Pandora

 

春という季節は、何故にこうも輝きに満ちているのだろう。
桜の薄紅、続いて菜の花の黄、そして次にはと、我こそはと花たちがその身の鮮やかさを競い、人々の目を楽しませる。
長い冬を越えた生命たちが一斉に、溢れる喜びを謳い上げる歓喜の季節だ。

「‥‥チッ」

いつの間にか、悟浄が咥えていた煙草はすっかり短くなっていた。
途中で落とされることのなかった灰が、僅かな唇の動きによってぼろりと落下する。悟浄は吸殻を無造作に足元に転がし、煙草の箱から新たな一本を取り出したが、今度はジッポが上手く点らない。カチ、カチ、と何度か試してみた挙句、ついには咥えていた新しい煙草を握り潰した。

「‥‥チッ」

二度目の舌打ちには、大して苛立ちを紛らわせる効果はなかったらしい。悟浄は今まで腰掛けていた縁側にごろりと転がった。寺の敷地内でも隅の方に位置するこの僧房には、昼間は誰もいない。修行僧達は、今頃は勤行や修行に励んでいるのだろう。

今夜はこの寺での宿泊となる。

今まで三蔵一行は、横たわる場所など確保出来ない岩肌剥き出しの山中や、野生動物が多く野営が危険な地域などという特殊な事情以外では、敢えて寺院との関わりを極力避けてきた。理由は簡単、色々と煩わしいからである。普段はあまり意見の合致をみない四人であったが、三蔵にしても、他の三人にしても、その点だけは完全に同意見だった。

そんな一行が、野生動物どころか妖怪の噂も聞かない平和かつ宿にも不自由しない大きな町の、僧侶がわんさとひしめく大規模な寺院に宿泊するに至るには、もちろんそれなりの経緯が存在する。
まだ三蔵たちが旅に出る前、三仏神に様々な雑事を押し付けられていた時期があったが、その中の一件にこの寺院が関わっていたのだった。そんな事実はこの町に立ち寄るまで知る由もなかったし、仮に知っていたところで全く気にもならなかっただろうが、取り戻した宝物に妙なモノが取憑いていたと難癖をつけられては話が違ってくる。
こともあろうに寺院側は直に三仏神に泣きつき、それじゃあ担当した三蔵法師が通りかかるから丁度いいんじゃないの、という話が纏まっていたらしい。宝物を盗賊から奪取した時点では怪しい気配など微塵もなかったのだから、いかに三仏神の命とはいえ、三蔵がそんな言いがかりに等しい厄介ごとを然程の難色も示さず引き受けたのには、悟浄をはじめ八戒も悟空もかなり驚いたものだ。

結果、三蔵は寺院の坊主達を従えて現在除霊の真っ最中だ。
これほどの寺院になれば、当然それなりの高位の僧侶も在籍するだろうに、あえて三蔵法師の力を借りねばならない理由には二つ考えられる。
その宝物に取り付いたというモノが余程に凶悪極まりない化け物であるか、実は除霊は口実で三蔵法師を寺院に招くことが目的か。
前者の場合は除霊自体にかなりの時間を要するだろうし、後者の場合は除霊が済んだ後それに付随する諸々に付き合わされることは目に見えている。なにせ相手は三仏神のお墨付きを持っているのだ。
どちらにせよ、あと数日はこの寺院に滞在することになるだろう。大勢の坊主達に囲まれて眉間に皺を寄せる最高僧の不機嫌な顔が思い浮かび、ご愁傷様、と悟浄はひとり口元を歪めた。

小高い場所にあるこの寺院は、春の美しい色彩に彩られた町を見下ろすにはうってつけだったが、悟浄はその眺望を楽しむわけでもなく、寝そべったままぼんやりと宙を眺めていた。申し訳程度に花をつけた貧相な枝ぶりの木立が、僧房の縁側からは唯一視界に入る桜である。誰からも見向きもされないような花の側を、悟浄は敢えて居場所に選んだ。
盛りを過ぎた花びらが、風がそよぐ度に容赦なく枝からもぎ離され、空を舞っていく。
八戒と悟空は、寺に到着して早々に連れ立って出かけていった。未だ、遅咲きの桜を堪能できる場所が近くにあるらしい。どうりで、普段は静寂であるべき山中の空気が、どこか浮かれたような、ざわついた気配に溢れていた。最後の桜を惜しむ花見客が大勢押し寄せてきているに違いない。
だが、市井の浮かれた雰囲気がどうあろうと、寺院の中は静かだった。時折聞こえる読経の声が、一層厳粛な空気を際立たせていた。

 

 

 

 

そろそろ吸殻の後始末でもして自分も宛がわれた部屋にでも篭ろうか、と悟浄が考えたときだった。ゆっくりと砂利を踏みしめる音が近付いてきて、悟浄は身を起こした。視界に飛び込んできたのは、見覚えのある老僧だった。

「‥‥‥アンタは暇なの?」

これはお言葉にございますな、と老僧は笑みを深くした。幾分礼を欠いた悟浄の物言いにも、眉ひとつ顰めない。
悟浄の記憶が正しければ、目の前で穏やかな笑みを浮かべている年老いた僧侶は、この寺院での最高位に就く人物だった。まさか、寺院の責任者が三蔵法師に厄介な仕事を押し付けて遊んでいるわけではあるまい、と悟浄は訝しんだ。
向けられる猜疑の目と警戒心を知ってか知らずか、老僧は皺だらけの相好をさらにくしゃりと崩した。

「流石に三蔵殿のお力は見事なものですなあ。おかげ様であちらはすっかり片付きました。お忙しい三蔵殿がわざわざ当院にお立ち寄り下さったとは有難いことです」

わざわざも何も、そっちが仕組んだことじゃねえのと、喉まで出かかった言葉を悟浄は何とか押し留めた。出来るなら、無用のトラブルは避けたい。
このまま速やかにここを離れ、今までどおりに旅を続けたい。それだけだ。

「へーえ?で、三蔵がこっちに逃げてこなかったかって?」
「いえいえ、三蔵殿の居場所は存じておりますよ。早々に書庫に篭ってしまわれましてな」

意外にも、老僧の声音には怒りはなかった。三蔵の気まぐれが終了し、途端に非協力的な態度を取られて寺院側は困っている筈だが、迂闊に腹の底を読ませないところは流石だった。
三蔵の最近の動向から、雑事からの逃亡先に書庫を選んだのには驚かなかった。元々、書物が嫌いではないことを差し引いても、最近の三蔵はまるで本の虫だ。以前はどんな大きな町に泊まっても宿から出るのを億劫がっていたのに、近くに多くの蔵書を持つ家があると聞けば、いつの間にか姿を消している。三蔵法師としての使命に目覚め、突如ガリ勉君にでもなったのだろうかと、悟浄としては少々面白くなかった。
三蔵が書庫に通う時間が増えるということは、悟浄と過ごす時間が減っているということに等しい。
またしても気分が下降してくるのを感じ、つい不機嫌な声が出てしまう。

「んで?俺に何か用でも?」
「お客人こそ退屈されていらっしゃるかと存じましてな。拙い手ではございますが、あちらで粗茶なりと一服‥‥」

恭しく促されるのを遮るように、面倒臭げに手を振った。

「あーイイってイイって。そんな気ィ遣わねぇでくれよ。いくら三蔵の連れだからっつって。ここで十分楽しんでる」

坊主と顔を突き合わせて茶を飲むなど、冗談ではない。
以前、うっかり同じような誘いに乗ったら、大勢の坊主に囲まれ散々と嫌味の嵐を浴びたことがある。今回だって、何を言われるか知れたものではない。もうこれ以上、何も聞きたくはなかった。
悟浄の敵愾心に気付いているだろうに、老僧は笑顔を湛えたままだ。そうですか、と拍子抜けするほどあっさり引き下がり、踵を返した。
訪れたときと同じくゆったりとした足取りで遠ざかる背中に、ふと、自分の足元に吸殻が散乱していたままであったことに悟浄は気付いた。いくら高齢とはいえ、老僧が見落とした筈はない。そして、それなりの高位の僧侶であれば、自分の容姿の意味するところを知らない筈もない。後で埋めるはずでした、との申し開きを信じてもらえる確率は皆無に等しいだろう。
――――最悪だ。

 

「‥‥待てよ、アンタ」

このパターンは非常にマズい。
面と向かって悟浄を非難しない輩ほど、後で三蔵に無理難題をふっかけてくる。まるで三蔵の弱みを握ったかのような態度を取られたこともあったぐらいだ。
今までに幾度となく繰り返された不快な光景が脳裏を過ぎり、悟浄は低い声で老僧を呼び止めた。のんびりとした動きで、老僧が振り返る。

「何か?」
「そりゃ、こっちの台詞だっつうの。何か俺に言いたいコトあんじゃねえの?」
「はて」

老僧は小首を傾げた。

「とぼけんなよ、コレ見て何とも‥‥!」

足元の吸殻を指し示せば、老僧は何とも気まずそうな表情を浮かべた。

「これは‥‥見透かされてしまいましたか」
「バレバレだぜ」

ふん、と鼻を鳴らすと悟浄はあからさまな敵意を持って老僧を睨みつけた。
だが、老僧はそんな視線に怯むでもなく、撥ね付けるでもなく、緩慢な仕草で毛など一本も生えていない頭をつるりと撫でた。

「では、お言葉に甘えて拙僧も一本‥‥遠慮なくご相伴に預かるといたしましょうかな」

はあ!?と悟浄ははっきりと口に出して驚いた。

「お客人が察しのよい方で助かりました。流石に自分からは言い出し難うございましてな」

気のせいか幾分足取りも軽く引き返してくる老僧に、言葉を失う。

――――煙草などとんでもない。いかにも不浄の輩のやらかしそうなことではないか。三蔵殿のお共でなければ叩き出してやるものを――――

悟浄の予測していた台詞が、ことごとく崩れ去っていった目の前で、年老いた僧侶はにこにこと笑っていた。
 

 

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