Give and Take(32)

自分には欠けた記憶が存在するらしいと悟浄がおぼろげながら自覚したのは、目覚めてから数日が経過した頃のこと。
突然、覚えのない光景が目の前に浮かぶ。
それは雨の中を泥だらけになりながら必死に走る自分であったり、見たことのない妖怪に攻撃されている場面であったりしたが、それは思い出したというよりは、映画のように単に映像を見せられているに過ぎず、悟浄はただ戸惑いを覚えるだけだった。

だが、きっかけは突然に訪れた。
あれは窓に激しい雨が打ち付けていた夜だったと悟浄は記憶している。
いつものように悟浄は風呂から上がって髪を拭きながら、鏡の前に立った。何の変哲もない一日の終わりに見た自分の顔は、やはり何の変哲もないものだった。なのに、鏡に映りこんだ自分と目が合った瞬間、悟浄の頭の中で唐突に何かが弾けたのだ。

「よっぽど強烈だったんじゃねぇの?真っ先に思い出したわ、あん時のことは」

囁かれた虚言。自分を見下ろす冷ややかな三蔵の顔。唱えられ続けた真言。何もかもが、まるでたった今経験した出来事のように鮮明に甦った。

「で、あとは芋ヅル式にずるずると」
この村に到着してから現在に至るまで。実際思い出し始めてみると、全ての記憶が繋がるまでにそう時間はかからなかった。

 

 

 

「―――俺さ、決めてたんだよ」

淡々と経緯を語る悟浄の表情はあくまでも穏やかだった。だから余計に三蔵の胸を抉るのだ。
流石に座り込んでいた床からは移動して、二人並んでベッドに腰掛けている。二人の間には人ひとり分の空間。この隙間が、今の二人の心の距離なのかもしれない。少なくとも三蔵には、悟浄への引け目からそう感じられていた。この距離が縮むのか、取り返しの付かないほどに広がるのかが、これから悟浄に告げられる。自らの罪を三蔵は自覚していた。そして悟浄からどんな審判が下されても、黙って受け入れなければならないことも。
膝の上に両肘をつき、前屈みに手を組む三蔵の姿勢は、まるで祈りにも似て。
軽く目を伏せ、三蔵は悟浄の言葉を待った。
―――――それなのに。

「いつか俺がお前に捨てられた時にさ‥‥どわっ!」

悲壮なまでの厳粛な空気は、一発の銃声で掻き消された。

「アブねぇ!近すぎんだろ掠ったぞ今!」
「よけんな馬鹿!」
「よけねぇと死ぬだろが!」

三蔵がそれなりの覚悟を決めて珍しく殊勝な態度をとっているというのに、何を言い出すのかこの男は。
怒りに任せて銃を構えたまま立ち上がった三蔵の目前で、アブねぇ坊主だぜと悟浄が文句を言いながら乱れた髪をかきあげている。ベッドの上に放り出していた煙草のケースに手を伸ばし、火を灯す悟浄の手慣れた一連の動作が妙に懐かしく、意味も無く狼狽した三蔵は軽く舌打ちして銃を収めた。代わりに袂から煙草を取り出すと、当然のように横からライターの火が差し出される。
煙草に火を灯した三蔵が再び腰掛けるのを待って、悟浄は紫煙を細長く吐き出した。

「えーと、何の話だっけ?あ、そうそう、『いつか俺がお前に捨てられた時』だっけか」

その言葉に煙草を挟む三蔵の指がピクリと動く。その動きを目の端にとめている筈だが、悟浄はそのことには触れず言葉を続けた。

「そん時は俺、絶対笑って別れてやるって決めて―――」

今度はスパパパン、という軽快な音が、部屋中に木霊する。
悟浄は頭を抱えて蹲っていたが、すぐに三蔵に目を剥いて叫んだ。

「お前、銃とハリセン没収!落ち着いて話も出来やしねぇ!」
「てめぇがくだらねぇ事ばかり言いやがるのが悪い!んなありもしねぇプラン立ててんじゃねぇ!」

当然、悟浄からの反論を予期して三蔵は身構えた。
だが、予想に反して悟浄は黙したままだった。つい今しがたの激高はどこへ置いてきたのか、その顔には翳りさえ窺える。

「ありもしない、か‥‥。お前はさ、ずっとそう思ってたんだよな」

悟浄は三蔵を見ていなかった。視線は部屋の壁にぼんやりと向けられたまま、まるで自分自身に言い聞かせるように呟く。悟浄の激変に三蔵は戸惑い、ただ黙ってハリセンを降ろすしかない。不意に訪れた重い空気を、三蔵は煙草を揉み消すことで紛らわした。悟浄の呟きは続く。

「俺、お前のこと信じてなかった」
「―――――知っている」

記憶を失っていた間に、悟浄に投げつけた裏切りの言葉。悟浄の記憶を折り戻すためについた残酷な嘘。
どんな弁解を並べ立てたところで、悟浄の心に不信を植え付けた事実は曲げられない。不甲斐ない自分を責めるようにきつく目を閉じた三蔵に、そうじゃなくてさ、と悟浄は軽く首を振った。

「もっと前から‥‥、そだな、お前と付き合うって決めた瞬間からずっと、のハナシ」

三蔵は思わず目を見開いて悟浄の顔を凝視した。いつの間にか悟浄は、三蔵の顔を見つめていた。

「どっかでいつも疑ってた‥‥、どうせ一時の気の迷いってやつだって。三蔵はいつか俺を捨てる。そん時には意地でも笑って別れてやろうって、カッコいいこと考えてた」

それは、三蔵も気付いていたことだった。本人は隠していたつもりだろうが、さり気ない態度やふとした言動の端々にどうしても滲み出る悟浄の本心に触れる度、やりきれない想いが込み上げてきたものだ。

「それがどんなにお前を傷付けてたのか‥‥考えてもみなかった」

いつか考えを変えさせてやるとの決意は無情にも実らないまま時間切れを迎え、悟浄の心に更なる深い傷を負わせる事態に陥ってしまった。信じさせてやれなかった己の不甲斐なさ。そのことも三蔵の自責の念の一端を担っている。どれだけの覚悟と想いを三蔵が悟浄に抱いているということを、何故もっと早く気付かせてやれなかったのか、と。
今となっては詮無いことだが、もしもこの事件の前に悟浄の三蔵に対する根底の不信が払拭されていたならば、記憶を失った悟浄への三蔵の対応は違ったものになっただろう。
三蔵の方こそ、悟浄を信用できなかったのだ。
無意識にせよ捨てられて傷付く前に、とただでさえ三蔵から離れるきっかけを探していた悟浄。そんな彼が記憶を失って尚、自分とは住む世界が違うと認識するであろう最高僧・玄奘三蔵法師を再び愛するなどと、誰が想像できるのか。限界まで膨れ上がった焦燥が、三蔵を暴走させたと言っても過言ではない。
最終的に三蔵は悟浄を側で見守ることに決めたのだが、その結論に至るまでには、三蔵の心の中では筆舌に尽くし難い経緯と葛藤があった。

「お前をそこまで追い詰めたの――――俺だ」

何も言えずに佇む三蔵の目の前で、悟浄は僅かに目を伏せる。そして次に目を上げたときには、悟浄は真っ直ぐに三蔵の瞳を見つめていた。
 

「ごめんな、三蔵」

 

――――悔しい、と三蔵は思う。

また、自分で答えを見つけたのだ。この男は。
三蔵が伝えたかったこと、教えてやりたかったことを、ちゃんと自身で気付いたのだ。
後悔と自責と懺悔と―――――そして、それを凌駕する想いを。全てを内包した紅い瞳が三蔵を見つめている。恐らくは、見返す三蔵の瞳にも、同じ想いが宿っているのだろう。
三蔵は悟浄にゆっくりと近付くと、その頬に指を滑らせた。

「なら、もう謝らねぇぞ。お前も、もう謝るな」
「ん。これでチャラな」

本当は、それで済む問題ではないと三蔵は知っている。だが、悟浄の思いを汲まないわけにはいかない。
悟浄はもう三蔵を許している。三蔵もまた、悟浄を許している。お互い許せないのは、相手を信じられなかった自分自身だ。だがそれは、あくまで自分の問題として決着をつけるべきものだと、悟浄は判断したのだ。

過去を振り返るより、明日を考える。

無論三蔵に異論のある筈もない。けれど悟浄の発言は、結果的には三蔵に負い目を抱かせないためになされたもののような気がして、どうにも悔しいとは思うのだが―――。
三蔵は軽く頭を振って、その子供じみた思考を振り払った。

「なら、今は信用されていると思っていいのか?」

悟浄にはいつも敵わないと三蔵が考えていることなど、わざわざ教えてやる必要はない。敢えて厳しい表情を作って、三蔵は悟浄の瞳を見据える。悟浄は少し困ったように笑った。

「まるっきり考え変えたっつーと、やっぱ嘘になるかもしんねぇ。お前、相変わらず最高僧様だし?‥‥やっぱ、重てぇわ」
「悟浄‥‥‥」
「おまけに、口は悪ィわ性格悪ィわ、んでもって気は短けぇしハゲだし」
「おい」
「時々、ナニ考えてるのかさっぱりわかんなくって‥‥怖ぇしよ」
「‥‥‥‥‥」
「けどよ、どれも全部ホントのお前で‥‥。なんてぇの?お前って存在を構成する部品、つーの?‥‥なんだよな。どっか一部だけはイリマセンってワケにゃいかねぇよな」

三蔵は、悟浄の頬の傷を指でなぞった。たどたどしくも、懸命に心を伝えようとする悟浄が愛しかった。
頬に感じる三蔵の指の感触を味わうように悟浄は目を細める。僅かに首を傾げた拍子に流れた髪を追って、三蔵の指先が悟浄の耳朶を掠めた。

「きっと、俺の知らねぇ部品だってお前ん中にまだたくさんあんだろ。けど、それでいいから、その知らねぇ部品抱えたまんまのお前でいいから、お前を丸ごと全部――――」

一旦言葉を切り、悟浄は三蔵を見上げる。
短く息を吸い込んで、吐き出して。何度か繰り返された後に、呑み込まれた言葉の続きを。
 

「全部、俺に、チョーダイ?」

 

悟浄が僅かに緊張しているのが、触れている指先から三蔵に伝わった。くしゃり、と紅い髪を掻き回して、三蔵は大きく息をつく。どうやら三蔵もそれなりに緊張していたようだ。

「‥‥‥時間かかりすぎだ、この馬鹿が」

長い間、ずっと待ち望んでいた言葉を得て。
込み上げる喜びを素直に表すのが照れ臭く、三蔵がわざと無愛想に吐き捨ててみれば、何故か悟浄が驚いたような顔をして。すぐに泣き出しそうに顔を歪めたかと思うと、三蔵を引き寄せるように胸元に頭を押し当てて俯いた。

「そう言うなよ‥‥ちゃんと気付いただろ‥‥?」
「悟浄?」

三蔵は知らない。

『気付くのが遅ぇんだよ、ばーか』

悟浄がひとりで妖怪の元へ赴いたときのことを。
妖怪を倒した後に聞こえた誰かの言葉が、今の言葉と同じだったなどと。
悟浄が妖怪に捕らわれていた鳥たちの寄り添う姿に、大切なことを教わっていたなどと。

「アイツらも、きっと今頃――――」
「?誰だ?」

訝しげに問う三蔵の声に、悟浄ははっと我に返ったようだった。慌てて、三蔵から身を離す。一瞬、悟浄が泣いているのかと三蔵は思ったのだが、紅い瞳は濡れてはいなかった。

「いや、何でもね‥‥。で?くれんの?くんねぇの?」

いかにも不審げに、三蔵の眉間に皺が寄る。この期に及んで三蔵の返答が『否』であるとでもいうのか。だが、睨む先の悟浄の表情には不安の陰はなく、ただ単に言葉を求めているのだと三蔵も気付いた。
この村に入る前ならば、跳ね除けたかもしれない要求だったが、たまには言葉も必要なのだと今回の件で痛感させられたばかりだ。
そして何より手酷い言葉で悟浄を傷付けた、せめてもの贖いに。

「‥‥‥返品はきかんぞ」
「え〜?クーリングオフは?」
「とっくに期限切れだ」

どこの悪徳商法だと、けらけら笑う悟浄の横に三蔵は腰掛け直した。さっきまで空いていた人ひとり分の隙間を、今度は埋めて。そんな三蔵の行動を、嬉しそうな表情で悟浄はじっと見つめている。

「全部、持ってけ。お前にくれてやるよ、何もかも」

こんな事態が起こらなければ、悟浄の耳を塞ぐ手を引き剥がしてでも三蔵から聞かせるつもりだった言葉を。まるで、強請られた煙草を渡すかような軽い口調で三蔵は告げた。
体裁などどうでも良かった。その言葉に込められた想いの深さは、悟浄には伝わっている筈だから。
但し、と三蔵は付け加えた。

「当然、寄越すんだろうな、お前も」

三蔵の切り返しに、悟浄は眼をぱちくりと見開いた。わかりやすく目を瞬いて、少しの間考える素振りをみせる。

「それって‥‥‥全部?」

瞬きを繰り返す瞳は、吸い込まれそうな紅。思わず伸ばしかけた腕を理性で押さえ込んで、三蔵はさも当然と鷹揚に頷いた。

「全部だ。ギブアンドテイクじゃねぇと割に合わん」
「うっわ、それが坊主の台詞かよ。慈悲の欠片もねぇな」
「そんな俺に惚れてんだろうが」
「‥‥っ」

反論だろう、咄嗟に何かを口にしかけた悟浄は、悔しそうに唇を噛むに留まる。

「ホントに図々しい野郎だな、クソ坊主‥‥‥」

苦々しげに呟くのが精一杯の抵抗らしい悟浄に、精々勝ち誇った表情をみせつける。恐らくは、三蔵に負け続けて悔しいと考えているに違いないのだ、この馬鹿な男は。どんなに自らが三蔵にその強さを誇示しているとも気付かずに。

やがて、諦めたようなため息が悟浄の口から零されて。
するり、と日に焼けた腕が三蔵の首に回される。悟浄はそのまま三蔵の耳元にそっと唇を寄せた。

「―――――もうとっくに、アンタのモンだ」

まるで内緒話をするみたいに、密やかに囁かれた言葉。
今度は躊躇うことなく三蔵は悟浄へ腕を伸ばし、思う存分抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 

一夜明ければ、ついに迎えた出発の朝。
昨日からの晴天は、幸運にもまだ続いているらしい。カーテンの隙間から漏れてくる朝日が、ぼやけた頭を急激に覚醒させる。
三蔵がベッドを降りるために片足を床に着けた瞬間、背中にぴりりとした痛みが走った。

「あ」

背後からの驚きの声に何事かと振り返ると、紅い瞳の持ち主が三蔵を見上げたまま固まっている。目が合うなり、悟浄は真っ赤になって枕に顔を埋めた。
それで、三蔵は得心した。自分の背中に残されたものの正体を。
敢えて何も言わずに浴室へ入る。若干不自然な体勢で洗面所の鏡に背中を移すと、そこにはやはり三蔵の予想通りのものがあった。
くっきりと背に刻まれた、悟浄の爪あと。三蔵の体に痕を残す行為を躊躇っていた悟浄による、明確な所有の自己主張。
意識してつけたものなら上出来。無意識の内につけたものなら万々歳である。シャワーの熱い湯を頭から浴びながら、三蔵の口元が思わず緩んだ。

コックを捻り、降り注ぐ湯を止める。
さわさわと耳を打ち続けていた音が止み、浴室は瞬時に静寂に包まれる。
それはまるで、本物の雨が上がる様にも似て。
三蔵は、晴れやかな気分で浴室を後にした。きっと悟浄は全身を茹蛸のようにして、ベッドの上で固まり続けている筈だ。とりあえずは蹴り飛ばし、さっさと出発の支度をさせなければ、と三蔵はひとり笑った。久しぶりに、心の底から湧き出る笑いだった。
 

これから再び西への旅が始まる。それがどんなに過酷なものであろうとも、踏み出す足に躊躇いはなかった。 

あの大切な存在が、傍らにある限り。
心の雨に、負けることなどないのだから。
 

 

 「Give and Take」完

BACK


最終話でようやくのタイトルコール!纏め下手ですが…長らくのお付き合いに感謝いたします!ありがとうございました。

|TOP||NOVEL|