Give and Take(32)
自分には欠けた記憶が存在するらしいと悟浄がおぼろげながら自覚したのは、目覚めてから数日が経過した頃のこと。 だが、きっかけは突然に訪れた。 「よっぽど強烈だったんじゃねぇの?真っ先に思い出したわ、あん時のことは」 囁かれた虚言。自分を見下ろす冷ややかな三蔵の顔。唱えられ続けた真言。何もかもが、まるでたった今経験した出来事のように鮮明に甦った。 「で、あとは芋ヅル式にずるずると」
「―――俺さ、決めてたんだよ」 淡々と経緯を語る悟浄の表情はあくまでも穏やかだった。だから余計に三蔵の胸を抉るのだ。 「いつか俺がお前に捨てられた時にさ‥‥どわっ!」 悲壮なまでの厳粛な空気は、一発の銃声で掻き消された。 「アブねぇ!近すぎんだろ掠ったぞ今!」 三蔵がそれなりの覚悟を決めて珍しく殊勝な態度をとっているというのに、何を言い出すのかこの男は。 「えーと、何の話だっけ?あ、そうそう、『いつか俺がお前に捨てられた時』だっけか」 その言葉に煙草を挟む三蔵の指がピクリと動く。その動きを目の端にとめている筈だが、悟浄はそのことには触れず言葉を続けた。 「そん時は俺、絶対笑って別れてやるって決めて―――」 今度はスパパパン、という軽快な音が、部屋中に木霊する。 「お前、銃とハリセン没収!落ち着いて話も出来やしねぇ!」 当然、悟浄からの反論を予期して三蔵は身構えた。 「ありもしない、か‥‥。お前はさ、ずっとそう思ってたんだよな」 悟浄は三蔵を見ていなかった。視線は部屋の壁にぼんやりと向けられたまま、まるで自分自身に言い聞かせるように呟く。悟浄の激変に三蔵は戸惑い、ただ黙ってハリセンを降ろすしかない。不意に訪れた重い空気を、三蔵は煙草を揉み消すことで紛らわした。悟浄の呟きは続く。 「俺、お前のこと信じてなかった」 記憶を失っていた間に、悟浄に投げつけた裏切りの言葉。悟浄の記憶を折り戻すためについた残酷な嘘。 「もっと前から‥‥、そだな、お前と付き合うって決めた瞬間からずっと、のハナシ」 三蔵は思わず目を見開いて悟浄の顔を凝視した。いつの間にか悟浄は、三蔵の顔を見つめていた。 「どっかでいつも疑ってた‥‥、どうせ一時の気の迷いってやつだって。三蔵はいつか俺を捨てる。そん時には意地でも笑って別れてやろうって、カッコいいこと考えてた」 それは、三蔵も気付いていたことだった。本人は隠していたつもりだろうが、さり気ない態度やふとした言動の端々にどうしても滲み出る悟浄の本心に触れる度、やりきれない想いが込み上げてきたものだ。 「それがどんなにお前を傷付けてたのか‥‥考えてもみなかった」 いつか考えを変えさせてやるとの決意は無情にも実らないまま時間切れを迎え、悟浄の心に更なる深い傷を負わせる事態に陥ってしまった。信じさせてやれなかった己の不甲斐なさ。そのことも三蔵の自責の念の一端を担っている。どれだけの覚悟と想いを三蔵が悟浄に抱いているということを、何故もっと早く気付かせてやれなかったのか、と。 「お前をそこまで追い詰めたの――――俺だ」 何も言えずに佇む三蔵の目の前で、悟浄は僅かに目を伏せる。そして次に目を上げたときには、悟浄は真っ直ぐに三蔵の瞳を見つめていた。 「ごめんな、三蔵」
――――悔しい、と三蔵は思う。 また、自分で答えを見つけたのだ。この男は。 「なら、もう謝らねぇぞ。お前も、もう謝るな」 本当は、それで済む問題ではないと三蔵は知っている。だが、悟浄の思いを汲まないわけにはいかない。 過去を振り返るより、明日を考える。 無論三蔵に異論のある筈もない。けれど悟浄の発言は、結果的には三蔵に負い目を抱かせないためになされたもののような気がして、どうにも悔しいとは思うのだが―――。 「なら、今は信用されていると思っていいのか?」 悟浄にはいつも敵わないと三蔵が考えていることなど、わざわざ教えてやる必要はない。敢えて厳しい表情を作って、三蔵は悟浄の瞳を見据える。悟浄は少し困ったように笑った。 「まるっきり考え変えたっつーと、やっぱ嘘になるかもしんねぇ。お前、相変わらず最高僧様だし?‥‥やっぱ、重てぇわ」 三蔵は、悟浄の頬の傷を指でなぞった。たどたどしくも、懸命に心を伝えようとする悟浄が愛しかった。 「きっと、俺の知らねぇ部品だってお前ん中にまだたくさんあんだろ。けど、それでいいから、その知らねぇ部品抱えたまんまのお前でいいから、お前を丸ごと全部――――」 一旦言葉を切り、悟浄は三蔵を見上げる。 「全部、俺に、チョーダイ?」
悟浄が僅かに緊張しているのが、触れている指先から三蔵に伝わった。くしゃり、と紅い髪を掻き回して、三蔵は大きく息をつく。どうやら三蔵もそれなりに緊張していたようだ。 「‥‥‥時間かかりすぎだ、この馬鹿が」 長い間、ずっと待ち望んでいた言葉を得て。 「そう言うなよ‥‥ちゃんと気付いただろ‥‥?」 三蔵は知らない。 『気付くのが遅ぇんだよ、ばーか』 悟浄がひとりで妖怪の元へ赴いたときのことを。 「アイツらも、きっと今頃――――」 訝しげに問う三蔵の声に、悟浄ははっと我に返ったようだった。慌てて、三蔵から身を離す。一瞬、悟浄が泣いているのかと三蔵は思ったのだが、紅い瞳は濡れてはいなかった。 「いや、何でもね‥‥。で?くれんの?くんねぇの?」 いかにも不審げに、三蔵の眉間に皺が寄る。この期に及んで三蔵の返答が『否』であるとでもいうのか。だが、睨む先の悟浄の表情には不安の陰はなく、ただ単に言葉を求めているのだと三蔵も気付いた。 「‥‥‥返品はきかんぞ」 どこの悪徳商法だと、けらけら笑う悟浄の横に三蔵は腰掛け直した。さっきまで空いていた人ひとり分の隙間を、今度は埋めて。そんな三蔵の行動を、嬉しそうな表情で悟浄はじっと見つめている。 「全部、持ってけ。お前にくれてやるよ、何もかも」 こんな事態が起こらなければ、悟浄の耳を塞ぐ手を引き剥がしてでも三蔵から聞かせるつもりだった言葉を。まるで、強請られた煙草を渡すかような軽い口調で三蔵は告げた。 「当然、寄越すんだろうな、お前も」 三蔵の切り返しに、悟浄は眼をぱちくりと見開いた。わかりやすく目を瞬いて、少しの間考える素振りをみせる。 「それって‥‥‥全部?」 瞬きを繰り返す瞳は、吸い込まれそうな紅。思わず伸ばしかけた腕を理性で押さえ込んで、三蔵はさも当然と鷹揚に頷いた。 「全部だ。ギブアンドテイクじゃねぇと割に合わん」 反論だろう、咄嗟に何かを口にしかけた悟浄は、悔しそうに唇を噛むに留まる。 「ホントに図々しい野郎だな、クソ坊主‥‥‥」 苦々しげに呟くのが精一杯の抵抗らしい悟浄に、精々勝ち誇った表情をみせつける。恐らくは、三蔵に負け続けて悔しいと考えているに違いないのだ、この馬鹿な男は。どんなに自らが三蔵にその強さを誇示しているとも気付かずに。 やがて、諦めたようなため息が悟浄の口から零されて。 「―――――もうとっくに、アンタのモンだ」 まるで内緒話をするみたいに、密やかに囁かれた言葉。
一夜明ければ、ついに迎えた出発の朝。 「あ」 背後からの驚きの声に何事かと振り返ると、紅い瞳の持ち主が三蔵を見上げたまま固まっている。目が合うなり、悟浄は真っ赤になって枕に顔を埋めた。 コックを捻り、降り注ぐ湯を止める。 これから再び西への旅が始まる。それがどんなに過酷なものであろうとも、踏み出す足に躊躇いはなかった。 あの大切な存在が、傍らにある限り。
「Give and Take」完 |
最終話でようやくのタイトルコール!纏め下手ですが…長らくのお付き合いに感謝いたします!ありがとうございました。