近所の子供たちと連れ立って夜中に蝉の羽化を見るのだと、前日の夜から悟空ははしゃいでいた。
だが、付きあってられるかと早々に就寝した三蔵は、翌朝、たったひとりで庭の隅の大木を前に蹲る悟空の姿を見つけることになる。

『どうした、悟空?』
『コイツ、なんか変なんだよ。かたっぽの羽が、なんかさ』
『ああ‥‥羽化に失敗したのか』
『失敗?』
『殻から出て、羽が乾く前に落ちたんだな。‥‥そいつはもう飛べない』
『何で!?すぐに戻してやったのに!?』
『柔らかい羽が一度他のものに触れると、そこから固まってしまう‥‥。もう、どうしようもねぇよ』
『‥‥‥‥』
 

 

 

 

空蝉
 

 

 

 

 

茹だるように暑い真夏の日。珍しく悟浄が一人で三蔵の居る寺院にやってきた。
時折、三蔵はこのひょんな事から知り合った紅い髪の男と、その同居人に仕事を依頼する。そのせいもあって、悟浄がここを訪れる事自体は珍しくはないが、八戒を伴わず、しかも特別急ぎの用事も無いのに、不意に三蔵の元に顔を出す事は滅多に無い。

「暑い中来てやった客に、冷たい茶の一杯も無しかよここは」
「誰が客だ。俺は呼んでねぇ」

呼んだとしても茶を入れるつもりも更々無い三蔵が代わりに冷たい一瞥をくれてやって、手も休めず書類に署名していく。相手にして貰えないと悟ると、悟浄は早々に暇つぶしのアイテムを探しに部屋をうろつき始めた。
只でさえ、割れんばかりにがなり立てる蝉の声に苛付き通しだった視界を、暑苦しい紅い色が右へ左へとよぎり、更に三蔵の神経を逆撫でする。

「おい、用がねぇならさっさと―――」
「お。あんなトコでなーにやってんだ、小猿ちゃんは」

いつの間に背後に回ったのか、窓枠に腰掛け、悟浄は外を眺めていた。
その台詞で、三蔵にも悟空が未だ外に居る事が窺い知れた。一体、何をしているのかも。

「‥‥蝉を見てるんだろ」

出ていけという台詞を発する機会を逃した三蔵が、不機嫌も露に答える。
蝉も暑すぎれば辛いはずだと影になるところに移動させてやっていたから、悟空が日射病になる心配はとりあえず無いだろう―――とそこまで考えを巡らせておいて、三蔵はできるだけそっけない口調を作り、成功した筈だ。
だが、悟浄はそんな三蔵の反応にも慣れたのか、特に気にした様子もない。

「子供ってなんでか蝉好きだよな。ってか、お前それ何に使うの?ってくらい抜け殻集めたりしてよー」
「‥‥ここにある」

苦々しげに指された執務机の足元を良く見れば、小さな箱に蝉の抜け殻が山と積まれて置かれている。捨てると悟空が煩せぇんだ、と言い訳がましく三蔵は呟いたが、意外にも悟浄は笑わなかった。

「でも、変でない?アイツずっとしゃがんだままだぜ?」

―――何故そんな気になったのか分からない。

だが気が付けば三蔵は、今朝の出来事を悟浄に話していた。やはり悟浄は意外にも、真面目な顔で三蔵の話に耳を傾けていると思われたのだが。

「ふーん。せっかく長い間くらーい地面の下で頑張ってきて、『さあコレから、ばんばんヤりまくるぞ!』って時に、気の毒だこと」
「‥‥‥‥それしか頭にねぇのか、てめぇは」
「まーね。俺の頭は男のロマンで一杯よ!」

やはりこんな奴に話すだけ無駄だったと、三蔵は無視して目下の仕事に集中しようと机に向き直る。だが、悟浄はお構い無しに『頭と言えばさ』と話しかけてきた。

「蝉ってどんくらい頭働くと思う?『どーして自分だけ飛べねーんだろー』とかずっと考えてんのかねぇ」

‥‥‥‥真面目に答えるのも馬鹿馬鹿しい。

どうして自分がこんな奴の話に付き合ってやってるのか不思議でならなかった。とある事件で知り合ってからまだ幾許も無いこの男は、何もかもが自分と合わない。いい加減で軽薄で単細胞で。

「俺が知るか!」

「‥‥‥‥だよな」

不可解な感情をねじ伏せるように吐き捨てた三蔵の返答に、悟浄は静かに同意した。その様子に違和感を覚えた三蔵は振り向こうとしたが、妙なプライドが頭を擡げて思い留まる。
こいつの与太話は今に始まった事じゃない。いちいち振り回されるのはごめんだ――――。
三蔵の葛藤を知る由も無い悟浄は、らしからぬ静けさのまま言葉を続ける。

「多分、テメェが他の連中と違ってるって気付かねぇままなんだろな‥‥死ぬまでさ」

ま、それはそれで結構幸せなんじゃねぇの。

小さく付け足された台詞に、隠しきれなかった重く苦い物を感じてつい振り向いてしまった三蔵だったが、悟浄は既にその話題からは興味を失ったらしく、窓辺から離れると暑い暑いと文句を言いつつ勝手に水差しから水を飲んでいる。

いい加減で軽薄で単細胞で――――。だが、どんなに衝突しても何故か自分からは『二度と来るな』と言えない男。

その横顔が案外幼いのに、三蔵は初めて気がついた。
 

 

『だってこいつ‥‥何にも悪い事してないのに』

諦めろ。そう告げた三蔵に、悟空が呟いた言葉が何故か不意に思い出される。
 

 

悟浄は部屋の隅のソファに陣取ると、断りもなしに煙草を取り出した。聞かれもしないのに、最近の八戒との会話だとか博打で当てたとかくだらない事ばかりを矢継ぎ早に話し始める。

 

悟浄が何を誤魔化そうとしているのかは、考えないことにした。
何故、悟浄は一人でここを訪ねて来たのか。何故、それを自分は許容したのか。
そして、あんなに喧しく感じていた蝉の声が、今は全く気にならないことの理由も。

 

喧しいはずの部屋の中、足元で空蝉の山がかさりと崩れた音だけが、三蔵の耳に響いた。

 

 

―――それは彼らが出会ってまだ間もない頃の、夏の一日。
 

 

「空蝉」完