情に、悟空と三蔵の緊張も高まる。

「‥‥‥毒‥‥か?」

「いえ」

三蔵の言葉を、八戒は端的に否定した。

「‥‥‥じゃ、もしかして下剤とか言っちゃったり?」
「おい、まさか――」

悟空の言葉を受け焦る三蔵に、八戒は再びかぶりを振る。じゃあ何なんだと、三蔵は八戒を睨み付けた。いつに無く歯切れの悪い八戒が、妙に胸の底に引っかかる。
目付きだけで促すと、実は、とそれはそれはとても言いにくそうに、八戒は切り出した。

「あれ、例の薬です」
「例の薬?」

他にどうする事も出来なかったのだろう。八戒は曖昧な笑みを浮かべた。

「‥‥‥‥ハッピーメディスン、です‥‥」
 

 

 

「なんだとーっ!?」

 

三蔵の絶叫が、またしても宿中に響き渡った。
 

 

 

 

 

 

 

 

 Happy Medicine 1.85

 

 

 

 

 

「てめぇ何でそんなの持ってやがる!?確かあん時は買えなかったんじゃねぇのか!?」

三蔵の疑問は尤もだった。前回、騒動のうやむやに紛れて限定発売の薬を結果的に買い逃し――――全て終わった筈だったのだ。
 

思い起こせば数週間前。
三蔵が八戒の口車にまんまと乗せられ、悟浄に催淫剤を飲ませたまでは良かったが、えらく痛いしっぺ返しを喰らってしまった事はまだ記憶に新しい。しかも、悟浄のトラウマまで刺激してしまったという負い目が、三蔵の心には今も燻っている。
正直、思い出したくも無い薬だった。

「ええ、売り切れてたんですけど‥‥。駄目元でお店に行ったら、ご主人が自分用に取ってた分を分けて下さって」

宿に戻ってみれば三蔵は既に悟浄に薬を使う気は失せていたという次第で。
捨てるのもなんだからと、そのまま持ち歩いていたのだと言う。

「‥‥‥‥うわ。下剤の方が、まだマシだったかも」

悟空の呟きが、この場の悲壮感を一層際立たせた。ちなみに、前回の騒動時に危うくカップルにされそうになった三蔵と八戒。何とか誤解を解くべく、八戒は大量の料理で機嫌を取りつつ悟空に事情を具に説明したため、悟空は全て把握しているという訳だ。

「確かピンクの薬はショタ系‥‥」
「言うなっ!」

口元に手をやりつつ遠くを見つめる八戒の台詞を、三蔵は血走った目で遮った。良く観察してみれば、三蔵の頬は僅かに上気し、唇も赤味が濃くなっているように思われる。色っぽいなどと口を滑らせば、恐らくは彼の愛銃で永遠に口のきけない世界へと送り込まれるだろうけれど。

「‥‥おい」

疲れ切った口調で、最高僧が二人を呼ぶ。

「俺は身体の具合がすこぶる悪い。―――という事で寝る。起こすな。絶対に部屋に入るな」

「‥‥了解」

よろよろと部屋を出て行く三蔵の後姿を、八戒と悟空は憐憫の眼差しで見送った。
 

 

 

******

 

欲しい。
あいつが欲しい。
あいつは、何所だ?
いや。―――今は、駄目だ―――。
 

三蔵は、閉じこもった部屋の中で、かつて無いほどの葛藤に苛まれていた。
 

悟浄は、少し前から外へ出かけている。遠くへは行くなと、八戒にも口をすっぱくして言われていたから、恐らくはその辺りをぶらついてすぐに戻ってくる筈だ。

悟浄の部屋で帰りを待って押し倒すか、外へ探しに行って押し倒すか―――などと考えては腰を浮かし、それでも扉に手をかける寸前で、残り少ない理性が三蔵を叱咤し部屋に引きとめる。気を紛らわせようと煙草を吸えば、嗅ぎ慣れたもうひとつの香りが漂ってくるような錯覚に捕われ、悟浄の姿を求めふらふらと立ち上がっては、はっと我に返ってベッドに突っ伏したりする。

そんな怪しい行動を、三蔵はひとり部屋の中で繰り返していた。
 

こと悟浄に関しては、自らの理性と忍耐の壁がとてつもなく薄いという事を自覚している三蔵である。今まで想いが通じてからこのかた、悟浄を欲しいと思えばどんな時でも手を伸ばし、その温もりを抱きしめて眠ってきた。

だが、今の状況で悟浄に手を出す事は、三蔵のプライドが許さなかった。

間違えて飲んだ催淫剤(しかも元々は悟浄に飲ませる筈だったもの)のせいで、身体がこんなに熱いなどとあの馬鹿に知れたら何を言われるか、という思いも確かにある。

だが、何より前回の騒動の真相を悟浄に知られるのだけは避けたい。絶対に避けたい。

あの日、夢見が悪かったのだと笑った悟浄の横顔が脳裏に浮かぶ。咄嗟に湧き起こるのは拭うべくもない罪悪感。だがそれ以上に感じるのは――――――紛れも無い、情欲。哀しげに伏せられた悟浄の瞳を思い起こす度に、身体の奥底の何かが疼く。泣かせたい。縋らせたい。目茶苦茶にしたい。

いよいよ、ヤバい。

ふと、水を大量に飲めば早く効果は切れる事を思い出す。
それまでは、風呂場か便所にでも篭るしかないか、と身を起こした時―――――ドアの前に佇んでいるらしい、よく見知った気配に、三蔵は硬直した。

「おーい、三蔵。起きてっか?」

控えめなノックに、控えめな声。
だが、今の三蔵にとっては、その声だけで拷問だった。

「さんぞー、寝てんのかー?」

ああ、俺は寝てるんだよ八戒にもそう言われた筈だろうがさっさとどこか行っちまえ!

ドアを開けて悟浄を部屋に引きずり込みたい衝動と必死で戦いながら、三蔵はベッドの上で布団を被り耳を塞いだ。
悟浄がノブを回すがちゃがちゃという音がしばらくしていたが、諦めたのか気配が遠ざかっていく。

(鍵付きの部屋で助かった‥‥)

ほ、と三蔵は安堵の息をついたが、既に身体は抜き差しならない状態になっている。先程聞いた悟浄の声が、閨での嬌声に聞こえた辺り既に末期だ。

この熱を、何とかしたい―――。

無意識に、手が自らの下肢に伸びる。
もう、風呂場に移動しなければという思考能力すら、三蔵からは失われていた。
 

 

 

******

 

ガタン、と不意に響いた音が三蔵を我に返した。
思わず布団から顔を出し音の方向に首を巡らせば、いつの間に回ってきたのか紅い髪を揺らした男が窓から部屋の中へと身を乗り出す姿が目に入る。

(しまった、窓が開いていたか!‥‥つか貴様、何でそこまでして部屋に入る!?)

 

「よっ、と」

咄嗟の事に口もきけない三蔵を尻目に、軽快な掛け声と共に悟浄はちゃっかりと部屋への侵入を果たしてしまった。

「よぉ三蔵様、お元気?なーんだ、起きてんじゃん」
「‥‥‥‥」
「聞いたぜ?頭痛と生理痛の薬、間違えたんだって〜?」

八戒はどういう説明をしたのか、悟浄はけらけらと笑っている。

「んでど〜よ具合は?オンナのコになっちゃった気分とかぁ?」
「‥‥‥‥」
「でも、アレだな。ここ最近、お前結構寝込むよな」
「‥‥‥‥」
「もう年なんだから無理すんなよ〜」
「‥‥‥‥」
「って、何か言えよ。俺一人喋ってて馬鹿みてぇだろ」

ん?と三蔵の顔を覗き込もうとした悟浄の視界が、急激にぶれた。

「おわ!?」

ばふ、と音を立ててベッドに激突する。何すんだ!と文句を言おうと身を起こしながら振り返るが、間髪入れずに仰向けの体制でベッドに縫いとめられた。すぐさま視界を覆い尽くす白い美貌に息を呑む。
自分を見つめる三蔵は無表情で。けれど目には隠しようも無い情欲の光が灯っていて。だがそれすらも、三蔵の美貌を際立たせる一因にしかならないのだ。
 

やっぱり綺麗だ、こいつ。
 

ついぼんやりと見とれてしまう。そんな悟浄の様子に僅かに目を細めた三蔵は、シーツに流れる紅い髪を一房手に取り、唇を寄せた。

「ど、どったの?」

常らしからぬ三蔵の行動に、悟浄は思わず焦る。だが、相変わらず三蔵は何も答えない。そう言えば、この部屋を訪れてからまだ一度も、三蔵の声を耳にしていなかった。

「さんぞ‥‥」

声が聞きたくて呼んだ名は他ならぬ三蔵の唇に塞がれ、最後まで紡ぐことは出来なかった。
 

 

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