覚めない夢を、君に(2)
目覚めて一番最初に見たものは、息がかかる程の距離で眠るあいつの寝顔だった。 現実までも浸食した悪夢に。 ただ怯える事しかできなかった。
「いい加減、向こうの部屋に戻ったらどうです?ここは僕たちの部屋なんですけど」 本来悟空のベッドである筈のそこは、今は悟浄に占拠されている。先程から悟空も散々と退去を申し入れているのだが、悟浄は愚図愚図とベッドを転がるばかりだ。 「‥‥悪ィ悟空。今日、部屋代わっ」 幾度となく繰り返される似たような会話。 「あ、その前にこれ、責任とって食べて下さいね。食べ物を粗末にすると罰が当たりますよ」 八戒が手にしているのは、先程の羊羹の残り。鼻先に突き出されるように押し付けられ、悟浄は渋々一切れを口に入れた。覚悟はしていても、口に広がる壮絶な砂糖の味にはクるものがある。殆ど噛まずに飲み込むが、むせ返るような甘さが喉を灼く。 「甘いですよね」 強烈な甘味に頭痛を起こしそうな所に、八戒の言葉が追い討ちをかける。 「三蔵の覚悟を、甘く見ましたね。‥‥まあ僕も気付きませんでしたけど」 今思えば、三蔵は初めから気が付いていたのだ。悟浄がらしくない、恐らくは三蔵の最も嫌がるだろう行動を、わざととり続けていたという事を。 悟浄の行動の動機は不明だが、目的は推測できる。 三蔵はそれに気付いた上で、黙っていた。そして悟浄は、三蔵が気付いているのを承知で演技を続けていた。三蔵が先に音を上げるか、もしくは悟浄がボロを出すか――――我慢比べといったところだろうか。 三蔵と悟浄が互いに意識していると気付いたのは、いつの頃だっただろう。悟空でさえ気付いたその感情の流れに、悟浄が押し流されまいと足掻いていた事も八戒は知っていた。 だが今、それを自ら切り捨てようとする悟浄。 三蔵への想いが醒めたのならば、自分からそう口にする筈だとの確信が八戒にはある。それが分かるぐらいには、自分たちは共にいたのだから。更に付け加えるならば、この行動の理由を悟浄に問い質すのは自分の役目ではない事もわきまえていた。 「頑張って、いってらっしゃい」 覚悟を決めたのか、ベッドを降りた悟浄の背に、八戒と悟空から声がかかる。
「姑息だな」 ノックもそこそこに部屋に入った悟浄を、三蔵は有無を言わせずベッドに縫い付けた。 「俺が嫌なら、嫌だと言えばいい。回りくどい真似すんな、ウゼェ」 それが言えれば、苦労はしない。 『甘いですよね』 八戒の言葉が蘇る。だが、悟浄は他に自分を守る術を知らなかった。 そもそも、と悟浄は思う。ああは言っているが、三蔵は「嫌だ」という言葉を信じないだろう。初めて肌を重ねた時、自分がどういう状態だったかおぼろげながら覚えている。 三蔵の背に夢中で縋った。幾筋も痕を残した。
――――――それにしても。 悟浄はどんどんと自分の服を剥いでいく三蔵を呆れるように見やった。 「お前‥‥。よくヤる気になるよな。普通、この流れからいったらまず話し合いだろ」 その間にも三蔵は手を休めない。喉元を軽く吸われ、悟浄はぴくりと身体を震わせる。 「朝が―――来るだろ」 その呟きの小ささゆえに、はっきりと聞き取れなかったのか、三蔵は眉を顰めて問い返した。 「こんな事、いつまでも続かねぇよ。いつかお前は俺から離れる。だったら、最初から無かった方がいいって」 夢ならばまだいい。 だが、現実はそうはいかない。 「このままお前の手を取ったとして―――で、いつかお前に別れを切り出されたら‥‥‥‥俺、お前殺すよ。憎んで、憎んで憎んで、切り刻んで殺す」 この推測が当たるか外れるか。それは悟浄に確かめる術はない。何故なら、その時が来れば自分は正気を失うだろうから。狂気に身を委ねた自分の姿を、想像するだにぞっとする。それは、三蔵には言わないけれど。 「‥‥‥冗談じゃねぇよ。お前を殺せば俺は大罪人だ。何で俺がそんな目に遭わなきゃならねぇんだ?自分の人生、他人に振り回されるのは真っ平御免ってね」 あくまでも、本心は見せない。失う事をひたすらに恐れる自分を見せたくは無い。まだ、間に合うはずだ。今までの事は、幾度となく見たあの夢の一部だと思えばいい。 「――――今からそんなつまらん心配してんのか、貴様」 三蔵は、心底呆れたようなため息を吐いてそんな悟浄を見やった。だが不思議とその瞳に侮蔑の色はない。それが悟浄には意外に思えた。 「どう思われても構わねぇよ。けど、夢はいつかは覚めるもんだろ?」 そして、自分はあの空しさを味わうのだ。今まで散々味わった、空しい目覚めを。いや、本当の夢ではない分だけ、それは空しさなどという程度では済まされないのが目に見えている。 怖かった。 いつ失うかという喪失の恐怖に怯えながら日々を過ごしていくのには耐えられない。今ここで三蔵に呆れられようが軽蔑されようが、たまに見る夢の世界に浸っているのが分相応なのだ。 「という訳だから。――――退けよ」 もしかしたらこのまま旅のメンバーを外されるかもと思ったが、それ以外に悟浄は選択肢を持たなかった。話は終わりだと言わんばかりに、自分に覆い被さる三蔵の胸を押す。 「よせっ!」 驚愕に目を見開く悟浄の口を荒々しく塞ぐ。三蔵の舌の侵入を拒み、歯を食いしばって初めての抵抗を示す悟浄の鳩尾に一発くれると、呻き声と共に口が弛んだ。 そのまま手を進めようとしたところで物凄い力で引き剥がされ、鈍い音と共に悟浄の拳が頬に叩き込まれた。単純な力比べなら、只の人間である三蔵が悟浄に敵う筈がない。 「‥‥‥テメェ‥‥!今、殺されてぇのかよっ!」 怒りに震える紅玉が三蔵を睨み付けていた。だが、三蔵には些かも怯む様子はない。 「俺を殺すだと?」 口の端の血を親指で乱暴に拭い、三蔵は鼻でせせら笑った。 「俺の舌を噛み切る事もできねぇクセに、抜かしてんじゃねぇよ」 ぐ、と悟浄が言葉に詰まった。 その通りなのかもしれない。 「まだ分かんねぇのか?生半可な理由で俺がお前を手放すと思ってんなら、おかど違いだ」
『三蔵の覚悟を、甘く見ましたね』
止めてくれ! 三蔵の台詞に八戒の言葉が重なり、悟浄を苛む。 その想像に、悟浄はどす黒い絶望感を味わった。 「頼むから‥‥もうやめてくれ、三蔵‥‥」 「最初っから持たなきゃ、失くさずに済むじゃねぇか‥‥。それじゃ駄目なのかよ」 「怖ぇんだ。いつ失うかと思うだけで、どうしようもなく、俺は―――」 自分が愛する者の喪失を、極端に恐れる悟浄。 三蔵は、悟浄の腕はそのままに、ゆっくりと唇を悟浄の耳元に近付けた。呼吸を感じたのか悟浄が身を硬くする。それには構わず、三蔵は低い囁きを悟浄に流し込んだ。 「俺が殺してやるよ」 悟浄が息を呑む気配が伝わった。 「俺の手で、確実に。俺にお前が不必要になる時があれば、お前がそれに気付く前に殺してやる。お前が眠ってる間に、何が起こったのか分からない内にな」 そろそろと悟浄が自分の顔を覆っていた腕を外す。その瞳は戸惑いを含みながら、三蔵を見上げていた。 「最後まで、俺に愛されてると思わせたまま逝かせてやるよ」 悔しいが今、悟浄に必要なのは自分の真実ではない。内心、歯噛みするような思いで、三蔵は言葉を紡ぐ。 既に、自分にとって悟浄がそうであるように。 「何も失わせないまま、逝かせてやるよ」 まるで幼い子供のように、悟浄は目を瞬かせた。 「マジ、で?」 その時の悟浄の笑顔を、三蔵は忘れる事はないだろう。
初めての夜のように、悟浄は乱れた。 今まで何度か肌を重ねたが、二度目からは明らかに流されまいとする意思が伝わってきた。自制の対象は快楽か、それとも感情か。恐らくは後者に違いない。 今、三蔵の隣で、悟浄は安らかな寝息を立てている。悟浄の穏やかな寝顔など、三蔵も初めて見るものだった。 『俺、まだ生きてるよな』 熱に浮かされ、行為の間に何度も繰り返された悟浄の言葉。 そのうち、あの「約束」はなかった事にしてやろう。そんな保証が無くとも、俺の側にいたいと言わせてやる。俺と同じ想いを抱かせてやる。 ―――――必ずな。 そんな三蔵の決意を知る由もなく眠る悟浄の髪に、三蔵は静かに唇を落とした。 「‥‥‥‥今度は、俺が作ってやるか」 下手な芝居に使われたにせよ、初めて名を呼んだ日ですら記念日というならば、今日だって似たようなものだ。 本気で悟浄の全てを手に入れる事を誓った今日は、自分にとっての記念日。 その思いつきに三蔵は自分で口元を綻ばせた。 「砂糖は四倍で勘弁してやるよ」 一年後、甘い羊羹に驚く悟浄の顔を想像しつつ、三蔵は睡魔に身を委ねた。
「覚めない夢を、君に」完 |