Sandstorm

By 波多乃さくら様

安酒の匂い、煙草の煙、押し殺したざわめき。
フッ、と悟浄は煙を吐き出し、グラスの中身を一息で呷った。買出しに行く、と八戒と悟空が出掛けてからどれくらい経ったろう。
退屈してカウンターに突っ伏し、新聞を広げている三蔵に何気なく手を伸ばす。
「何だ、うぜえ」
「暇だ」
「知るか。触るな」
眉根を寄せた三蔵と視線がぶつかり、悟浄は拗ねたように唇を尖らせた。
三蔵の手甲に乗せた指を離し、背を撓めたまま周囲を見遣る。
「あっ」
不意に悟浄は小さく声を上げた。三蔵が不機嫌そうな面持ちでちらりと見る。
「今すっげー可愛い子がいた」
言いながら席を立ち、店を出て行った。
悟浄の背で蕩ける様に流れる紅い髪をずっと見送っていた自分に気付く。
いつものことだ。…だが、この嫌悪感は何だろう。
「…チ…」
舌打ちしつつ、煙草に火を点けた。…その時。
「今の、あいつ…」
「凄え真っ赤な髪だったな。あれは…」
言葉の端々に毒の棘を含ませたような声が漏れ聞こえて来た。
悟浄が禁忌の子であると気がついた者達が、声を潜め囁きあっている。どの街でもよくあることだ。本人はもとより三蔵達も意に介さない。だが彼らの中から気配がひとつ、悟浄の後を追うように足早に店を出て行った。
明らかに尋常な様子ではない。背後を睨む様に三蔵はゆっくりと振り向いた。ちょうどその時、八戒と悟空が店へ入ってきた。
「お待たせ――!…あれ、悟浄は?」
「さあな」
「遊びに行ってしまったんでしょうか。どうします?」
八戒がそう言うと、三蔵はおもむろに立ち上がった。
「お前ら、先に宿に行ってろ」
三蔵は二人を残し店を出た。酒場にいた者達も、悟浄の後を追って行った気配も全員人間だった。悟浄の身を案ずる必要は何処にもない。
…後悔したくない、だなんて。
それは唯一尊敬する師を失ってから知った感情。
どうして今そんな気分になるのだろう。

「あーれェ、どこ行ったー」
煙が充満する狭い居酒屋から出て、華奢な影を追ってここまで来たものの。どうやら見失ってしまったようだった。繁華街から離れたのはほんの僅かだと思っていたが、辺りには人影すらない。
「しょーがねえ」
諦めて店へ戻ることにした。三蔵が仏頂面で新聞を広げている姿がよぎる。そろそろあの二人は戻って来ただろうか。
近道をするために路地裏へ入った、瞬間。
突然背中に銃口を押し当てられた。
「…何だっつーの。今戻るとこだって」
てっきり三蔵だと思い込み軽口を叩いたが、背中を突き刺すような殺気に只ならぬ雰囲気を感じた。
「久しぶりだな、悟浄」
僅かに震えた、低音。聞き覚えは無かった。
「ごめん、誰?」
「両手を上げて、こっちを向け」
―――やれやれ。とっとと帰って寝てえのによ。
悟浄は声に従った。声の主は悟浄より頭一つ分身長が高く、ギラギラした瞳に殺気を漲らせていた。地を這うような低音の声に見合う風貌と体躯。年齢は。
―――兄貴と同じくらいか?
だが、やはり見知しらぬ顔だった。
「ホントごめん。どちら様?」
「覚えてねえのか。…お前のせいで…」
ぴく、と悟浄の体が微かに震えた。
―――お前のせいで。
なんだろう。…苦しい。
「…本当に覚えてねえようだな。こうして可愛がってやったことも忘れたか」
男は悟浄の鳩尾に押し当てていた銃口をゆっくりと上へずらし、喉仏を伝い唇に触れ。口の中へ入れた。
体が動かない。何故だ。指先に澱んだ熱が溜まり、力が入らない。
かち、と歯が触れた。
可愛がってやったという言葉とは裏腹に、男の表情は忌々しそうに歪んでいる。
「お前はまだ生きてるんだな。あいつがあんな死に方したっていうのに」
お前が死ぬべきだったんだ。
その時、ここに無い筈の何かが見えたような気がした。時間と記憶が交錯する。
…母さん。
「お前がこんな姿で生まれてさえ来なければ」
男の指が力の抜けた悟浄の腕を掴み跪かせた。体の何処かで眠る記憶を引き出すように暴いていく。…額に銃口を押し付けられ。
「あいつが狂ったのはお前のせいだ。…やれよ。覚えているだろ」
悟浄は男のズボンの金具に手をかけた。
悟浄は、戻っていた。
恐怖と孤独だけが全てだった頃に。
…母さん、泣かないで。俺にできることなら何でもするから。
真紅の瞳が透明度を増し、やがて滴となってかつて傷つけられたその頬に落ちた。
「実の息子に殺されるなんてよ。可哀相に。もっともあいつら親子は」
男が悟浄の髪を乱暴に掴む。悟浄は男の物を口に含み、拙い仕草で懸命に奉仕した。
…傍に居させて。俺を見て。愛してると言って。…助けて。
男は靴の先で、跪く悟浄の股間を刺激した。びく、と一瞬肩を揺らし唇を離しそうになった悟浄を押さえつける。
「ったく、ちっとも変わってねえな。ガキみてえなしゃぶり方してんじゃねえよ。体ばっかりデカくなりやがって…」
突然。
銃声が鳴り響き、悟浄の口からずるりと男が抜けた。
そのまま昏倒した男は、悟浄に突き付けていた銃を手にしたまま、額から血を流し目を見開いて空を睨んでいた。
「何してやがる、馬鹿河童」
低いが、明瞭な声。眩し過ぎる黄金。紫の瞳は不透明な輝きを増していた。
ザリ、と三蔵は煙草を踏み潰し、跪いたままの悟浄に近付く。
「悟浄」
名前を呼ばれ、頬を撫でられる。三蔵の顔を正視することができなかった。
口元を流れる、男の断末魔とも言える飛沫。やがて流れ、涙と溶け合い、顎を伝い落ちた。
「さっさと立て。帰るぞ」
視界の隅に、傍らに立つ三蔵の純白の法衣が見える。それに縋る様に悟浄は立ち上がり、三蔵の背に腕を廻した。
「…三蔵…俺、マジ汚ねえ」
「…何のことだ」
「ウチのお袋の、愛人なんだわ」
「だから何がだ」
「…この男。でもお袋が兄貴とヤってんの知ってキレてさ、なんか俺のせいらしいんだわ」
「…」
「しょっちゅうお袋の代りさせられてよ、しまいにゃ俺が死ねばお袋が戻って来るとか勘違いしやがってよ、俺を」
悟浄の瞳は既に乾いていた。
もはや涙は訪れない。
現在に引き戻された今、悲しみは奥底に沈み既に腐り始めているのかもしれない。
だが悟浄はここで言葉に詰まり、禁忌の色をもつ瞳を瞼の裏へ隠した。
大丈夫俺はもう子供じゃないし強くなったしあいつは死んだしこれは三蔵の体。
この腕の中にいるのは三蔵、なんだ。
その時初めて、三蔵の指が髪を撫でていることに気がついた。
指先が溶けて、混ざり合う。合わせた胸から、心臓が繋がってひとつになるような。
そんな感覚。
記憶を凍らせ感情を押し殺していた心は、本当は悲鳴に噎せていた。

三蔵は静かに瞬きをし、悟浄の言葉を待った。
戻ったら、これ以上ないくらいの最高のキスをしてやろう。…漠然と思いながら。
殺した男に対しては、何故か何の感情も無かった。
自分を汚いと言い、考え感じることをどうしても放棄できない悟浄を、ただ静かに待っていた。

――――切なかった。