『欲しい』という囁きと共に抱き寄せられた。

ああ、またいつもの夢だと、そう思った。
まるで俺の弱さと醜さの象徴のようなそれ。夢は願望のかたまりとはよく言ったものだ。

目覚めた時の空しさを嫌というほど味わった。
どんな幸せな夢も、悪夢になりえるのだと初めて知った。
それでもなお、夜を心待つ自分に反吐が出るけれど。
 

いつもの夢だと。
そう思ったから。


少しでも長く、その夢の中にいられるように。
目を閉じたまま、与えられる温もりに身を任せた。

夢でしかありえない、幸せな感覚に。
抗う事など、考えられなかった。
 

俺から幸せな悪夢を奪う、朝を憎んだ。
 

 

 

 

 

 

*** 「覚めない夢を、君に」 ***
 

 

 

 

 

 

「じゃーん!」

夕食後、宿の食堂で最後の茶を啜っていた三蔵一行の束の間の安息は、悟浄の大声によって遮られた。効果音も華々しく差し出された皿には、切り分けられた黒い物体。
それに対してどうリアクションをとってよいものやら一瞬悩んだ後、八戒は当たり障りのない事実だけを口にした。

「‥‥‥‥羊羹ですね」

悟浄はその答えに満足したのか、嬉々とした様子で羊羹を小皿に取り分け始める。

「すげーだろ、バッチシ手作りだぜ?夕食前に厨房借りて仕込んどいたんだ」
「はあ、そうなんですか」

確かに、宿に到着してしばらくは悟浄の姿が見えなかった。珍しく三蔵の側にいないと思ったら、宿の厨房に篭っていたらしい。

「そ、俺と三蔵の記念日のお祝いv」
「記念日‥‥?ちなみに、何の」

三蔵と悟浄はつい先日付き合い始めたばかりだ。その二人の記念日とは何だろう。初めて出会った日‥‥‥とは違う。その日は八戒にとっても忘れられない日であるが故に、日付は鮮明に覚えている。
実はな、と悟浄はやはりとても嬉しそうな笑顔を、八戒に向けた。

「三蔵が、初めて俺の名前を呼んでくれた日。うお〜!自分で言ってて照れちまうなぁ!」
「はい?」

バンバンと肩を叩いてくる悟浄から巧みに身をかわしながら、八戒は思わず聞き返す。

「だから、三蔵が三年前の今日、初めて俺を名前で呼んでくれたんだよ」
「おま‥‥覚えてんのソレ!?三年前って、マジ?」

なるべく関わらないようにと遠巻きに見ていた悟空が、堪えきれなくなったのか上擦った声を上げた。

「たりめーだろーが!三蔵が俺にくれた最初のシアワセだぜ、忘れるはずがねーだろ!‥‥ああ、あの時は嬉しかったなぁ‥‥。俺、自分が『悟浄』って名前で良かったーとか思ってさ‥‥」

どこかうっとりした表情で遠くを見詰める悟浄。その光景に八戒と悟空が背筋にうすら寒いものを覚えたとしても無理はない。

「という訳だから。はい、さーんぞ♪‥‥‥‥ほれ、お前らにもお裾分けな。ありがたく食えよ?」

全く話題に参加しない三蔵を気にも留めず、それぞれ三人の前に皿を置くと、悟浄はニコニコと笑った。
 

 

 

もう、これが始まって何日目になるだろうか。
 
三蔵と悟浄がいわゆる『そういう仲』になったらしいと八戒が気付いたのは、恐らくは二人の、最初の夜の事だった。ベッドの軋む微かな音が、隣室から聞こえてきたのは決して気のせいではない。この時ばかりは、耳聡い自分を疎ましく感じてしまった。

変わってしまった二人の関係を気付かない振りをするべきか否か。翌朝、少しばかり悩んだのは事実だ。だがその件に関して八戒は、些かの拍子抜けを感じざるを得なかった。
何故なら、実際のところ何の気遣いも穿った詮索も不要だったからである。

意外にも悟浄は、三蔵と結んだ関係を隠そうとしなかったのだ。

もしかしたら、三蔵は悟空には隠しておきたかったのかもしれない。だが、悟空は別段ショックを受けた様子も無く、淡々とその事実を受け入れた。それどころか、『何時くっつくかと思ってヒヤヒヤしてた』などと大人の発言をして周囲を驚かせた。

その悟空が衝撃を受けたのはむしろ、三蔵と悟浄が関係を持ったという事実より、それ以降の悟浄の態度の豹変ぶりにある。
 
まず、度を越して三蔵に接触するようになった。
元々、ふざけて肩に手を置いたりする事はあったが、今は人前で抱きつくのも厭わない。いちゃついている、というのではない。三蔵は殆ど無視しているのだから、あれは悟浄が一方的にベタついているだけだ。
特に言葉遣いが変わった訳でもない。だが「さーんちゃん」とか「さーんぞぉ」とか、鼻に抜けるような呼び方で三蔵にしな垂れかかる悟浄の姿には違和感を覚えずにはいられない。

そして何より違和感を覚えるのは。
それを文句ひとつ言わず許容している三蔵にであった。
 

 

『うげ〜。恋する乙女ってあんなのかな』
『三蔵もよく黙ってますよね。結局はバカップルという事でしょうかねぇ』
 

 

初めの頃は、悟空も八戒もそんな二人の様子を面白がって見ていた。だが、三日たち四日たち、一週間を過ぎ二週間が来ようとしても、悟浄の行動は落ち着くどころかますますエスカレートする一方だ。
遂に数日前からは、八戒や悟空が三蔵と接触するのを露骨に嫌がる素振りまで見せる始末だった。

「俺の三蔵に気安く話しかけんじゃねーよ」

三蔵と話をしている途中、横から掻っ攫うように三蔵の身体を引き寄せた悟浄に鋭く睨まれて、流石に悟空も閉口したらしい。

「悟浄って実はそういうキャラだったんだ‥‥」

もういい加減にして欲しいよな、とうんざりとした口調で吐き捨てる悟空に、八戒は心の中で同意した。
何故三蔵が、いつまでも悟浄の暴走を許しているのかは不明だが、このままで済む筈はない。いつか何かが、破綻する。
それが一体いつなのか―――。

 

 

 

不意に動いた三蔵によって、八戒の思考は現実へと引き戻された。

ず、と目前の皿を引き寄せ、三蔵は楊枝で切り分けた羊羹を黙って口に運ぶ。その瞬間、三蔵の動きが止まったかに見えたのだが、八戒の気のせいだったのかもしれない。
悟浄はただ、嬉しそうにそれを見ていた。
 
互いに顔を見合わせ、軽くため息を漏らした後、八戒と悟空も続いて羊羹を口にした。―――が。

ざり。

舌に触るざらついた感触。続いて口内に広がる、どうしようもない甘味。八戒は思わず吐き戻しそうになったが、茶で無理に流し込んだ。一瞬三蔵の動きが止まったのは、気のせいではなかったのだと今更に確信する。

「どう?俺の気持ちを表現するために、砂糖の量、三倍にしてみましたー。なんつったって甘々だから、俺たち♪」

いつまでも舌に残る、溶け切っていない砂糖の感触に、見れば甘いもの好きの悟空でさえ蒼白になっていた。一方、三蔵は顔色も変えず黙々と甘い羊羹を咀嚼し続けている。

八戒はこれ以上付き合っていられないと、腰を上げた。

「‥‥もう休みましょう、明日も早いですし」
「‥‥うん、そうしよ」

続いて悟空も立ち上がる。今日の部屋はツインが二つで、部屋割りは言うまでもない。二人で部屋に篭ってしまえば、これ以上馬鹿な恋愛ごっこに巻き込まれる心配はない。
だが、続いて発せられた悟浄の言葉に、八戒と悟空は愕然とした。

「あ、それちょっと待った!実はもうひとつデザート作ってたんだけど、どうも上手くいかなくてよ。明日作り直してぇから、もう一泊しようぜ?な?」

耳を疑わずにはいられなかった。

「何‥‥言ってるんですか貴方」

今まで悟浄の暴走を呆れながらも黙認してきたのは、それがまだ旅そのものには支障をきたしていないからだった。勿論、三蔵本人が何も言わないという事もある。だが、内心幾許かの葛藤があるにせよ、やはり八戒と悟空も、悟浄が恐らく初めて手にしただろう『誰かに求められる幸せ』に水を注したくはなかったのだ。――それなのに。

「こんなウザい旅、別に一日ぐらい遅れたってどうってことねぇって。あ、そうだお前ら明日、二人でのんびり遊んでこいよ。その間、俺と三蔵水入らずで記念日祝いを盛大にだなぁ――」

「悟浄、いい加減にしろよお前!」

いかにも邪魔だと言わんばかりの悟浄の発言に、ついに悟空の堪忍袋の緒が切れた。三蔵も悟浄も大事だと思えばこそ、黙って見守ろうと思ったのだ。それを踏みにじられた怒りが沸々と湧き上がる。

「ん?何?何で怒ってんのお前?」

緊迫感のない悟浄の台詞が、悟空の怒りに油を注ぐ。
耐え切れなくなり、悟空が拳を振り上げようとした、その時だった。

「――――おい」

一連の騒ぎの中で、初めて発せられた三蔵の低い声。

三蔵に声をかけられたのが余程嬉しいのか、悟浄が満面の笑みを湛える。思い切り期待を込めた目で三蔵を見詰める様子は、まるで打ち振る尻尾が見えるようだ。

「根本的に、間違ってる」

「ナニナニ?何が?」

遂に三蔵も悟浄に意見してくれる気になったのかと、八戒と悟空は期待に胸を膨らませた。だが、悟浄は意見されるなどと想像もしないのか、相変わらず目を輝かせ、ぱたぱたと尻尾を振り続けている。

三者三様の期待の篭った眼差しを受け、三蔵はゆっくりと口を開いた。

 

「俺がてめぇの名前を初めて呼んだのは、今日じゃねぇ。別の日だ」
 

「!?」

八戒と悟空が瞠目した。もし今、二人の心にマイクを取り付けていたとしたら、「ヒョエー!」という絶叫が部屋中に響き渡っていただろう。

(も、もしかして、三蔵も覚えてるとかー!?)
 

ひょっとして三蔵が今まで何も言わなかったのは―――実は悟浄に負けず劣らずの恋する乙女だったからだろうか。もしそうならば、三蔵という人物に対しての評価を修正しなければなるまい。
この旅の行く末を案じ、八戒と悟空は些か暗澹たる気持ちになった。

だが、三蔵の発言に最も驚いていたのは。八戒でも、悟空でもなかったのである。
 

「――――てめぇは、ンな事いちいち覚えてんのかよっ!?」

突然の怒鳴り声に、八戒と悟空は思わずびくりと顔を上げた。
二人の目に映るのは、先程までの笑顔をどこかに取り落とした、焦燥と困惑の表情を剥き出しにした悟浄の顔。そして。
相反して冷ややかな表情を湛えた、三蔵の姿だった。

「覚えてるわけねぇだろ。――――『そんな事』、『いちいち』な」

「あ‥‥」

思わず声を出したのは、悟浄ではなく悟空だった。思わぬ展開に、八戒は黙って成り行きを見守っている。
自分が何を言ってしまったのか気付き呆然と固まる悟浄の目の前で、三蔵は甘たるい羊羹を平らげた。皿をテーブルの上に乱暴に戻すと口元を皮肉気に歪め、挑発的な笑みを零す。

「もう終わりか?おかわりは無ぇのか、クソ河童」

悟浄の顔色が、見る間に変化した。
 

 

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