紫陽花(2)

しとしと。
しとしと。

二人して黙り込んでいると、完全な静寂と思っていた中にも、僅かな雨の音が耳に響いてくる。
いつの間にか穏やかに雨の気配を感じられるようになっている自分に驚きつつ、三蔵はずっと外を眺めている悟浄の髪を、くい、と引いて合図した。悟浄も心得たもので、振り向いたときには目を伏せている。
軽く触れ合っただけの唇が離れると、再び悟浄は外の紫陽花へと気を逸らしてしまった。何となく面白くなく感じて、三蔵が悟浄の剥き出しの項から肩に唇を這わすと、くすぐったいのかくすくすと笑いながら身を捩る。

「俺も、紫陽花には‥‥ン、ちょっとした思い出があんだよな」

三蔵の悪戯を止めるわけでもない悟浄の声に、時折艶めいた笑いが混じる。

「俺が雨ン中、何日も紫陽花の前でずーっと座り込んでたら、心配した兄貴にえらく怒られちまって」

三蔵は、少々驚いた。

「‥‥‥お前に、花を愛でる心があったとはな」

思わず心に浮かんだままを口にすると、予想通りの反応だったらしく、悟浄は苦笑を零している。それでも三蔵の方に視線を向けない悟浄に焦れて、首筋に軽く歯を立てると、抱き込むように腕を持ち上げて三蔵の髪に指を滑らせてきた。宥めるような指の動きが心地よくて、三蔵は悟浄の好きにさせた。また僅かに距離がつまり、悟浄の声も近くなる。

「ワリぃけど、もっと打算的。俺、ガキん頃、紫陽花って周りから咲くもんだと思ってて」

少し雨足が強くなったようだ。先程よりは大きく、庭の紫陽花の葉が弾んでいる。
一瞬、三蔵が外に気を取られて反応が遅れたのを、悟浄は自分の発言の意味が伝わらなかったせいだと思ったらしく、身振りを交えて説明し始めた。

「回りから、こう、順番にさ。花びらが開いてって‥‥最後に真ん中の花がぽんって咲いて、一輪完成!みたいに」

ぽん、というくだりで握っていた拳を上向きにぱっと開く様子は、なんだか子供のように楽しげだ。普段ならガキ臭いと鼻で笑う三蔵も、それをしなかったのは、部屋に漂う甘やかな空気のせいかもしれない。悟浄は腰掛けたまま背中を三蔵に預け、三蔵は悟浄の髪に頬を寄せるような体勢で背後から抱きしめている。

「ちょっと観察してりゃわかるだろ」

昨晩抱き合ったまま眠りについた二人の起きぬけの格好といえば、互いに上半身は裸のままだ。密着する素肌から、ともすれば不埒な熱が湧き上がりそうで、三蔵はその熱を誤魔化すためにわざとそっけなく返事した。

「だからそう思い込んでたんだって。えーとな、がく紫陽花が‥‥あ、ホラ、あそこ」
「ああ」

庭の片隅にひっそりと佇む薄紫の花が、雨を弾いて揺れている。大輪の紫陽花に隠れるように咲くそれを、悟浄の指が指し示すのに三蔵が頷くと、触れ合った部分から音と振動が伝わったらしく、悟浄はまた笑って首を竦ませた。

「俺、あれって紫陽花の咲き初めだと思ってたのよ」
「あ?」
「だからさ、あれ回りだけ囲むよーに花が咲いてるだろ?それが中までどんどん咲いてってフツーの紫陽花になるんだと思ってたわけよ」
「‥‥‥‥」
「あ、今、頭悪ィとか思いやがったなテメェ」

ここで『そうだ』と頷き、せっかくの雰囲気を壊すのも勿体無く感じて三蔵は答えなかったが、悟浄にはしっかりと伝わってしまったようだった。だが、悟浄はあっさりと『ま、いいけどよ』と笑っただけで、言葉を続けた。

「んで、最後に真ん中の―――てっぺんの花が開く瞬間を見れたら、願い事が叶うって‥‥近所のオッサンに担がれてさ。バッカみてぇに花の前に座り込んで、小学生の夏休みの宿題よろしく朝から夜中まで、ずーっとがく紫陽花を観察してたんだぜ」

バッカだろ?と悟浄は自分で笑った。

「兄貴に教わって、よーやくホントのコトが分かった。そりゃ咲くわけねぇわ」

余程、自分の幼い頃の思い込みがおかしかったのだろう。触れている肌から、悟浄のくつくとした笑いが三蔵にも伝わってきた。その笑いには、何の陰りもなくて。

だから、思わず、三蔵は。

「何を、願った?」

――――悟浄の笑いが、ぴたりと止んだ。
 

悟浄がゆっくりと三蔵を振り返る。悟浄の視線が、三蔵に据えられる。
三蔵と悟浄は、しばらく無言で見つめあった。再び、雨の音が耳に届く程の静寂が訪れる。

ほどなく、ふっと悟浄が微笑んだ。穏やかな笑みだった。

「‥‥‥さあ、忘れちまったな」

悟浄が三蔵の頭を引き寄せて、その額に軽く唇を押し当てる。
そのまま何事もなかったかのように、悟浄は視線を窓の外に戻していった。

 

 

 

悟浄の声には終始笑いが含まれていて、単に子供の頃の失敗を笑い話として三蔵に聞かせただけだということは、三蔵にも分かっていた。
それでも、三蔵の脳裏に一度浮かんだ映像は、なかなか消えてはくれない。

膝を抱え、紫陽花の前に座り続ける、咲く筈のない花を待ち続ける、赤い髪の少年の姿。恐らく、その願いはささやかな、だが決して彼には与えられなかったもの。
幼い身体に詰め込まれた願いが、悲鳴となって聞こえてくるような気がして、三蔵は堪らない気持ちになる。

不意に、腕にかかる悟浄の体重が重くなった。悟浄が完全に三蔵に凭れ掛かったのだ。反射的に腕の力を強めると、悟浄の手がそっと三蔵の腕に重ねられる。

「願いは、忘れちまったけど、さ」

やはりどこか笑っているような、悟浄の声がした。相変わらず悟浄の視線は外を向いているままだ。
だが、ようやく三蔵は気がついた。悟浄は紫陽花を見ているのではない。窓ガラスに映った、三蔵を見ているのだと。
ガラスの中の悟浄が、真っ直ぐに三蔵を見つめていた。悟浄はやはり、穏やかに微笑んでいた。
幼い頃の悟浄の願い。もしそれが三蔵の想像する通りならば――――。

「叶ったんじゃねーのかな」

悟浄の言葉に、三蔵ははっとした。
悟浄が、今度は照れたような笑みを口元に乗せて、三蔵の首筋に頭を擦り付ける。

「きっとさ」

幸せそうに照れ臭そうに微笑んで、すりすりと甘えてくる悟浄に、愛しさが募る。
精一杯の想いが伝わるようにと、三蔵は悟浄にそっと口付けた。紫陽花よりも鮮やかな色を放ち、自身を魅了し続けるその存在に。
 

 

 

 

 

忘れられた窓の外。庭の片隅にひっそりと、がく紫陽花が佇んでいる。

 

色づく鍔に囲まれた、蕾にも似た小さな花。
それは決して、大きく花開くことはないけれど。

 

声にできなかった幼い願いは、とっくに叶って。
今、確かに、ここに在る。 

 

 

 

 

 

 

――――お願いです。

 

どうか。
どうか。

 

俺を愛して。
 

 

 

 

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「紫陽花」完