思い出すのも身の毛のよだつ話だ。
 

ぎゃあああああああ!
 

三蔵の法衣を割って侵入してきた悟浄の手が双丘を撫で、更に奥へと進もうとした時、三蔵は思わず叫び声を上げていた。だが悟浄は気にした様子もなくどんどんと手を進めてくる。

「調子に乗ってんじゃねーぞ、クソ河童!」

一瞬の隙を突き繰り出された三蔵の拳が、悟浄の顎にめり込んだ。

「――――ッ。やってくれんじゃねえの」

口の中を切ったのだろう、ぺっと血を吐き出しながら悟浄は不敵に口元を吊り上げる。

「そんなに嫌?」
「決まってんだろっ!」

薬の影響丸出しの悟浄は、それでも強引に事を進めようと圧し掛かってきた。

「‥‥ま、でもヤっちゃうんだけどー」

決死の思いで暴れまくった挙句、咄嗟に掴んだ枕元の本で悟浄をしこたま殴り、最終的には思いっきり蹴りを食らわせて三蔵はようやく難を逃れたのだが―――。
 

 

 

 

 

Happy Medicine 1.5
 

 

 

 

 

ふと、三蔵の僅かに浮上した意識が、部屋の中に漂う他の誰かの気配を捉えた。
カーテンを閉め切った部屋はまだ日中であろうに薄暗く、三蔵の時間の感覚を狂わせている。心地よいまどろみの誘惑を断ち切って、気配の主へと顔も向けずに問いかけた。

「何時だ」
「二時過ぎ。ど?ちょっとはマシになった?」
「‥‥まあな」

軽い口調の中に隠しきれない自分への心配を感じ取った三蔵は、胸の奥に生じた良心の呵責を気取られないように曖昧に返事する。
安堵したのか何だかんだと話しかけてくる小うるさい声に面倒臭げに寝返りをうてば、視界に入ってきた紅い瞳は穏やかに、それでいてどこか物憂げな光を湛えて、三蔵を見詰めていた。
 

 

 

悟浄に薬を盛り、乱れさせてみようという不埒な計画が実行されたのは、夕べの事。ものの見事に返り討ちになった三蔵に、宿の主人の誤解からあらぬ嫌疑が掛けられたのは、つい今朝方の事。

結局、その日の出立は見送られていた。

昨夜の悟浄との攻防戦で一睡もしていない三蔵の、肉体的かつ精神的な疲弊が凄まじかったため、この宿での延泊が決定されたのだ。
無論、悟浄にはその原因は伏せられた。『三蔵の体調が悪いから』という事だけが伝えられている。
嘘ではないですからいいでしょう、と八戒は苦笑いを零していた。
 

 

「けど、悟浄さんビックリ〜。オニのカクランってヤツ?」

コイツ絶対漢字で言えてねェ。そんな事を薄ぼんやりと思いつつ、側にいた、いつにも増して多弁な男を引き寄せる。結果だけを見れば、大騒ぎして体力を無駄に使った挙句に、夕べは何事も無く終わった訳だ。三蔵の細胞が、悟浄の不足を訴えている。

我ながらイカレてやがる―――。

そう思いはするものの、引き寄せた手を緩めようとは思わない。

「‥‥‥」

悟浄は、何も言わなかった。
普段なら真っ先にあるはずの口だけの抵抗が―――例えそれが照れ隠しのための憎まれ口だとしても―――全くない。されるがまま大人しく腕の中に納まるその紅い髪が、三蔵に些細な違和感を感じさせた。抱き寄せた瞬間、僅かに強張った悟浄の身体が、その違和感を助長する。
今朝、食堂でひと悶着あった件に関しては、『宿の親父の勘違い』で押し通し、一応の決着をみた筈だが―――。

「まだ気にしてんのか」
「ん〜?」
「八戒とは何でもねぇ」
「‥‥バーカ、はなっから信じてねーよ」
「なら、何だ」
「あ?何もねーよ」
「嘘つけ」

このまま放っておけない気がするのは、自分に後ろめたい事があるからだろうか。そんな三蔵の内心の自問に気付く筈も無く、悟浄は珍しく深く追求してくる三蔵に宥めるような視線を投げた。

「気にすんなって。もう、終わったし」

目の前には、いつもどおりの悪戯っぽい瞳。このまま黙っていれば、何事も起きなかった事になるのだろうが。

――――また、自分だけで完結しちまいやがった。

三蔵の眉間に皺が寄る。もっと必要とされたくて怪しい薬にまで手を出してみたのに、結局は何も変わらずじまいだったようだ。
にわかに急降下した三蔵の機嫌を読み取ったか、僅かに身体を離し、探るように様子を伺う悟浄の瞳はやはり穏やかだった。

「‥‥さんちゃーん」
「‥‥‥‥」
「怒った?」
「‥‥‥‥」
「どーしたワケ?いつも気にしねぇのに。やーっぱまだ具合悪ィんでないの三蔵様?」

あくまでも茶化して誤魔化そうとする悟浄を三蔵は睨みつける。

冗談じゃない。普段は気にしてないのではなく、気にしている素振りを見せないだけだ。どんなに躓いても一人で立ち上がるこいつの強さを信じて。すぐに手を伸ばしたくなる自分の弱さを必死で諌めて。

「‥‥‥‥」

腹立ち紛れに、出来る限りの威圧を込めて無言で言葉を促す。
三蔵がいつになく諦めるつもりがないらしいとようやく悟った悟浄は、軽く息をついてゆっくりと身体を起こした。

「‥‥‥マジ、くだらねー話だぜ?てめぇが聞くっつったんだから怒んなよ?」
「聞いてから決める」

やれやれ、と悟浄は煙草を取り出し―――だが、火はつけず所在なさげにくるくると弄んだ。一応は病人という事になっている三蔵への気遣いだろう。

「じゃあ言うけど。‥‥なんかなー、懐かしい夢、見ちまって」

三蔵の横たわるベッドの端に両肘を突き、手の中の煙草に視線を落とす悟浄の声からは、何の感情も読み取れなかった。

「旅に出る前‥‥、いや、お前とこうなる前か。よく見てた夢」

事実だけを、ただ淡々と話している―――それだけのように見える。
だが、悟浄がそういう口調で話す時は、何かしらの感情を抑えている時なのだと、三蔵は既に知ってしまっていた。

「‥‥で、その夢ってのが、よ」

ちらり、と悟浄が三蔵の顔を見る。それを訝しいと三蔵が思う前に、悟浄の言葉が続けられた。

「俺、お前抱いてた。夢ん中で何度も何度も」
「―――なんだと?」

予想外の告白に、思わず瞠目する。予想通りの三蔵の反応に、ケラケラと悟浄は笑った。思わず睨みつけたが、必死で笑いを堪える姿がムカつく事この上ない。

「だーから、怒んなって!その頃は、まさかお前とこーゆーコトになると思ってなかったし。とーぜん自分が受け手に回るなんて、それこそ想像もしてねェし?‥ま、そんなこんなで悶々としたりした日もあったわけよ」

やっぱ、この辺で聞くの止めとく?などとふざけた口調で聞いてくる紅い瞳を三蔵がじろりと一瞥すると、悟浄は大袈裟に身を竦めて話を続ける。

「なのにオマエってば俺の気も知んねぇで堂々と夢に出てきやがってよ。目の前で片肌脱いだりすんだぜぇ?勘弁してくれっつーの」
「知るか。勝手に脱がすな」

ハハ。と短く悟浄は笑った。そして、そのまま口を噤んだ。

うららかな午後の光を遮断した薄暗い部屋を、沈黙が漂う。どこか遠くから、物売りの声が僅かに聞こえてきた。そう言えば、カーテンは閉めていたが、窓は開けたままだったのだと三蔵は気が付いた。目を閉じ、流れ込む微かな風を感じ取ろうとしてみる。
 

決して、三蔵は続きを促す真似はしなかった。
悟浄が話し始めるのを、ただじっと待っていた。

 

「‥‥‥けど、ぜってー嫌がんだわ、お前」

やがて、ぽつりと呟かれた悟浄の言葉。
虚を突かれた三蔵は目を開いたが、悟浄は三蔵を見てはいなかった。
三蔵でもなく、手にした煙草でもなく。遠い過去を、夢の世界を、悟浄は一人で見詰めていた。

「そりゃもう滅茶苦茶に抵抗されて。それでも俺、お前を力ずくで組み強いて」

現実だったら生きてねぇな、俺。相変わらず微妙に視線をずらしたまま、悟浄はまた笑う。型に押したような笑顔で。
恐らくは、今も目の前でその光景が繰り広げられているのだろう。

「せっかくの夢ん中だってのに、マジ、毎度毎度すっげーヤな顔して俺んコト‥‥」

はっとしたように、悟浄はそこで言葉を切った。
繕う様に口の端を持ち上げると、三蔵に軽く肩を竦めて見せる。

「はっ、くだらねー夢だって言いてぇんだろー?だから、そう言っただろーが。‥‥ハイ、忘れた忘れた!」

話は終わったと、悟浄はひらひらと手を振った。
 

 

―――マジで、くだらねぇ。

正直、そう思う。

そもそも三蔵が自分を拒むだろうと、勝手に思い込んでいたのは悟浄である。挙句、勝手に夢を見て勝手に傷付いて勝手に落ち込んで。自虐趣味にも程があると心底思う。
実際悟浄も、そんな自分を情けないと思う気持ちがあるからこそ、再び見た過去の夢を笑い飛ばそうと三蔵に話したのだろう。

だが、『阿呆な夢見てんじゃねぇよ』と呆れてやる事も、『夢見ずに済む世界へ旅立たせてやろうか?』と茶化してやる事も、『馬鹿じゃねぇのか』と鼻で笑ってやる事すらも―――――三蔵には出来なかった。

何故なら、悟浄が夕べ見たと思っているそれは。

夢ではなく、実際に起こった現実だったからだ。

 

『嫌?』
『決まってんだろっ!』

 

間髪入れずに返された三蔵の答えに、ほんの一瞬悟浄が表情を凍りつかせた事を。その時の三蔵には気にとめる余裕すらなく、不覚にも忘れ去っていた。

幼い頃から悟浄が抱える、拒絶に対するトラウマ。
三蔵の手を取って、少しずつそれは薄れていると傍目にも見えていた。
例えそれがどんなに僅かな歩みだったとしても。歩みの途中で幾度と無く転んだとしても。それでも少しずつ少しずつ、確かに前に進んでいる筈だった。

だが、他ならぬ三蔵自身が悟浄にそれを思い出させた。求めた相手に拒絶される悲しみを、手を振り払われる痛みを、再び悟浄に味あわせたのだ。
 

「なー‥‥触れてもイイ?‥‥なーんつって」

どこかで聞いた台詞に返す言葉がない。
殊更に茶化した言葉で陽気に振舞う悟浄に、動揺を気取られない様に頷くのが精一杯で。
だが、それでも頷いた瞬間、悟浄がほっと安堵の息をついたのを、三蔵は見逃さなかった。

「へへっ」

何も知らない悟浄は、ただ嬉しげに三蔵の肩口にすりすりと頬を寄せてくる。
所詮は夢だと、自分に言い聞かせるように。こちらが現実だと、確かめるように。

その仕草があまりに幼くて。
三蔵は思いきり、後悔した。
 

 

 

「ああ、そういや。三蔵が起きたら悟空が教えろって言って‥‥」

気が済んだのか、悟浄が身を離して立ち上がろうとする。だが、三蔵はそれを許さなかった。さらに引き寄せ、瞼に唇を落とす。そして頬にも、額にも、鼻梁にも。

「お、おい」
「俺にも触れさせろ」

突然の三蔵の行動に戸惑う悟浄の唇にも、軽く。
ただ触れるだけの口付けを、何度も何度も繰り返す。
 

夕べの分も。過去の夢の分も。お前が話さない幼い頃の出来事の分も。
―――今まで受け続けた拒絶を慣れたと哂うお前が望むなら。

俺がお前に触れてやる。

 

 

しばらくすると悟浄がふっと身体の力を抜いた。されるがままに口付けを受け止める。
何気なく気付いた三蔵の髪の乱れに手を伸ばしたが、触れる直前、悟浄は何故か躊躇った。宙をさ迷う悟浄の指を、三蔵が静かに捕らえて引き寄せる。黙って指先に口付けると、悟浄は少し困った顔をした。

「今日‥‥やっぱヘンだぜ?お前」
「そうか」
「ちょーし狂うっての」

それでも口付けを止めずにいると、悟浄が不意に三蔵の胸に顔を押し付けてきた。

縋るように背に回された手に、いつもより僅かに力が込められているのを。
その指先が、ほんの少し震えているのを。

三蔵は気付かないフリをして、抱きしめた。

 

ただ強く強く、抱きしめた。
 

 

「Happy Medicine1.5」完