『なぁ、今度の初日の出、一緒に見に行こーか。酒でも持ってさ』
『てめぇがそんな時間に起きられんのか?』

あれは確か、まだ山々が新緑に覆い尽くされた初夏の夜。
それは、他愛ない閨での会話。
朝になればすっかり忘れている類の、ほんの些細な睦言の、ひとかけら。
 

 

 

 
「初日―Hatuhi−」
 

 

 

 
三蔵が、捕まった。
 

とは言っても、牛魔王の刺客にでも、ましてやそこいらの妖怪にでもない。しかしある意味、妖怪より余程性質の悪い――――"寺の坊主たち"に捕獲されてしまったのだ。

折りしも正月まであと数日を数える、という年末に、なまじ大きめの町に差し掛かったのが運の尽きだったとも言える。賽銭だ祈祷料だと、一年の内で最も寺が潤うこの時分、最高僧が通り掛ったのを黙って見逃すほど、町の寺院は甘くは無かった。

「俺は先を急いでいる」

いつものフレーズで取り合わない三蔵だったが、病身をおして出て来たという老齢の高僧に涙ながらに縋られ身動きが取れない。

「身共の寺にお越しいただけるまでは、お放しいたしませぬ!どうしても先へと仰るのならば、この爺の屍を乗り越えてお行きなされませ!」

―――――この狸ジジィが!

わなわな震える拳を握り締めながらも、時折けほけほと大袈裟に咳き込む老僧にまさか手を上げるわけにもいかず、苦い表情のまま立ち尽くす三蔵。
滅多に目にする事の出来ないその姿を目の当たりにして、他の三人は笑いを堪えるのに必死だった。

「行ってやんなよ、三蔵。かわいそーじゃん」
「そうですよ、こんなにお願いされてるのに」
「そうそ、俺らの事は心配すんなって。お前の分までしっかり飲んどいてやるからさ」

「貴様ら‥‥‥」

完全に他人事だと傍観を決め込んでいる三人は、どう見てもその状況を楽しんでいて。悟浄にいたってはわざとらしく手を合わせて三蔵を拝むポーズを取るあたり憎々しい。

そうして、三蔵はひらひらと手を振る三人に快く送り出され、急に健康すら取り戻した様子の老僧にずるずると引き摺られて行ったのだった。
 

 

 

ゆく年を惜しむ人々の歌声は、次第に、くる年を祝うそれに代わり。

そして、年が明けた。

町中が新しい年に浮かれ、真夜中だというのに人通りが減る気配は無い。
悟浄、八戒、悟空の三人もやはり大通りへと繰り出し、人々と共に騒ぎ、飲み、食べ、お祭り騒ぎの中で新年を迎えた。
すっかり眠りこけた悟空を引き摺るように宿へと戻ったのは既に明け方近く。そのままそれぞれの部屋で休むために解散したが―――――すぐに悟浄は、再び宿を抜け出していた。
 

 

もうじき、夜が明ける。悟浄は自然と駆け足になっていた。
目指したのは、先程一緒に飲んだオヤジに聞いた、この町一番の初日の出のスポットである町外れの岩山。山頂付近までまで一気に駆け上がれば、流石に息が荒くなる。そこは既に人が溢れかえっていた。この町一番、というのは嘘ではなかったらしい。

(うげ〜。すっげぇ人込み〜)

うんざりしながら呼吸を整える。ふと気がつくと、ここは正確には山頂ではない。横手にそびえる切り立った崖に沿って見上げれば、崖の上にも木が生えているのが伺える。どうやらまだ上にも平地があるようだ。だが、四方が剥き出しの岩盤で足掛かりも無く、誰も登ってはいない。
ものは試しとばかりに、こっそりと鎖を取り出すと目を凝らして距離を測り、崖の上に向かって放つ。木の幹に鎖が絡まる手応えを受け、するすると壁をよじ登った。下から驚嘆と羨望の声が聞こえるが、取り合えず無視しておいた。

(おおっ、いい感じ♪)

誰にも荒らされた形跡の無いそこは、十分な広さと申し分の無い見晴らしの良さ。満足した悟浄はどっかりと腰を下ろし、用意していた徳利をどん、と前に置く。

今頃、酒も飲めず不機嫌に経でも上げているだろう仏頂面の金髪美人を思い出し、ひとり笑った。
 

 

 

あれはかなり前だったと思う。いつもと同じように身体を重ねた後、どこからそんな話題になったのか、年末年始の寺の行事について話した事があった。

『大晦日には、夕方からその一年の不幸を浄化する儀式が執り行われる』
『へえ、例えばどんな?』
『本堂で読経の嵐だ。おまけに年が明ければ新年を祝う行事がある。新たな一年間の五穀豊穣と無病息災を祈る信者を集めて、読経と祈祷が延々と昼まで続いて、それから‥‥‥』
『‥‥もお、いいです』

想像するだにゲッソリする話だと枕に突っ伏すと、俺は実際にゲッソリしてんだよ、と忌々しげに呟かれた。それが可笑しくてつい吹き出すと、途端に拳が飛んでくる。その反応も、何となく楽しかったのだろう。気がつけば、ふと浮かんだ思い付きを口にしていた。

『そんなんじゃお前、ご来光なんか拝んだ事ねーだろ。よーし!なぁ、今度の初日の出、一緒に―――――』

痛む後頭部をさすりながら、それでも笑って奴を誘った。
 

 

 

(やっぱ、覚えてねぇだろーなぁ)

はっきりとした約束を交わした訳ではないし、三蔵から了承の返事すら貰っていない。その話題もそれ以来二人の間に上る事は無かった。
自分ですら、数日前に突然思い出したぐらいだ。これで三蔵に覚えていろ、というのは無理な相談だ。

けれどなんとなく、今年は日の出を見たかった。
去年の今頃とは変わっている筈の自分なら、見られるんじゃないかと思った。
 

 

実は、悟浄には初日の出に少しばかり思い入れがあった。

いつだったか、母親と兄との三人で、やはり初日の出を見に行った事があった。『三人で』出かけたという事が無性に嬉しくて。母はやはり自分を向いては笑ってくれなかったが、弁当はちゃんと三人分作ってくれていた。そんな事が、ただ嬉しくて。何をしたわけでもない、ただ昇る太陽を眺めに行っただけなのに、やけに楽しかったのを覚えている。
日の出なんていつ見たって同じだと思っていた筈が、その時の太陽は特別に綺麗に見えた。
 

それ以来、初日の出は見ていなかった。あの時の美しい太陽が精神的な作用によるものである事を自覚している以上、他のどんなシチュエーションでそれを見たとしても、幻滅するしか無いと分かっていたからだ。――――けれど。
 

あいつとなら、どんな日の出でもいいかも、なんて。
 

 

ほのかに白み始めた空が、山の稜線をくっきりと浮かび上がらせる。太陽が昇る直前の凍てつくような冷たさが、吐く息を白く染め上げた。

もっとちゃんと誘っていれば、今頃は一人で居ずに済んだのだろうか。でもそれを口にするほど自分は可愛らしい性格でもなくて。ガキ、と笑われるのも悔しい話だ。
取り合えず今回のところは、『今までとはちょっと違う自分』の確認のために、一人でも良しとしよう。初日の出を見ようと思えるようになった自分はきっと、僅かでも前へ進んだ筈なのだから。

「‥‥さみぃ」

頭を振って薄く笑うと、悟浄は明るくなってきた方角に杯を掲げ、酒を口に含む。
何故だか、少し苦い味がした。
 

 

 

ぽと。
 

幾度か杯を重ねたところで、何かが横に落ちた音。咄嗟にそちらを見るが―――別に何も無い。すると今度は目の前に、それは降って来た。ころころと転がり、止まる。
 

「‥‥‥?」
小石だ。
 

ぼとっ。
 

また降って来た。今度は、幾分大きめの石。―――そして。
 

 

ぼとっ。ぼとぼとぼとっ。どすっ。
 

「どわ!?」
 

立て続けに、結構な大きさの石が下から投げ付けられてくる。薄明かりで距離感がつかめないのか、時折悟浄の鼻先を掠める勢いで飛んでくる石もある。しかも、徐々に大きくなっているようだ。

「誰だ!危ねぇな!」

誰の悪戯か、とりあえず伏せた体制で崖っぷちまでにじり寄り、下を覗き込んだ。
場合によっては降りていってボコ決定、と息巻いた悟浄の視線の先に飛び込んできたのは―――僅かな明かりを一身に集めたような金色を纏う、最高僧の姿。

「え‥‥?」

突然の三蔵の登場に、悟浄も、周りの人々も、固まったように動かない。
やがてざわめき出した人込みは全く気にならないのか、視線を上に向けたままの三蔵は、未だ固まり続ける悟浄の様子に軽く舌打ちをした。
 

「さっさと鎖下ろせ馬鹿河童!日が昇っちまう!」
 

 

 

 

「何とか間に合ったな」

涼しい顔で悟浄の隣に座る三蔵に対し、俯いた悟浄は肩で大きく息をしている。鎖で三蔵を引っ張り上げる形となった悟浄は、ぜえぜえと荒い息で切れ切れに言葉を紡いだ。

「なん、で、おま、寺、は」
「抜けて来た」
「少し、は、自分の、立場っ、てもん、を」
「煩ぇ。てめぇだってそのつもりだったんだろ?さっさと寄越せ」

悟浄が使っていた物とは別に、もう一つそこに転がる猪口。誰と酒を酌み交わす予定も無い筈なのに、つい二つ掴んで宿を出てきてしまった。無意識に期待していたらしい。
呼吸を整えるのに必死の悟浄にじろりと一瞥をくれると、三蔵はひったくる様に徳利と猪口を拾い上げ、勝手に飲み始めた。

「覚えて、たんだ‥‥‥」
「ふん」

お前が覚えてるのに俺が忘れるわけねぇだろうが。
ちらりと盗み見た三蔵の横顔は、いつものように憮然としていた。
そっけない言葉、そっけない表情。けれど、それが何よりも悟浄の心には響いてきて。
いつの間にか寒さを忘れていた。
 

 

「そろそろだ」

三蔵の声に、慌てて悟浄は三蔵の視線の先を追いかけた。――――ほどなく稜線が輝き、まばゆい太陽が顔を覗かせる。

いつの間にか明るさが増した東の空に、今まさに日が昇ろうとしていた。

あちこちから祈りの声が上がり、その場は一種荘厳な空気に包まれる。その光が完全にその姿を現すまで、三蔵と悟浄は微動だにせず、ただじっとそれを見詰めていた。
 

 

 

『江流、江流。ちょっといらっしゃい。初日の出を見に行きますよ』

それは、まだ三蔵が幼い頃の、元旦を迎えた寺での話。
何やかやと忙しい行事をこなしている筈の師が、身を潜めた柱の陰から小声で自分を呼んだ。

『実は秘密の穴場を知ってるんです。本堂の裏の壁に穴があいてるの知ってます?そこから上に行けるんですよ、すごいでしょう!皆には、内緒ですよ〜』

悪戯っ子のように目を輝かせる師匠に口では文句を言いながらも、そのままこっそり抜け出して、その年の初めての日の出を二人して眺めた。刺すような冷気が身を包んでいる筈なのに、何故だかそれを少しも嫌だとも思わず。
ほっこりと温かい何かが胸に湧いてくる気がして師を見上げれば、優しい瞳がこちらを向いていて。
二人で顔を見合わせて、笑った。
 

それ以来、機会はあったが、初日の出は見る気になれなかった。自分にとっては生涯、師と見たあの時の日の出があれば良い。他のを見てしまうと、師との思い出が壊される気がして、嫌だったのだ。――――けれど。
 

こいつとなら、師とはまた違う光が見られるのかもしれない、なんて。
 

 

 

視線を感じて隣に目をやると、悟浄が眩しげに目を細め、三蔵を見詰めている。

「何だ?」
「いんや」

照れたように前を向く悟浄の横顔は、すぐに長い髪で覆われてしまったけれど。その緋色が光を受けて、眩しいほど鮮やかに輝いている。

綺麗だ、と三蔵は素直に思った。

その輝きに手を伸ばすと、悟浄は少し驚いた顔をして、そして笑った。お返しとばかりに、三蔵の髪に触れてくる。その表情に、三蔵は悟浄もまた自分の髪に触れたかったのだと知った。
悟浄の髪を梳いていた三蔵の指がそのまま顎のラインをゆっくりとなぞる。と、それが合図だったかのように、悟浄が笑いながら顔を近づけてきた。
 

美しい初日の輝きに照らされて、二人はゆっくりと唇を重ねた。
奪い去るような口付けではなく。互いに与え合うように、慈しむように。
何度も何度も、繰り返される口付け。
降り注ぐ日の光に抱かれて、二人はいつまでもその場で互いを感じていた。
 

 

それは、初日の新しい思い出。
過去を消すためではなく、新しく積み重ねるための、未来へと続く思い出。
 

いつか見たあの時の日の出とは、また何かが違う美しさと安らぎをもって。

最高の輝きが、二人の心に刻まれた。
 

 

「初日」完