拾遺・1

By 深海 紫更様

 あれからずれたルートを修正しながら西へと進み、小さな街に入った。そこではあの森の話は伝説になって語り継がれていて…樹仙の髪が昔は漆黒であった事を知った。
 

 

 

 小さい街だからこそなのかもしれないが、それほど混雑していない宿で個室が4つ取れ、食事もそこそこに部屋に転がり込むと悟浄は上着を脱ぎ捨てる。小さなユニット式のバスルームに向かいながら次々に脱ぎ捨てて行く服は、八戒がいれば目敏く見咎めて小言の一つも受けただろうが、今は一人きりだ。その行動を誰一人見咎める事もなく。洗面台の前にある大きな鏡の前で悟浄はぴたりと立ち止まった。自分の姿をまじまじと見詰めるようなナルシズムは持ち合わせていないが、流石に己の身体に残ったあの事象の名残にぎょっとして足を止めてしまったのだ。
 そこにあったのはくっきりと残った掌のような痣。それは術を受け止めたという事実の証明で悟浄の眉間にくっきりと皺が寄る。
「…ちゃー…。一人で良かったっつーか、なんつーか…。」
 流石にこれを見たら同行者達に何を言われるか判ったものではない。胸のこの位置にこれがあると言う事は、背中の中心辺りにも同じような痣があるのだろう。心臓の真上にあるそれは、宛ら命の源である心臓を握り潰そうとされたかのようで、悟浄自身にしてもいい気分ではない。
「でも…。」
 この痣は三蔵の命を一瞬で奪い去られなかった証しだ。自分がほんの少しだけでも道家を齧った事があって良かった、と思えるたった一つの事。でもそれに適しているとされるこの生まれが----------。
「…良かった、なんて…。」
 言える日が来るとは思えないけれど、それでも、1つでもこの命と知識が役に立つと知る事が出来たのはいい事なのかもしれない。
 鏡の中で妙に柔らかい笑みを浮かべる男の胸の痣をそっと指先でなぞって、浴槽に足を進めた。
 

 扉の外、ノックの手を上げては降ろし、踏み込む事を逡巡しているのはその命を守られた人物。悟浄がどれだけその心に傷を負いながらあの場に踏み止まったのかを知って、想いの深さを知って、何か言葉をかけたい、と思い立ってここまで来たものの中々決心が付かず。言葉は浮かばぬものの顔を見れば何かしら出て来るだろうと居直り三蔵は御座成りなノックをして悟浄の部屋のドアを開けた。中に踏み込み扉を閉めれば、三蔵の目に映る点々と落ちている悟浄の衣類。
「…脱皮じゃねえんだぞ、クソガッパ…。」
 雑言を吐きつつも適当に部屋の隅に追いやってそのまま狭いシングルベッドに腰を降ろす。煙草を咥え火を入れた時、浴室から聞こえていたシャワー音が消えた。かちゃりと浴室のドアが開き、ジーンズだけを身に着けた悟浄が頭にタオルを被って現れる。その胸にくっきりと浮かんだ真っ赤な痣に三蔵の視線は釘付けにされた。
「おわ!何やってんのアンタ!?」
 ばさり、とタオルを外した悟浄が驚愕に目を見張るのを無視してぎろりと睨みつければ、悟浄は軽く肩を竦めベッドの脇にしゃがみ込んで荷物を漁る。洗い晒しの白いシャツを引っ張り出して湯上がりの身体に纏う姿は普段は見かけないもので、三蔵からその上半身を隠そうとしているのは明らかだった。
「おい。」
「あ?」
 まだ濡れたままの緋色の髪を引っ掴んで少し乱暴にぐいっと引っ張ると悟浄の表情が苦痛に歪む。
「…ってぇ!何すんだよ、クソボーズ!」
「隠してんじゃねえよ、何だそりゃ。」
 三蔵がいきり立つ悟浄のシャツの前を留められないように掻き開くと居住まい悪げにその腕を振り払い、悟浄は1歩後退った。そそくさとシャツの前を掻き合わせて俯くように三蔵から視線を逸らしてしまう。
「気持ちワリィだろ。」
「テメェ、庇ってんじゃねえよ。」
「…悪かった…。」
 三蔵が庇われる事が嫌いな事くらい判っているけれど。頭で考えるよりも早く身体が動いてしまったのだから仕方ない。だから素直に謝ってしまう。その反応に面食らったのか三蔵の気配から刺々しいものが一瞬で消えてしまった。
「もういい。言う気が失せた。テメェの身勝手なんざ今に始まった事じゃねえからな。」
 庇われた事よりも、その心の痛みの方が数倍強い。それが判っているから責める気にもならず、けれど一言ぐらいは言ってやりたい。三蔵はそう思っただけなのだ。それなのにすんなりと謝られてしまえば拍子抜けもしようと言うもので。
「それより、痛んだりしねえのか。」
「え?あ、この痣?全然。名残みたいなモンだから。」
 術式を無理矢理変形させた事の反動は思いの外軽かった。この痣一つで三蔵の命が繋ぎ止められたなら安いものだと思う。実際、八戒の気の障壁と八戒自身をすり抜けたあの守護者を見て自分は大丈夫だと妙な確信じみたものを感じたけれど、こんな痣が残った程度で済んだ事の方が意外だった。術との相性が良かったのか悪かったのか、兎も角合ってしまっただけなのだろう。勿論、相性が合ってくれたから三蔵の魂魄が一瞬で連れ去られないように変形したわけだけれども。
 三蔵の指がその痣をなぞるように触れてきて悟浄はぎょっとしたように目を見張る。今日は三蔵に驚かされてばかりだ。
「何よ、三蔵サマ?」
 一頻りなぞったかと思うとすいと立ち上がり、吸いさしの煙草を揉み消すと三蔵はその胸元に顔を寄せ、掌に似た痣を舐め上げる。悟浄の身体が小さく震え、それを押えるように三蔵の腕が腰を掴んだ。
「何…ってば。」
「こんな痣、つけてんじゃねえよ。」
 それは悟浄の心が傷ついた証しのような気がして心苦しい。否、怒りに似ていた。この強く脆い心を傷つけたのは自分なのだ。苛立ちに任せ怨嗟の言葉を吐き、拒む事の出来ないこの男に拒む事を強要し、自分の求める相手を切り捨てる事さえさせたのは他の誰でもない、自分だ。あの時、無力に倒れた自分に、傷つく事を甘受させた自分に、受け入れた悟浄に、怒りにも苛立ちにも似た何かを感じる。それを口に出す事は更に悟浄を傷つける事に繋がるから、口にする事は出来ない。
「怒んないでよ、これは、アンタと俺を守れた証拠なんだから。」
「守ってくれなんて言ってねえ。」
「俺はアンタを失いたくないと思ったんだ。アンタを失って俺が傷つきたくないと思った。だから俺は俺を守りたかったんだ。」
 ほんの少し言い訳の匂いのする言葉は八戒が三蔵に告げた『あの人はあの人のエゴであの人自身の心を守るためにそれをやってのけた。』という言葉を裏付ける。
「俺の事はどうでもいいのか?」
「俺を失ったとして、アンタが傷ついても。俺はそれを知る事はない。…でも、俺の事でアンタに傷ついて欲しくないとは思うよ?」
 どうでもいいなんて思わない。だけど、自分の我が侭で行動しただけで思い遣っての事ではない。そう思って欲しい。身勝手で我が侭なニンゲン。そう思ってくれればそれでいい。だから言い訳はしない。
「テメェは…勝手なヤツだよ。」
「アンタも同じでしょ?」
 喉の奥でくつりと笑って顔を上げた三蔵と幾らか俯いた悟浄の唇が触れ合う。結局は同じくらいに身勝手で我が侭な生き物なのだ、自分達は。誰だって、何だって、きっとそれは同じで。
「…ふ…。」
 合わせた唇の間から漏れる、どちらのものとも知れない吐息に煽られる。もっと深く、もっと近くと自分の中の自分が叫びにも似た声をあげるのを聞いた気がした。
「スるの?本調子じゃないくせに。」
「テメェこそ、煽るな。」
 悟浄の薄い唇の間から覗く赤い舌が、三蔵の肉厚の唇の端を舐め上げる。実際あの短時間で心も身体もぼろぼろで疲れ切っているのは事実だけれど、それよりも確かなものが欲しいと欲望が訴える。彼らはその訴えに従う事を選んだ。ただ、それだけだ。
 悟浄の滑らかな皮膚の上を三蔵の白い指が這う。艶やかな吐息を吐きながら伸ばされる悟浄の指を甘受して唇の端だけで三蔵が笑って見せれば、二人縺れるように寝台に倒れ込む事になった。
「ね、ホシイ?」
「ああ?」
「ホシイって、言って?」
 強請る声音で囁きながらざらりとした感触を与える舌が三蔵の鋭利なラインを描く顎を伝って行く。何度も肌を合わせ慣れた仕草で法衣の合せ目を割って行く様に三蔵は小さく背を震わせた。
 どうしてここまで無用に扇情的なのか、と思う自分は悟浄に毒されているのかもしれない。それでも、心に傷を負っても、手放す事なく欲しいと言うから。
「欲しがったら、どうすんだ?」
 何もかも手放して俺のモノになるとでも言いやがるのか。
 囁きを耳に直接注ぎ込みながら先刻羽織られたばかりの悟浄の白いシャツを剥ぎ取る。擽ったそうに身を捩りながら背を浮かせて三蔵の手がシャツを取り除くのを手伝って、悟浄はくすりと笑みを漏らした。
「アンタが俺を手放せないようにしてやるよ…。」
 甘い吐息混じりに囁いて三蔵の胸元に顔を埋め、黒いアンダーを口に咥えて緋色の瞳を眇める。獣じみたそれは三蔵の理性も意識も食い破ろうとしているようにさえ見えて、三蔵はその口元に薄い笑みを閃かせた。悟浄の唇を振り払いアンダーを脱ぎ捨てて健康的に日に焼けた胸の薄紅の頂に唇を押し当てれば悟浄の背が鮮やかに反り返る。
「よこせ、テメェの何もかも。」
 傷も、苦しみも、与り知らぬ事の無いように。開かれるのは身体だけでなく心も共に。そうでなければ意味がない。
 背を逸らす事で押し付けられる格好になった下肢にお互いの熱を感じて些か早急にその熱を暴き合う。何も介在する事なく触れ合った肌は焼け付くほど熱くて。
「咥え込んでやるよ。アンタをマルゴト。」
 だからホシイって言いな。
 耳孔に舌を差し入れながら囁かれる低い声音は甘ったるい低音で耳孔を舌が這い回るガザガサと言う雑音に掻き消される事なく三蔵の脳を侵食する。誘い込むように開かれた足の間に腰を割り入れると間を置かずに絡みついて来る長い足がその言葉を身を以って表しているようで。
「悟浄。-----------……。」
 殊更低い声音で囁かれた三蔵の言葉に、悟浄は満足そうな笑みを浮かべた。
「手放そうとしてみやがれ。食い千切ってやる。」
 余裕のない性急な情交は宛ら子供のそれのようで、行為に慣れた自分が小さく嘲笑うのを頭のどこかで聞いた気がしたけれど、そんなコトはどうでも良かった。これはお互いがここに在るのだという事を確認するための行為で性衝動とは遠くかけ離れたモノであったから、彼らにとっては行為そのものよりもその確認と言う作業の方が大切だった。
 触れ合った肌が汗で滑る。縋り付く指がその滑りに阻まれてずるりと白い背からずり落ちるのを忌々しそうに舌打ちして、悟浄は目前に曝された首筋に思い切り歯を立てた。普段三蔵が纏うアンダーに隠れるか隠れないかの位置で、それは悟浄の言葉通り、命すら食らい尽くすほどにその身の中に悟浄が咥え込んだという無言の証明になる。
 過去に一度もなかったその悟浄が与える痛みに三蔵は眉を顰め、それでも悟浄の身の内に咥え込まれた己が更にネツを孕む。より深く強く突き上げると悟浄の口元がにやりと笑った、気がした。
 

 幾度熱を解放したのか知れない。深く熱く高い極みは悟浄の意識を攫って行って。じっとりとした空気の中、その意識が戻るまで暫くかかりそうに思えた。貪欲に何もかも飲み込もうとする悟浄の内側は拒む事が出来ないのではなく、拒む事をしないのかもしれない、と最中の言葉を思い出して三蔵は薄く笑う。その胸に今もくっきりと残る掌に良く似た痣はすぐに消える。けれど、いつまでも悟浄の身体に飲まれた自分達の命を守ったと言う事実は消える事がないのだろう。守られた、と言う事は三蔵に苛立ちにも似た感情を齎すけれど、三蔵を守る事が悟浄を守る事に繋がると言うならば、それは悪くない。それは自分にとっても同じ結果を齎すのだろうから。
「…食らい尽くしてみろよ…。」
 胸の痣に唇を押し当てて自分と悟浄が零した言葉の欠け片を拾い上げ、三蔵はゆっくりと目を閉じた。その唇の熱が悟浄の胸の内を深く穿った傷痕を癒す事を知らずに。