珍しく、予定通りに町へ入った。若干予定していた時間より早かったが、だからといって、先に進んで野宿をしようという気にはならなかったので、速やかに宿を取った。時刻は三時過ぎ。空いていたのは個室が一つと、四人部屋が一つ。当然のように三蔵は個室の鍵を取って、誰かから文句が出る前にさっさと部屋に入った。
それから三十分後。
どうやら連中の部屋は隣らしく、ケラケラと、悟空を構いながら笑う悟浄の声が開け放ってある窓から聞こえる。三蔵は、そこに悟浄が居る訳でもないのに窓を睨み、再び紙面に目を戻した。悟浄の笑い声に混ざって、悟空や八戒の声が微かに聞こえる。
正確に言えば、そうではない。
客観的には、隣の部屋で息抜きをしているらしい三人の声の大きさに、それほどの違いは無いと思われる。強いて言うならば、悟空の声が一番大きいはずだ。三蔵の耳が、勝手に拾ってくるのである。―――――悟浄の声を。
全くもって忌々しいが、どうしようもない。意識すまいとすればするほど、逆に悟浄を意識してしまうことに気が付いた三蔵は、極力どういう努力もしないように心掛けるようにしていた。聞こえるものは聞こえるのだし、目に入るものは入るのだ。それをあるがままに受け入れて、特別な意味を持たせなければいい。
そう、特別な意味を。
目が紙面の端まで来たので新聞をめくろうとした三蔵は、このページの文字が全く頭に入っていないことに気が付いた。大きく息を付いて、最初から読み直す。
その三蔵の耳が、再び悟浄の声を拾った。声の調子から判断するに、何やら文句を言っているようだ。だとすると、相手は八戒だろう。大方、買い物でも頼まれたか、荷物持ちを命ぜられたか。文句を言いつつも悟浄が八戒にかなわないのはいつものことだから、もうすぐ隣の部屋は静かになるだろう。ありがたいことだ。
袂を探り、煙草の箱を取り出す。最後の一本をくわえると、箱をグシャリと握り潰した。大した手応えもないままあっけなく潰れた赤い箱に、別のイメージが重なる。
(馬鹿馬鹿しい――――――――)
三蔵はライターに集中しながら、煙草の先端に火を点けた。ゆっくりと吸い、大きく吐き出す。そうしながら、改めてページの初めに目を滑らせる。
気が付けば―――――――、いつの間にか悟浄の声は、隣室から聞こえなくなっていた。
ノックがその部屋のドアを揺らしたのは、三蔵がようやく新聞を最後まで読み終わった時だった。
もう太陽は光を赤く変え始めている。三蔵がふとその色に気を取られていると、再度ノックの音が響いた。
「入れ」
低く応えるとドアが開き、今の空よりも鮮やかな紅が室内に入ってくる。
「何だ?」
眼鏡を外しながら問うと、悟浄は楽しげな表情で三蔵の側によって来た。
「今、買出し行ってきたんだわ、俺」
「そうか」
やっぱりな、と、思いながら、三蔵は悟浄から視線を逸らした。その逸らせた先に、悟浄が入ってくる。少し屈み込む様にして覗き込んでくる悟浄と目が合ってしまい、三蔵は落ち着かない気分を誤魔化そうとため息をついた。
「それで、何か用か?」
「ほら、お土産」
そう言って渡されたのは、マルボロのソフトパッケージが二つ。ありがたいのはありがたいが、何の魂胆があるのかと、三蔵は悟浄を睨みつけた。
「ジープの中で開けたヤツは、もう無くなる頃だと思ってさ」
悟浄は三蔵の態度を気にした様子も無く、屈託無く笑う。
「で?」
「え?」
きょとんとする悟浄を、三蔵は忌々しげに睨んだ。
「何で貴様がわざわざ持ってくるんだって聞いてんだよ」
「ん?・・・・・・・・・別に?」
大概ふざけた返答なのだが、三蔵はそれ以上突っ込むことが出来なかった。何故なら、そう言いながら悟浄の浮かべた表情が、あまりにも優しげで綺麗な笑顔だったので。思わずそれに目を奪われて動きが止まってしまった三蔵に構わず、悟浄はもう一度クスリと笑うと踵を返した。
「じゃーな、三蔵。夕飯の時に、また、な」
背を向けたままヒラヒラと手を振って立ち去ろうとする悟浄を、三蔵はただ、呆然としながら見送るしかなかった。
それ以来。
三蔵は、悟浄を見ないようにする努力を、しない訳にはいかなくなった。
何故ならば、三蔵が悟浄を見ると、必ず悟浄が三蔵の方を見るのだ。そして、三蔵の目を見つめてニッと笑い、元の方へ向き直る。
それ自体は誰かに何か害のあることではない。もちろん、三蔵自身にだって、何の害も無いはずだ。
だが。
悟浄と目が合う度に落ち着きをなくしていく三蔵自身は、まるで何かの罠にでもかけられているような気分だった。しかも、悟浄が三蔵にまとわり付いているのではなく、三蔵の方が悟浄を意識してしまっているだけなため、どこにも苦情の持ち込みようが無いのがまた癪に障る。
苛立ちの加速と比例して煙草の消費量が増え、八戒に笑顔で当て擦りを言われるのも腹立たしい。三蔵の不機嫌を察知したのか悟空も寄って来ないので、八つ当たりしてストレスを解消することさえ出来ない。
問題の悟浄本人は、相も変わらず気まぐれのように三蔵の側に寄っては、優しげな言葉や、ちょっとした親切をかましては、再び離れて行く。悟浄の存在に慣れてしまった三蔵は、気が付けば戦闘中に背中を安心して預けている自分に気が付いて、愕然としたものだ。
そんな悟浄が、目に入ると腹立たしいのに、視界に入らないと余計に不快だと気付いてしまった三蔵は、もう、自分の感情が何であるのか自覚しない訳にはいかなかった。
余計な感情だとは思う。今の自分にそんなゆとりなど無い。三仏神から与えられた任務のこと、師匠の経文のこと、自分自身のこと。それだけで手一杯で、他人をどうこうするような余裕が自分にあるとは思えない。
だが。
あの紅が欲しいのも、事実なのだ。
やっかいなことになった。
三蔵は久し振りに、今は亡き師匠に縋りたい気分になった。
今夜泊まった宿は、割合繁華な街中にあって、窓を開けると向かいの酒場の喧騒が聞こえてくる。ツインの部屋を悟浄と使うことになった三蔵は、窓に凭れて外を眺めたままで、珍しく三蔵の視線にも振り返らない悟浄の後姿を眺めながら、マルボロをふかしていた。
「おい」
我慢できなくなって呼んでみると、これもまた珍しく、素の表情で悟浄が振り返る。だが、三蔵の視線と出会って、その表情は穏やかな笑みに変化した。
「ナニ?」
「出かけねぇのか」
そう問うと、悟浄の笑みが苦笑めいたものに変わる。
「いいのかよ?三蔵サマ、怒らない?」
「―――――――出かけていいとは言ってねぇよ」
「そんな無茶な」
悟浄が笑う。三蔵は目を眇めて、それを眺めた。
「あー、やっぱ、ちょっとだけ行って来るわ」
「おいっ」
突然立ち上がった悟浄を制そうと、三蔵も思わず腰を浮かせかけた。
と。
「その前にさ、一個、話あんだけど」
「あぁ?」
「まぁ、聞けよ」
座れ、と言いたげなゼスチャーに、三蔵は再びベッドに腰を下ろした。
「ずっと、言おう言おうと思ってたけど、チャンス無かったから」
『ずっと』?
三蔵はギクリと身体を硬くした。まさかとは思うが、三蔵の想いに気が付いて、拒否するつもりだろうかという考えが、頭を過ぎる。
黙ってしまった三蔵に、悟浄は真っ直ぐな笑みを向けている。
「三蔵」
「何だ」
「好き」
え?
「お前が、好き」
何だって?
三蔵は目を瞬かせた。
「三蔵?」
「何だ」
「俺、今、告白したんだけど?」
聞こえた。もしくは、聞こえたような気がする。
「―――――――――――」
言われてみれば、想像してしかるべきだった。そもそも、先に態度が変化したのは悟浄の方だったのだ。その理由を考えても見なかった己の迂闊さに腹が立つ。
しかし、驚きのあまり三蔵が声も出ないまま立ち尽くしていると、悟浄が僅かに首を傾げた。
「返事、くれよ」
構えた様子も、巫山戯た様子もない悟浄の目に、たじろいだのは三蔵の方だった。
「返事、だと?」
「そう、返事」
悟浄が静かに頷く。
三蔵は、ふらり、と立ち上がった。
「てめぇ、俺を―――――」
はめやがったな、と、続けようとして、止めた。結局、はめられた方が馬鹿なのだ。そして、こんなにはまり込んでしまっては、今更どうにもできようはずもない。
色々と、悟浄を遠ざける口実は、思い浮かぶのに。あるいは、その方が三蔵自身や悟浄のためになると、思わないでもないのに。
「おい、悟浄」
「うん」
「俺は、浮気には不寛容だぞ」
「あー、何となくそんな気はした」
複雑な表情ながら、悟浄は大人しく頷いた。そんな悟浄に近付き、思い切りその頭を引き寄せる。
「覚悟しやがれ」
耳元で囁くと、悟浄の腕が三蔵の背中に回される。近年まれに見る穏やかな気持ちで、三蔵は悟浄をベッドに横たえた。
Fin.
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