(うわああああ、どうしちゃったんだよ、俺ぇぇぇ?)
とある宿の一室で、俺――沙悟浄はベッドの上をゴロゴロと転がっていた。顔が熱い。
(何なんだよ?たったアレくらいの事で〜!)
それは、ほんの数分前のこと。
「随分、賑やかですね。お祭りでもあるんですか?」
チェックインの用紙に書き込みながら、八戒は受付の娘に尋ねた。もちろん、営業用スマイルである。
「いえ、今日は名主様のお嬢さんの結婚式なんです。だから街中でお祝いを」
どうやら、ここの名主は街の人々に好かれているらしい。娘の口ぶりからそれが伺える。
もうすぐ花嫁を乗せた山車が街中を走る。美しさで評判の名主の娘をひと目見ようと、沿道に人が集まっているのだと宿の娘は教えてくれた。
「へぇ〜。美しさで評判の娘ねぇ。じゃ、ちょっくら俺も見てきますかね」
相変わらずの軽口を叩く俺の隣、三蔵は無関心な素振りで突っ立っていたのだが。
不意に宿の娘の視線が三蔵に注がれた。
「あら、お客様‥‥髪に」
指摘されるまで気付かなかったが、三蔵の髪に、光るものが付いている。八戒が笑みを浮かべて、手を伸ばした。
「紙吹雪の切れ端ですね‥‥誰かが用意したものが風で飛ばされたんでしょう。動かないで。今、取りますから」
す、と八戒の手が三蔵の髪に触れた瞬間。
俺は部屋の鍵を掴むと、階段を駆け上がっていた。
お祝いの爆竹がパン、パンと鳴っているのが遠くで聞こえる。パレードが始まったようだ。
だが、今の俺はそれどころではなかった。
(ま、まさかまさかまさか、これって‥‥)
今まで、自分には存在しないと思っていた感情。例え情熱的な一夜を過ごした相手が、翌日違う男と歩いていたのを見かけても、毛ほども湧かなかった感情。
(嫉妬、ってやつ?マジ?勘弁してくれよぉ〜!)
頭を抱えながら、目を閉じれば、途端に浮かんでくる先程の情景。
言うまでもなく三蔵も八戒も、かなりな美貌の持ち主である。どの街でも、必ずと言っていいほどに意味ありげな視線を浴びる。勿論、本人たちは完全無視しているが。
その二人が並んで立つと、なにか近寄りがたいほどのオーラを感じる。
さっきもそうだ。
優しい笑みで三蔵を見つめる八戒と、軽く目を伏せ八戒の指を受け入れる三蔵。
嫌だ、と思った。
しっかりと思い出してしまった俺は、再びベッドに突っ伏した。動悸が、治まらない。
(何考えてんだ、俺!相手は八戒だぞ!どうって事ねーだろ、あんなの!)
親友の心に誰が住んでいるのかなんて、とっくの昔に気付いてる。
三蔵が誰を想っているのかなんて、確認でもしようものなら殺される。
なのに。
普段はあまり自分からは人に触れようとはしない八戒が、三蔵に手を伸ばした。
人に触れられるのを極端に嫌う三蔵が、八戒の手は振り払わなかった。
それだけのことなのに。
今まで、三蔵からそういった感情を示されたことが無いとは言わない。
正直、嬉しかった。
(そりゃ当然だよな、俺、三蔵のものだし。なのにフラフラ出歩いてナンパなんかしてたら、そりゃあ怒るわな。俺にとっては、挨拶みたいなもんだけど、三蔵にそれを理解しろってのは無理だろーなぁ。堅物だから)
街で見かけるイイ女への礼儀と称する自分の行動を、仏頂面で咎める姿を思い出して俺は少し笑った。
(けど、三蔵は――違うだろ。俺のものじゃない、つーか、俺だけのもの、じゃないんだよな。俺一人があいつを独占するなんてわけにゃいかねーよな)
自分は、三蔵を必要としている大勢の中の一人でしかない。それがたまたま恋愛対象としてだった、というだけのことだ。
今は、三蔵の恋愛感情が自分に向いている。それで十分なはずだった。
(そーだよ、三蔵の心の一部が俺で占められてるなんて、スゲー事だろーがよ?いいだろ、それで。それ以上、何を望むことがあるんだよ?たとえ‥‥たとえ、ずっと続かなかったとしても、もう一生分は貰ったじゃねーか?)
いつか、三蔵が自分から離れていくことがあったとしても、それは「いつか」の話だ。
明日かもしれないし、そんな日は来ないかもしれない。逆に、一時間後にやってくるかもしれないのだ。
分からない未来の心配をするのは、もう止めた。だから、三蔵の側にいられる。
それが許される、ギリギリの瞬間まで。
(俺、いつからこんなに贅沢になったんだろ‥‥‥)
そして、いつからこんなに貪欲になったのだろう。
最初は、手に入る筈が無いと諦めていたのに。
あいつに手を伸ばしてもらっただけでも、夢のような事だったのに。
あいつに触れる全てが許せないなんて、図々しいにも程がある。
縛り付けて、相手の自由を奪って、自分だけの側に置きたいという――醜い独占欲。
自分には欠けていると思っていた感情が、次々と沸き起こってくる。
その度に思い知らされる。自分はただ、知らなかっただけなのだと。なりふり構わず求めたい相手に、出会っていなかっただけだという事を。
(三蔵のやつ、変に思っただろうな)
気付かれただろうか、この醜い感情に。呆れられただろうか。
聞きなれた足音をたて、廊下を歩く音がする。今夜は一人部屋が取れたので、この部屋には用事は無いはずだ。大丈夫、あいつは来ない‥‥はず。
しかし、悟浄の期待も空しく、その足音は悟浄の部屋の前でぴたりと止まった。ノックもそこそこに、ドアが開かれる。
足音が止まった時点で、俺はシーツにくるまっていた。今は顔を見せたくない。
「おい」
「‥‥‥」
返事ができない。
「俺を無視するとはいい度胸だな」
ヤバイ、近づいてくる。三蔵を制するつもりで、俺はシーツの中からくぐもった声を出した。よかった、多少の声の調子は誤魔化せる。
「悪ぃけど、俺、今一人の時間を楽しみたいのよ。妖怪でも来たら起こして。じゃ、オヤスミ」
なるたけ平静な声を出してみる。今はとにかく顔を見られたくない。
多分、すっげー情けない顔してる。絶対、呆れられる。
笑われるならまだいいが、ヘタしたら―――軽蔑、される。
こんな浅ましい感情が自分にあるなんて。知られたくない、こいつにだけは。
ぎゅうう、とますますシーツを硬く握り締め、必死に丸くなった。だが三蔵はその場を立ち去ろうとはしない。それどころか、覆い被さるようにベッドに乗り上げ、耳元で話し掛けてくる。
「顔、見せろ」
「絶対ヤだね」
「何でだ」
(言えるかよ。あーもう、出てってくれよ三蔵、お願いだから)
俺の胸の内などお構い無しに、奴は尚も言葉を続けた。
「少しは、分かったか?なら、これからは八戒とベタベタすんな」
「はあ?」
何言い出すんだ?何で俺と八戒?だってさっきはお前が八戒と‥‥‥。それにこの状況と何の関係が?
いきなり、訳のわからないことを言われて、俺はついシーツを掴む手を緩めてしまった。その隙を逃さず、三蔵にシーツを剥がされ、顔を覗き込まれる。
「‥‥‥見んな」
「断る」
てっきり冷ややかな目で見下ろされていると思ったが、その表情は存外に優しくて。
あ、れ?なんか、三蔵‥‥機嫌いい?
突然、キスが降って来た。
額に、瞼に、鼻に、頬に―――
もしかして、ニセモノか?と一瞬疑うほど、そのキスは優しくて。
思い切って、尋ねてみた。
「あ‥‥のさ、三蔵、嫌じゃねぇ?こーゆー俺。なんか、勘違いっつーか」
「違わねーだろ。やっと人並みになったって所か」
「人並みって‥‥何がだよ」
「どう思った?」
「あ?」
質問には答えず、また急に違う問いを返す三蔵に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「さっき、俺と八戒を見て、お前どう思った?」
「‥‥ムカついた」
あ、しまった。三蔵が真面目な顔で聞くから、つい本当のこと言っちまった。
「だから、それが人並みだろ」
‥‥やっぱり、分からない。普通なのか?これが?‥‥‥‥でもさ。
お前と俺って、普通じゃねーだろ。普通を望んじゃマズいだろ。
十分じゃん、もう。
高望みにも限度ってのが、あるよな、やっぱ。うん。
お前を俺だけのものにしたい、なんて。
浅ましくて恥ずかしい、勘違い。
「あー、もう勘弁して?俺が悪かったから、忘れてよ。ゴメンなさい、三蔵様v」
この話を終わりにしたくて明るく言ったはずなのに、三蔵の表情が少し曇った。それは多分、俺にしか分からないぐらいの、こいつの最大級の「悲しい」顔。
何故、そんな顔するんだ?
俺、何か変なこと言ったか?
「‥‥違ってねぇ、つってるだろ‥‥」
「?」
分からない、何もかも。
軽蔑されると思っていたのに、妙に機嫌が良かった理由も。
優しくキスしてくれていたのに、急に悲しい顔をした訳も。
戸惑う俺の瞼に、もう一度軽く唇を触れさせると、三蔵は言った。
「教えてやるよ、じっくりな」
何故だか、三蔵のほうが泣きたそうな顔をしていた。
慰めてやりたくなって、俺は奴の頭を抱きかかえ、髪を撫でた。
「Imprinting」完
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